拓ちゃんと私

沼田くん

第1話

回顧…。


「相談があるのですが」

 同じ寮で働く支援員の鮫嶋克哉が、担当利用者の生活記録をパソコンに打ち込んでいた私、宮田浩介に声をかけた。利用者が寝静まった深夜、夜勤の時間帯だった。

 何か思い悩んでいる様子がうかがえる。

「どうした?」

「拓ちゃんの自傷を何とかしないとと思って」

「うん」

 拓ちゃんは、腕に爪を立てて肌を傷つける自傷があり、爪を短く切り、職員が一緒に過ごす生活をしていた。

「今のやり方では、彼にストレスが貯まるだけで効果がないと思うんです。何か他の対応を考えないと駄目なんじゃないんですか?」

 鮫嶋は、福祉の専門学校を出て三年目の若い職員で、今年三月にこの寮に異動してきた。

 ここ、美山福祉園は、小高い峠の上に建つ、入所型の更生支援施設で、約八十名の知的な障がいを持つ男女が、一つの女性寮と二つの男性寮に別れて生活していた。

 私が勤務する男性寮には、障がいの重い利用者が生活していた。

 美山園の周囲は畑や田んぼ、遊歩道が整備されていて、寺院もあって、ハイカーや参拝者で賑わいを見せる。

 美山園の利用者も運動を兼ねて散歩を日課にしていた。農作業をする住民と挨拶を交わし、時には、作業の手を休めて利用者の相手をしてくれるなど交流を深めていた。

「なんとかならないですか?」

「なんとか…?鮫嶋は、何か考えがあるの?」

 利用者に何かあったときには、最低一つの案を持つように職員に話してある。

「それは…」

 口ごもった。

「どうした?何もないの?」

「それは…宮田さん、自閉症について詳しいんですよね。宮田さんなら、何か対応を考えられるんじゃないですか?」

 拓ちゃんは、知的障がいと自閉症の二つの障がいがあった。

 私は、数年前から自閉症のことを学んでいて、時々セミナーに都内へ足を運んでいた。

「今、それを職員に話して取り組めませんか?」

 このままでは善くはなりません!

 鮫嶋は、私に詰め寄るように口にした。

 私も彼の言うように、拓ちゃんの現状を重く感じていた。でも、私が学んでいる自閉症については、相当な忍耐が職員に必要とされた。その覚悟をもって取り組まなければ改善は望めない。行動障害の軽減に要する期間は半年。と言うのも、取り組みの実践セミナーを幾つか聞いたが、一様に半年を口にしていたからだった。もっと時間がかかるかも知れない。その間、職員は同じ方向を向いて、同じ考えのもと取り組まなければならない。一人でも異を唱える職員が居てはうまくいかないのだ。それに、取り組みの途中で、成果が見られない、結果が出ないからと言って方向転換は許されない。利用者が戸惑い、大きなストレスを抱えることになる。

 支援前に、自閉症についてしっかりと知識を身につけてから支援に当たる職場もあると聞いた。

 そのために職員に必要な要素がもう一つある。

"楽しんで支援に当たる"ことができるか。これが一番必要で、大切な要素なのかも知れない。

 この寮には、自傷だけではない、多飲やパニック、昼夜逆転、器物破損、多動などの行動障害を有する、早急に支援が必要な利用者が何人もいる。その誰も、適切な対処ができないで、日々、職員は振り回されていた。医師の診察と処方する薬に頼っているのが現状だ。

 鮫嶋の思いは私の思いだった。すぐにでも取り組みたかった。

 だが、半年…。

 同じ考えのもと、取り組めるだろうか?

 私自身、学ぶばかりで実際の支援は経験ないのだ。

 踏み出すにはあまりに気が重かった。しかし、その悩みに火が灯る出来事が起きたのは、まもなくのことだった。

 鮫嶋は、寮長の木俣隆一に相談、木俣から支援部長の長澤充に話がいったのだ。

 私は部長に呼ばれ、拓ちゃんの支援に当たるように言われた。

「すぐに取り組んでほしい」と。

 私は、それを聞いて体中に緊張が走った。後には退けない。結果が求められる。

「できるか」

 できないとは言えない。

「やります」

 口にしていた。

(ほんとうに?)

 心情は逃げたい想いで満ちていた。

「頼むぞ。園長も期待している」

 その言葉に愕然とした。

 もう完全に逃げられない!じゃないか。

 私は、震えに襲われた。

(園長が、期待しているって…!)

 大変なことになった。

 でも…。

 園がバックアップしてくれるのであれば力強い、鬼に金棒ではないか。そんな考えに思い当たった。

(やれるかもしれない)

 初めて足を踏み入れる支援、これまで実践はない。結果を残せるか不安は多い。

 もし失敗したら…それは考えないことにした。

 人一人を救えるか。 

 その想いで取り組まなければできることではない。

 部長室を出た私は、一つ大きく深呼吸をした。

(やってやる!) 

 寮に戻った私は寮長に話し、半年に渡る支援計画を立てた。


 

 


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