精霊召喚(1)


 その日、スイレンは誰かの声に喚ばれた。




   ◇   ◆   ◇




 彼が一歩踏み出した時。

 ぱり、と。蛇は鱗が痺れる感覚を覚えた。

 痺れた箇所から、ざわりと鱗の下を何かが這い回る。

 その不快な感覚に目を眇めた。

 これは、だめだ。これ以上は。

 本能が拒否を求める。


『――パリスよ』


『どーした? ヒョオ』


 硬い声音で蛇はパリスに声をかけた。


『すまぬ。この先は我でも難しい』


 目元に剣を宿し、前を据えながら告げるヒョオに。

 同じく前を据えたパリスがそうかと頷いた。

 二者が据える先には、目にも映るほどにどんよりとした空気が広がっていた。




   *




 森の中腹から少し進んだ辺り。

 比較的拓けたところに張られた天幕が幾つ。

 ここが現在の騎士隊の中間拠点だった。

 区域調査改め、浄化作業と魔物討伐を始めて早数日。

 小さな問題は起きながらも、ここまで特に大きな問題が起きることもなく進められてきた。

 だが、あと少しで区域の端に到達というところで、大きな問題が浮上してしまった。

 張られた天幕のひとつ。

 そこに騎士隊の数人と、隊長。

 そして、精霊結びの者の代表としてパリス、ヒョオが集っていた。

 天幕内には先程からずっと沈黙が横たわっている。

 その中を、腕を組んだ隊長の唸る声が通る。

 それぞれがむうと考える中で、パリスがいつもの定位置にいる相棒へと目を向けた。

 彼の首にとぐろを巻きながら、ヒョオは申し訳なさそうな雰囲気をまとう。


『……すまぬ、パリスよ。我の力が足りぬばかりに』


『ヒョオが落ち込む必要ないさ』


 慰めるようにパリスは指先でヒョオの頭を撫でた。

 その様をちらと見やりながら、隊長が口を開いく。


「――パリス」


 一同の目が隊長へと集まる。


「我々を呼び集めた要件は?」


 ヒョオの頭を撫でていたパリスが、真剣味を帯びた瞳で真っ直ぐに隊長を見据える。


「魔法師の派遣要請を願います」


「なに?」


 ざわと天幕内がざわめいて。

 すっと隊長の目が鋭く細められた。


「隊にいる精霊達では、この先の浄化作業は難しいです」


 隊長の視線を真っ直ぐに受けとめ、臆することなく告げる。

 一隊員でしかないパリスが隊長へと意見した。

 そのことが問題なのではない。

 し、そのことを問題視する者はそもそもこの隊にはいない。

 問題なのは、彼が口にした言葉。その、意味。

 その意味がわからない程、この場に集った者は経験を積んでいないわけでばない。

 だからざわめく。

 だがそれは、抑揚のない隊長の声で静まった。


「……理由を問うても?」


 普段は人懐こい雰囲気のパリスだが、今は真剣味を帯びた眼差しで自分を据えている。

 彼は隊長という立場ゆえに、浄化作業も今回が初めてではない。

 これ程に濃い濃度、マナ溜まりの地に赴くのは初めてではあるが。

 これまでに彼が参加してきた浄化作業の中で、精霊自らが首を横に振ったことはなかった。

 これが下位精霊だったのならば、まだ理解はできる。

 彼らはまだ幼い。彼らの機嫌、気分次第で作業が遅れることも珍しくはない。

 だが、今回同行している精霊は、下位精霊の他に中位の位にある精霊もいる。

 中位精霊は自我も精神もしっかりとしている。

 そんな中位精霊であるヒョオが拒否の意志を示した。

 こんなことは初めてであった。

 それが意味すること。それは、つまり。


「この先はさらに濃度の高いマナ溜まりです。ヒョオは本能的にそれを察知したのだと思います」


 硬いパリスの声。

 これはそれ程に緊迫した状況だということ。

 普段の言葉が剥がれ、真剣な物言いにパリスがなるくらいには。


「――中位精霊では耐えきれない程の、濃度」


 隊長の声が重く響いた。

 他の者も息を呑む中、彼は厳かに告げる。


「……精霊召喚か。――それも、上位の」


 中位精霊では難しいのならば、その上である上位精霊を喚ぶしかない。

 精霊召喚とは、そのままの意味。

 精霊を喚び、その助力を請うということ。

 精霊召喚は精霊魔法のひとつ。扱うのは魔法師。

 そして今回の遠征では、ここまでのマナ溜まりは予想されていなかった。

