精霊召喚(3)


 パリスはあれと首をひねった。

 ヒョオが精霊を喚ぶかと問うたので、それに対して頼むと頷き返したはず。

 なのに、なんだこの状況は。

 戸惑うように瞳が瞬き、自分の首にとぐろを巻く蛇を見やった。


『パリスよ。どうかしたのか?』


 小さく首を傾げるヒョオに。


『い、いや……どーしたっていうか、なあ……』


 パリスは端切れの悪い言葉を返して。

 戸惑いをはらんだ声音で問う。


『……本当に、オレが喚ぶの?』


『うむ』


 頷いたヒョオの顔は、何を当然のことを訊くのだ、という顔だった。

 うーんと唸りながら頭をかき、彼はついと眼前に視線を投じた。

 彼らの眼前に広がるのは、目に見えてどんよりとしたそれ。

 中間拠点から少し足を踏み入れれば、拓けた景色から、すぐに木々や草花が茂る森の景色が広がる。

 既に見飽きた景色。そこからさらに歩き進めば、それ――マナ溜まりは広がっている。

 どんよりとしたそれ。景色が霞んで見え、目を凝らしても判然としない。

 けれども、霧がかかっているわけではない。

 ただ、景色が霞んで見えるだけ。

 視界の変化はその程度。だから、鈍い者は逃げ遅れる。

 マナ溜まりの怖いところはそこだろうな、とぼんやりパリスは思った。

 彼らが立つ場所は、まだマナ溜まりの入口に過ぎない。

 だから、景色が霞むなあぐらいにしかまだ思わない。

 けれども、マナに敏感な精霊は既に肌に感じているのだろう。

 先程から落ち着きなくヒョオの尾がひょんひょんと揺れ動いている。

 そして。ついとパリスの視線が滑る。

 こうしている間にも、マナ溜まりがじわじわと広げているのが見える。

 はあと静かに嘆息する。

 これは諦めの嘆息。


『オレが喚ぶなんて聞いてない……』


『言っていなかったゆえ、当たり前であろう』


 ぽつりと小さくこぼした言葉をヒョオが拾った。

 しれっと返され、パリスが恨めしそうにヒョオを睨む。


『てかオレ、魔法なんて扱える程のオドは持ってないよ』


 今更だけど、と付け加える。

 そして、ちらと肩越しに顧みた。

 パリスらから少し離れたところに、隊長を始めとして騎士隊が待機していた。

 隊の先頭には下位精霊の精霊結び達の姿。

 その傍をふよふよと光の粒が浮かんでいる。

 それを見てから、パリスは眼前のマナ溜まりへ視線を戻して、もう一度嘆息。


「これで喚べなかったらどーするんだよー」


 ヒョオに聞きとめられないようにひとりごちた。

 隊長に頼むと言われて、元気よく返事をした記憶がある。

 どうするのだと頭を抱えたくなってきた。


『安心せい、パリスよ。補助と道筋は我が補うゆえに』


『ん、どういうことだ?』


 眉間にしわを寄せるパリス。


『お主はただ、声にオドを編み込み、言の葉にて、かの精霊を喚べばよい。あとは我がそれを導くゆえ』


『……ちょっと待て、ヒョオ』


『む?』


 パリスの眉間のしわが深まった。


『声にオドを編み込むって、どうやるんだ?』


『なあに、やってみれば簡単よ』


 にゅっと頭を持ち上げたヒョオから、マナの流れを感じ取ったパリスが慌てて静止の声を上げた。


『ちょちょ待てよっ!』


『……まだ何かあるのかえ?』


 そろそろこのやり取りに飽きてきたらしいヒョオが、嫌気のさした眼差しを向ける。


『だからオレ言ったじゃん? 魔法なんて扱えないって。そもそも、ヒョオが喚ぶんじゃだめなのか?』


『我は精霊ゆえ、その声は精霊には届かぬ』


『だから、なんで?』


 はあ、と嘆息するヒョオ。

 やれやれと彼は首を横に振る。

 お主は先程からそればかりだの、と。


『お主は、声も届かぬ程に離れた仲間へ呼びかけられるか?』


『それは無理だろ』


 物理的に距離のある相手へは、いくら声を張り上げようとも無理だろう。

 パリスの返答に、そうだろうと首肯したのち。


『それと同じゆえ』


 と、ヒョオは言う。


『精霊の気配は、マナの揺らぎがあるゆえに程度は知覚する。だが、喚ぶとなると無理なのだ』


『それで、オレの声?』


