第7話 #4

#4


 というところで、資料室から誰かが出てきた。私のよく知るひとだった。


 よく知る人なのに、誰だかわからない。知っているのにわからない。また心許ない感情が訪れた。ざわざわ、ざわざわ。ひっそり、私に寄り添う何か。


 得体の知れない感覚をどうにか言葉にしなければ、また霧となって散ってしまう。しなければ‥‥。


 しなければ、と、押し寄せる波に飲まれそうになり、慌てて空気を吸い込む。今度はかなり深海の予感。出来るかぎり溜めておこう。吸って、吸って、吸って、吸って、肺いっぱいに空気を溜め込む。目一杯吸い込んだら止める。止めたまま。いち、に、さん。酸欠になったらまた吸い込めばいい。


 その時よく知っているのに、誰だかわからないあの人が慌てて駆けより、こういった。


 「顔が真っ赤。吐いて!」


 何をいうかと思えば、アンタもまた適当なことを。ここで吐いたら、せっかく溜めた空気を逃してしまうでないか。再び吸い込もうとする。脳裏に掠ったこの人。この先生の名前。


 「あっ」少し息を吸えた。

 まだ苦しい。

 先生の名前を呼ばなければ。

 「タニっ」


 たったふた音漏れた一瞬に、せっかく溜めこんだ空気が肺から一気に溢れ出した。谷先生。そう、お名前は谷先生。


 谷先生は、ご自分の体温をわけてくださるように、優しく私の背中をさすってくれた。


 背中を上下する手のひらの温度に安心して、息を吐き出し、再び始めた呼吸の速度と、先生がご自分の手のひらから温度を伝えるリズムがぴったりと合わさった時に、谷先生はおっしゃった。


「先日のあなたのレポート、たいへんよろしいように思いましたよ」


 先生の声が届いて鼻の奥がツンとする。苦心しながら明け方まで頑張ったレポート。先生の目に留まる自信があった。安定した呼吸で吸い込む空気が生暖かい。

 

 「ただ〝裸の王様の解釈について〟の考察は、少し違うように思いますの」

 足もとが、ひやりとする。

 どういうことだろう、どこが気に入らなかったのだろう。少し呼吸が浅くなる。散り散りが始まる。


 先生は私の背中をさするのを止めた。私は背中をさすってくださったのが、誰だったのか。曖昧になった。


 そして、よく知っているのに誰だかわからない人に戻ったあのひとは、「これを差し上げておきますね」といいながら、私の目の前まで来ると、わたしと目線を合わさぬまま一枚の紙を渡してきた。


 渡された紙に書かれていたのは。

 書かれていたのは一編の詩。


 そしてとうとう見知らぬひとになったあの人は、「裸の王様のお話しの教訓が必要なのは、あなたなのですよ」と、去り際にいった。 


 なぜだか倒錯した喜びがノド元に込みあげ私は大きな声で呼びかけた。


 「先生は、私が裸の王様だと、そうおっしゃるのですか?」


 声が届いたのか先生は振り向かぬまま応えた。


 「いいえ、役どころとしては、〝村の子ども〟です」

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