 中位精霊であるヒョオが同行出来れば、対応は十分に可能だとの上の判断だった。

 隊長である彼自身も、その判断に異論はなかったので従った。

 だから、今回の遠征で組まれた隊に魔法師は同行していない。

 だが、実際に地へ赴けば状況は予想よりも深刻だった。というだけだ。

 必要なのならば、魔法師の要請願いを拒む理由は彼にはなかった。

 騎士は魔法を扱える程のオドは保有をしていないし。

 魔法騎士は、魔法編込師が編み込んだ陣を発動させる程のオドを保有しているだけに過ぎない。

 つまり、魔法を扱える者がいないのだ。


「……はい」


 頷いたパリスも硬い面持ちだ。

 言いだしたのは自分で。それがどんなに難しいのかはわかっていた。

 だが、あの濃度のマナ溜まりを放置してしまえば、またそこからマナ溜まりが広がる。

 せっかく浄化したものが、再びマナ溜まりへと染まってしまうのだ。

 それをまた浄化。その繰り返し。

 いつまで経っても終わりはない。

 そして、人の立ち入りは不可能になるだろう。

 マナ溜まりは魔物を生む。

 あれ程の濃度だ。巣窟と化すのに、そう時間はかからないだろう。

 もともとは精霊の森に自生していた植物。魔力耐性は持っているだろう。

 けれども、ここまでの道中に魔物と化してしまった植物達が幾つもいた。

 幸いなのは獣達が逃げ出せていたことだろうか。

 だからといって安心もできない。

 今は辛うじて耐えている植物達も、いつその命を散らし、魔物と成り果ててしまうかわからない。


「――状況は把握した。要請しよう」


 沈んだ面持ちで俯いていたパリスは、隊長のその声に弾かれたように顔を上げた。


「……隊長」


 ほっと安堵した表情のパリス。彼の瞳がゆれた。

 隊長はそれにふっと薄く笑ってから、要請へ動こうと立ち上がった。

 だが。


「――隊長、お待ちください」


 別の騎士が隊長に静止をかける。

 動きを止めた隊長は声の方へ視線を投じて。

 なんだ、と目だけで続きを促した。

 騎士は緊張した面持ちで言葉を続ける。


「状況は私もわかりました。ですが、上位精霊ですよ? 召喚に応じてくださるのでしょうか」


 ちらりとパリスを一瞥してから、隊長へと一歩詰めた。


「上位精霊の召喚はオド消耗も激しいと聞きますが、その割に成功率は低いとも聞きます」


 誰かが息を詰まらせた音がする。

 ヒョオがパリスをそっと見上げ、ちろと舌を出す。


「ならば、領地から上位精霊と結びを得ている、精霊結びの者の派遣を要請してはどうでしょうか、隊長」


 隊長は騎士の言を受け、ふむと深い息をつきながら腕を組む。

 上位精霊が人の前へ姿を現すことが滅多にない。

 そもそもが、あまり人前に現れない精霊。

 上位ともなれば、その絶対数も少ないのだろう。

 そして力が強いゆえに、精霊召喚の際の喚ぶ声も届きにくいとされている。

 ゆえに、上位精霊と結びを得た精霊結びは少ない。

 その一方で。

 既に人と結んでいた中位精霊が上位精霊へと至って。

 結果。上位精霊と結びを得た精霊結びが、数は少ないが存在する。

 その内の数人はこの領地の騎士隊に所属している。


「真名を存じていれば別ですが、そうでないのならば、賭けよりも確実の方がよいのでは?」


 考え込む隊長に、騎士がさらに言葉を投げかけた。

 それも一理あるな、と。隊長もそれには頷く。

 真名とは、記す文字の通りに精霊が持つ真の名のこと。

 魂に与えられた真の名。

 旅を終え、大樹へと還って真名も還る。

 そして、まっさらな真名をもらい、旅を始める。

 パリスの首にとぐろを巻く精霊のヒョオ。

 彼にももちろん真名はある。

 ヒョオという名ももちろん、彼が持つ名である。

 だが、それは人でいう愛称のようなもので。個を示す名。

 では、真名とは何か。それは――魂を示す名。

 ゆえに、真名を得られてしまえば、魂を縛られてしまう。

 力有る者が紡げば、それだけで意味を成してしまう。

 意に沿って精霊を従えることも可能だ。

 だから精霊は隠す。真名を隠す。

 本当に好きなものにこっそりと真名を教え、喚んでもらう。

 それがとても心地いいと、精霊達は知っているから。

 結びは魂と魂の繋がりだから。

 と。そんなヒョオがちろと舌を出した。

