時をなくした彼女と森で

ワタリドリ(wataridley)

プロローグ 目覚め

第1話 森で紳士と出会った

 目が覚めると、ミナギは自身が異様な状況に置かれていることに気づいた。


 まず視界に入ったのは、毎晩ベッドから見上げていたはずの"あの"天井ではないことだった。いや、そもそもそこに"天井"なんてものはない。代わりに、ミナギの心の動揺などものともしない澄んだ青空が広がっていた。


 体を起こそうと地面に手を置くと、手の平から少し湿った土の感触が伝わってくる。あたりを見渡すと、沢山の木々が自分の体を囲んでいる。


 ミナギはようやく自分が「森で寝ていた」という事実を知った。ひとまずアタマで理解できたとして、しかしながらココロで受け入れるにはあまりに唐突で理不尽な状況だった。一体自分の身に何が起こっているのか。寝起きの脳を精いっぱい振り絞って考えてみても、ちっとも答えが浮かんでこない。


 まず考えを巡らせてみたのは、こうなる直前の出来事だ。


 ミナギは、都会にある勤め先の出版社と自宅を往復する日々を送っている。覚えている限りで最後のふつうの日も、デスクで仕事を終えて、夫のいる自宅への帰路についた。自宅、もとい夫にとっての職場と出版社の間の距離はさほど遠くなく、よけいな寄り道もしない習慣だから、このような迷子になることはありえないはずだ。


 次に、これは誰かが自分に対して行ったイタズラの類なのではないかという推測をしてみる。けれども、これも可能性が低い…と思いたかった。これほどまでに手間と労力をかけたドッキリを仕組んでくるような友人は思い当たらないからだ。それに、もし本当に知り合いの誰かが仕組んだことなのだとして、犯人が判明した際にこれまでその人に抱いてきたイメージとのギャップに戸惑いたくはない。


ーーだから、どうかいませんように…。


 より悪い事態、例えば誘拐だと仮定してみたけれど、これも即座に却下。友人や同僚達に「ミナギさんはどんな方ですか」と聞いて回って、「人質役がお似合いです」と答える人はきっと万に1人もいないだろう。万も知り合いがいるかは別として。恥を承知で自分を客観視してみても、大金持ちの娘でも、強大な権力者とのコネクションがあるわけでも、はたまた巨大な陰謀に巻き込まれるのもやむなしといった特殊能力を持っているわけでもない。


 せっかく誘拐したというのに、こんな森の中に置き去りにする理由も思い浮かばない。自分が誘拐犯なら人質の手と足と口はガムテープで縛り上げて、他の人と連絡を取れる手段を根こそぎ奪い去って室内に監禁しておくだろう。


「どうしてこんな状況になったのか」という思考に耽るうち、いつの間にかそんな物騒なシミュレーションに至っていたものの、


「そういえば」


 と文明の利器の存在を思い出し、トレンチコートの左ポケットに手を入れる。すると、お目当ての携帯電話はきちんとそこにあった。これで誘拐の線は完全にナシ。


 電源を入れ、正確な時間を確認する。この事態の突破口になるはずだと頼りにしていたそれは、期待に反して、夜の時間を示していた。しかも、電波は通じていない。


 ただでさえ森にいること自体に頭をひねっていたというのに、時計と空模様が噛み合っていないというさらなる難題が降りかかってきてしまった。目覚めてから今に至るまで、間違いなく頭上から陽の光が降っている。光を浴びた木の葉は、地面にくっきりと影を映しているではないか。


ーー今いる場所は、外国なのだろうか。


 それならば時間の不一致に関する説明はつく。けれども、今度はそれほどの距離をどうして移動してきたのかという疑問が強まり、いよいよお手上げ状態に突入する。最後に確認した時から日付は変わっていないし、映画1本分ほどの時間も経っていない。


「考えろ、ミナギ。考えろ、私」


 独り言を呟きながら、ぐるぐるとその場で歩を進めてみる。行き詰った時には体を動かして脳に酸素を送る。いつもやっていることだ。両手ともポケットに突っ込んでみたり、考える人のポーズを取ってみたり、長く伸ばした髪の毛先を弄んだりして、あの手この手で脳内物質の分泌を促してみる。


 しかし、体が温まってくるばかりで、頭は徐々に頭痛に見舞われていく。時間にして10分程経ったところで、とある結論を出した。


 とにかく体を動かそう。つまり、論理的思考の停止だ。考えても答えが出ないのなら、考えることをやめる。非論理的だけれど今の理不尽な状況の前ではじつに合理的な結論、だと思う。


 そう決めると、さっきよりも身軽になった気がした。すぐには解けそうにない問題に当たった時はいつも飛ばして、後のほうの楽な問題から片付ける。そうすることで、立ち止まることへの苛立ちを回避してきた。これもいつもやっていることだ。


 ここがどこであるかわからない以上、携帯電話の時計は使い物にならないけれど、幸い空模様が大方の時間を教えてくれる。森の中とあって通信が繋がらず、調べものもままならないけれど、お生憎様、こういう状況に陥った際の最低限のサバイバル術は心得ている。


 まず、太陽の位置から方角を特定した。といっても、国や季節によってぴったりと東から昇って西に沈むわけではないし、地図を持ち合わせていないので、これはあくまで参考程度。それから、今いる場所を起点として迷った場合に戻ってこれるよう、目に付く石や木の枝をありったけ集めて目印を作った。大きめの石を並べ、これから向かう方向を指す矢印を形作って、完成。