 うむ、とヒョオは頷くも。

 パリスは依然として要領を得ないという顔をする。


『はじまりの精霊は、ヒトの祈りからうまれたゆえに』


『ん?』


 首を傾げるパリス。

 だが、ヒョオはこの話に区切りをつけるべく、自身から流れるマナに勢いをつけて行く。

 先程よりも増し始めたそれは、やがて奔流となり、パリスの髪をなびかせ始めた。


『さあ、パリスよ。始めるぞ』


『いや、だからオレに魔法は……』


『補助はすると言うておろう』


 だから、それはどういうことだ。

 と、パリスは訝る視線をヒョオへ向ける。

 そんな彼の頭へヒョオがにゅるりと上れば。

 マナの奔流に呼応するように、空気中に含まれるマナも震え始めた。

 そして、パリスを中心にマナが渦を描く。


『ほお……!』


 初めての経験に、パリスから驚きと感嘆をはらんだ声が上がる。

 魔法の扱えない彼からすれば、起こしているのがヒョオだとはわかっていても、目の前の現象に興奮を禁じえない。

 先程の弱音など忘れ、パリスは子供のように目を輝かせる。

 そんな彼を、ヒョオは少しだけ呆れを含んだそれで見下ろした。

 そこに。


『パリスよ』


 凛とした声が落ちる。

 その声ひとつで、パリスは状況を思い出す。


『はしゃぐ時間はないゆえ。のんびりしておると、かの精霊が他所へ行ってしまうやもしれぬ』


 かの精霊もこちらの気配には気付いているだろう。

 なにせ、一所に複数の精霊がいるのだから。

 だが、同時にヒトの気配も、この辺りに滞るマナ溜まりの気配も察知しているはず。

 だとすれば、浄化をしているだろうとの予測は簡単で、用が終われば次の地へ赴いてしまうかもしれない。

 ヒトは気付いていないだろうが、ここ以外にもマナ溜まりは、複数離れた場所にもあるのだ。

 おそらくかの精霊は、それらの浄化のために降り立ったのだろう。


『それでは、お主らは困るのであろう?』


『……そう、だな。うん。困る』


 自信がなさそうに、一度パリスは視線を落とす。

 けれども、ぐっと握り拳をつけると、もう一度ヒョオを見上げた。


『だから、オレがやるしかないんだよな』


 覚悟を決めたような力強い眼差しを向けられ、ヒョオがふっと笑ったような気配をまとう。

 蛇ゆえに表情の乏しい彼だが、パリスにはそれだけで十分だった。

 視線をマナ溜まりへと据え、どうすればいいとパリスは問う。

 じわりじわりとそれを広げるマナ溜まりは、すでに彼らを囲んでいた。

 だが、ヒョオを中心に渦巻くマナの奔流が障壁となり、彼らを囲いきることは出来ずにいる。

 パリスの耳元ではマナの唸りが聞こえている。

 けれども、そんな中でも彼の耳にヒョオの声はしっかりと届く。


『パリスよ、我の名を呼べ』


『ヒョオ』


 瞬間。ぱしんっと小気味よい音が響いた。

 ヒョオが尾でパリスの後頭部を軽く叩いたのだ。

 いてっ、という声がパリスからもれる。


『我の真の名である真名だ』


『ああ、そっちね……』


 それならそうと始めに言って欲しいなあと愚痴りながら、パリスは声にヒョオのそれを乗せた。


『《炎まとう紅淡の蛇ヒョオ》』


 パリスの唇がそれを紡ぐ。

 それは、精霊の魂に与えられた名。そのものを示す名。

 それは、精霊が人と結ぶ際に交わされる約束のようなもの。繋ぐ、糸のような。

 刹那。かっと。ヒョオの鱗から炎が弾け、奔流に火の気が乗る。

 紅い、けれども淡いそれは、火の粉のようで。

 それに呼応した大気に満ちる火の気も集まる。

 勢いの増した奔流に、パリスの服が翻る。


『――パリスよ』


 ヒョオの声に、パリスの身体がぴくりと揺れた。

 今までに感じたことのない感覚に一瞬戸惑う。

 身体に、さらにその奥へと染み込むかのような感覚。

 ぞくぞくとした、悪寒にも似た感覚が身体を走る。

 パリスは目を閉じた。

 でも、それは不快というわけでもなく。むしろ、心地がよい。

 そう、魂が震える。

 そこへ、するりとヒョオの声が滑り込む。


『想うのだ』


 何を。


『己が何を成したいのか』


 成したい、もの。