 小さく首を傾げたかと思えば、すぐに首をめぐらせた。

 パリスはそんなヒョオの様子に気づくことなく、話の流れを見守っている。


「上位精霊の助力を得られるのならば、何も魔法師でなくともいいはずです。確実な手段を選んだ方が賢明ではないか、と私は思うのですが」


 それを聞いていた他の騎士も、確かにそうかもなと頷く声がちらほらと。

 パリスがぐっと手を握り、一瞬顔を伏せた。

 けれども、下を向くのはだめだとすぐに顔を上げる。

 確かに彼の言う通りだとも思った。

 低い確率に賭けるよりかは、確実な方を取った方が賢明だ。

 こればかりは経験の差だ。そう思う。でも、悔しさが滲む。

 握った拳に爪が食い込んだ。

 空気の変化を感じ取り、視線をパリスへと戻したヒョオが静かに彼を見つめる。

 そっとパリスの表情を伺い、集う隊の人達へと視線を向ける。

 ヒョオには何を話し合っているのかはわからない。

 けれども、パリスが何だか落ち込んでいるのはわかる。

 どうしたのだろうか。そう思ったところで、はたと思い至る。

 もしかして、彼の要件が通らなかったのだろうか。


『パリスよ。もしや、要件が通らなかったのかえ?』


 耳元で囁かれ、ぴくりとパリスの身体が跳ねた。

 ゆれる瞳がヒョオを見やる。


『……あ、うん。実はそうなんだよね』


 パリスは苦く笑う。


『ほら、喚んでも上位精霊には声が届かないことも多いし、それに、精霊達は気紛れだから……』


 届いていても、応えてくれるかどうか。

 その言葉は飲み込んだ。

 そう、上位精霊の召喚の成功率が低い理由がここにもある。

 そもそも、声が届かないこともあるけれども。

 届いていても、興味の惹かれない人だった場合は応じないこともある。

 位が上の精霊になるほどにその傾向は強くなるようだ。


『だから、領地の騎士隊に、上位精霊の精霊結びの派遣要請をお願いすることになりそう、かな』


『……パリス』


 そんなに苦く笑わないで欲しい。

 彼を見上げるヒョオの瞳が揺れ動く。

 我の力が足りなかったから。だから、パリスにこのような顔を。

 ヒョオの気持ちが落ちる。

 思わず俯いてしまった頭に、優しく撫でる感触。

 のろのろと見上げれば、パリスが指で撫でていた。


『ヒョオのせいじゃない。それは絶対に違う』


 優しい瞳が自分を見下ろしていた。

 尾をひょんと揺らしてヒョオは考える。

 何か力になれることはないだろうかと。

 刹那。ヒョオはマナの揺らぎを感じ取る。

 瞳孔が細まり、弾かれたように振り向いた。

 先程は気のせいかと思ったが、どうやら違ったようだ。

 この気配は。ヒョオの身体から知らず火の粉がもれでる。


『ヒョオ……?』


 訝しげにパリスが彼の名を呼んだ時。


「――だが」


 それまで黙り込んでいた隊長が口を開いた。

 自然とパリスを含めた一同の視線が隊長へと集まる。


「領地へ要請を願い出たところで、こちらから連絡鳥を飛ばし、さらにその返答をもらい、且つ精霊結びが出立して到着するまで、一体何日必要だ?」


「それは……」


 隊員が言いよどみ、言葉を詰まらせた。


「待っている間に、浄化された箇所も再びマナ溜まりが侵食していく」


 今は精霊が留まっている。

 だが、それも時間稼ぎにしかならない。

 こうしている間にも、マナ溜まりはそれを少しずつ広げているのだ。


「だが、こうして悠長に議論をしている暇がないのも確かだ」


 隊長が隣の副隊長へ目配せする。

 その意を正確に受け取り、副隊長はひとつ頷いたのち身を翻す。

 騎士達も指示を仰ぐため、または、のちに言い渡されるであろうそれに備えるために。

 それぞれが、それぞれの目的のために動き始める。

 そんな中でパリスは、先程のヒョオの様子が気になって視線を向けた。

 その、刹那だった。

 パリスの目の前からヒョオの姿が消えて。

 それが視界の端で外へ向かったのを捉えた。

 その数瞬ののち。


「うわっ!」


 天幕を出ようとしていた副隊長が声を上げた。

 そして、間髪を入れずに。


『ヒョオっ……!』


 パリスの相棒を呼ぶ声が天幕内に響き、彼も後を追うために飛び出した。

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