 土やら木のくずやらがついた手をぱんぱんと叩き、いざ出発といった気持ちに切り替える。ここにいる理由を考えるよりも生き延びる術を実行していくほうが、やはり不思議と活力が漲ってくるものだなと思った。


 当面の目標は脱出ではなく、水を見つけることだ。どこにあるかもわからない出口を探すことより、確実に生き延びることを目指す方がよい。これまで読んできた本や、右から左に受け流していたテレビ、堅い職業から横文字のよくわからない肩書で自己を飾った人々の発言、はたまた自分自身の経験を総合的に勘案して、それが最適だと判断した。


 川は、海への道標にもなる。どこの国や地域であっても、水辺には人が集まり、街や村やコミュニティーが形成されているはずだ。


 かくして、窮地に陥った原因とそれを切り抜けた先の目的地を含め、何もかもが謎に包まれたミナギの脱出劇が始まった。


 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


 歩き始めて10分と経たずに目的の品は手に入った。清潔な水だ。自分でもこれほど簡単に第一目標を達成できるとは思っていなかった。


 しかし、少し想定外の形で手に入れたために、思うように喜べずにいた。なぜなら、その水は川や泉に沸いていたものではなく、ペットボトル入りの飲料水だったからだ。


 人気のない森にペットボトルが落ちていたのはなぜか?正確にはそれは落ちていたバックパックの中に入っていたもので、これはどこかの旅人が使っていたもののようだ。他にもアルファ米、ドライカレー、ブロック状の非常食、アルコールコンロ、コッヘルまでもが入っていた。これなら、数日はお腹を満たせるだろうという安堵感がにわかに胸に広がった。おまけに、水を手に入れた後に確保する予定だった火種まで手に入れることができた。


 けれども、そこで思考が止まってしまうほどミナギは能天気な性格ではなかった。なぜ森にバックパックがまるごと落ちているのか?これを考えれば、事態はまるっきり喜ばしいとは言えないだろう。


「この持ち主は今頃……」


 脳裏に浮かびかけたイメージを、ミナギは頭を振るって遮断した。ただでさえ無言の大自然の中で孤立し、精神的に不安定になりかねない中、不利益な情報に頭を取られるのは得策ではない気がした。とはいえ、これは思い掛けない牡丹餅であり、教訓とすべき標である。物資が詰まったバックパックと、この森には危険が潜んでいるかもしれないという警戒心を背負って、先へ進むことにした。


 歩き始めて1時間が経過しても、相変わらず周囲には樹木が乱立し続けている。風が吹き抜ける度、鬱蒼と茂った葉は互いを撫でて、柔らかな音を奏でる。どこからか聞こえてくる野鳥や虫の鳴き声と合わさった大地の雨音は耳底にまで達して、聴く者に安らぎをくれた。


「自分の足で来れたら純粋に森林浴を楽しめたんだろうけどねー」


 孤独を紛らすためのそんな独り言すらも、森の空気へ溶けていく。遭難者が内に抱える焦燥も、結局は大自然の中ではちっぽけなものに過ぎず、まったく影響を及ぼさない。毎日誰かしらと会って、自らの発した言葉が相手の反応として跳ね返ってくるあの文明社会。たった1時間半程度の単身サバイバル生活でそれが大昔のことのように思えてきた。


 そんなことを考えながら歩いていたその瞬間、何やら動く影が目の前を横切った。


 その影はとても小さくすばしっこいために、最初は目に留めるのも苦労した。辛うじて四足歩行で細長い体であると認識できたものの、視覚で決定的な瞬間を切り取ることができない。地を這って移動したかと思えば、近くにあった木の幹を滑るようにして登り、またそれ以上の速度で滑り落ちていく。


 自分という外敵から離れたところで、その影は走るのを止めた。そして、すくっと二足で立ち上がったところで、ようやく正体を突き止められた。


 直立して20センチ程の高さ。ダックスフンドが猫に生まれ変わったような短足胴長の体型に、丸顔、丸い耳。そして見る者を魅了する、くりくりのつぶらな瞳。頭の百科事典が正しければ、これはネコ目イタチ科の動物オコジョだ。


 既知の動物とこうして面と向かって出会うことができたのだから、本来なら喜ぶべきなのだろう。しかし、先ほどのペットボトル飲料水と同じく、とある違和感が喜びを上回った。


 というのも、そのオコジョ、体の大半が黒いのだ。胴体は両の脇腹から肩、腕(というか前足)にかけて黒く染まっている。一方で、足元のあたりや首元から頭にかけては、雪のように白い毛が生えている。お尻のあたりは真っ白で、尻尾の先は墨をつけた筆のようにまた黒口なっている。


 ひとつひとつの部位に着目してから、最後に再び全体を捉えると、妙な納得感に見舞われた。そのオコジョは、燕尾服を身に纏っているような見た目だったのだ。


 こんなオコジョは自分の百科事典には載っていない。オコジョには換毛によってその毛色を冬と夏とで大きく変える。夏は灰褐色、冬は真っ白に。しかし、目の前にいる紳士は黒。それもフォーマルな服装状に生えている。


 その紳士が徐ろに口を開き始めた。ピンク色の舌と鋭い犬歯が露わになったところで、「あぁやはり野生動物なんだ」とこれまた妙な安心感に包まれる。その口からキシャーと叫びを上げて私を威嚇するなり、本能の赴くがままの欠伸でもするがいいーー。


 しかし、その淡い期待は次の瞬間、儚く打ち砕かれる。


「そこのお嬢様、少しお時間よろしいでしょうか?」


 その紳士はミナギを誘った。低くて丁重な音のバリトンボイスだった。

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