『描け』


 描く。想い、描け。成したいものを。

 パリスが静かに口を開き、声にそれを乗せる。

 瞬間。パリスの中で何かがざわめいた。

 動き出す、何か。

 それに背を押されるように、口から飛び出した。


『この地を、静かにさせてやりたい』


 脳裏に過るのは、ここに来るまでの道中。

 幾つもの魔物を薙ぎ払った。

 けれども、魔物ももとは生き物。その成れの果て。

 植物の魔物が多かったのは、植物には足がないから。

 獣のように地を踏みしめる足がないから。

 だから、植物が静かに陽に身をゆだねられる地にしてやりたい。

 ヒョオが微かに身動いだ。


『……導くゆえ』


 パリスの中で動いた細く伸びるそれを、ヒョオは爪弾くように小さく弾いた。

 瞬間。パリスから淡い不可視な何かが迸る。

 それが声に絡み、言の葉となる。

 ヒョオが静かに顔を上げた。


『うむ。――確かに、我が受けとめた』


 蛇の鱗をから火の粉がもれ、それが奔流に乗って舞い上がった。

 刹那。火の気がヒョオから迸る。

 呼応して大気が、否、大気に含まれる火の気が震え始めた。

 りぃん、と。

 音にならない音が、澄み渡るように、波紋を広げるかの如く響き渡った。


「――――」


 誰かの吐息の音。

 パリスのものか。ヒョオのものか。

 はたまた、後ろで息をひそめ見守る騎士隊か。

 いずれにしても、その場を支配するのは静寂だった。

 降り積もる静寂は重なり、耳鳴りがする程の静寂へと転じる。

 が、それもすぐに破られる。


『――来た』


 静かに落とされた声に、パリスが閉じていたまぶたをのろのろと持ち上げた。

 そして、彼が顔を上げるのと、それが降り立ったのは同時だった。

 りぃん、という澄んだ音と共に、瞬きひとつの間で降り立つ影。

 その降り立った影の姿に、パリスが息を呑んだ。


「白……?」


 最初に目を惹いたのは、純白という言葉が似合う程の白だった。

 その色に身を包んだ影――狼の姿をした精霊が、音もなく地に降り立つ。

 動きの軌跡を描くように、体毛がふわりと舞った。

 精霊の閉じられていたまぶたが開かれれば。

 そこに現れたのは、まるで晴れ渡った空を溶かし込んだような瞳で。

 その瞳が真っ直ぐにパリスを据えた。


『この私を喚んだのは、主か……?』


 低く、底が深いような声が厳かに響く。

 その声にパリスが硬直する。

 ごくりと唾を飲み込み、手にじんわりと汗を感じて。握りこむ。

 己が緊張していることを自覚した。

 口を開くけれども、言葉が喉で絡んで呼気がもれるだけ。

 そんな彼に焦れたのか、彼の頭の上にいるヒョオが尾で後頭部を軽く叩く。

 ちらとパリスが見上げれば。

 覗き込むように彼を見下ろすヒョオの目が、さっさとせぬかと語っていた。

 だが、ふるふると小さく小刻みにパリスは首を横に振る。

 その目が必死に訴えていた。無理だ、と。

 喚びかけた精霊が“白”を持つ精霊だなんて聞いていない。

 “白”といえば、上位精霊の中でも、さらに上の位の精霊ではないか。

 そんな大物が降り立つなんて聞いてない。

 それを受け、はあ、と嘆息をひとつ落とすヒョオ。

 やれやれと肩をすくめる雰囲気をまといながら、ゆっくりと顔を上げた。


『久しいな、スイレンよ。息災かえ?』


 その言葉に、え、と驚きの色を滲ませながら、パリスはヒョオを凝視した。

 口ぶりから親しみを感じる。


『おう、元気さ。ヒョオも元気そうでなりよりだなー』


 と。パリスの視線は、今度はスイレンと呼ばれた精霊へと向けられる。

 先程の声音からは一転。

 あたたかさをはらんだ低く落ち着いた声に。

 その口調は軽いものだった。

 驚くパリスの表情に気付いたスイレンが。


『よおっ』


 と、軽やかに挨拶をした。

 空の瞳には人懐こい色を滲ませて。

 パリスはその色を戸惑いと困惑をのせて見つめる。

 人が手を振る代わりなのか、ふぁっさとかの精霊は尾を揺らした。

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