第三章「祭りの夜、浴衣の君」

 八月八日。新たな日常が動き出していた。


 プシューッという音と共に扉は閉まり、バスは走り出す。一番後ろの右側の席。いつもの俺の定位置だ。時刻は八時。元々、人があまり多くない町だからかもしれないが、乗客は数えられるほどしかいない。窓の外の景色がゆっくりと流れていく。バイト先の篠宮駄菓子店到着まで大体10分程度。それまで俺は、考え事をしたり、スマホを弄りながら過ごす。いつもと同じ、いつもと同じ光景。ただ、今までとは一つだけ違う事がある。


 「ん、どうしたの?」


 「いや、何でも」


 「変なの」


 ——みおなが隣に座っているという事。


 俺がいつの間にか視線を送っていたので、何やら不思議そうに首を傾けている。くすっと微笑むその表情からは、初めて会った時のような重苦しい印象が多少なりとも薄れているような気がした。みおなの中で何かが変わったのだろうか。……あぁ、そうだ。間違いなく変わっている。特にこの三日間でみおなを取り巻く環境の変化は大きなものだった。まず、こうやって俺と一緒にバスに乗り、バイト先へ向かうようになった。篠宮駄菓子店で仕事をし、日が暮れればバスに乗りあおい寮へ帰る。今までを考えればこれだけでも凄い。変化はさらにあおい寮でも起きた。何度も何度も挑戦したが、拒絶され続け、もうみんな半ば諦めかけていた。しかし、それがついに実現したのだ。


 ——夕飯を全員で食べるという事。


 朝はそれぞれの出勤時間が違うので、初日のように一緒に食事をするという機会はほぼなくなってしまった。しかし、今はみおなも夕飯にはちゃんと自分の席に座り、他のメンバーとも自然と会話をするようになっている。みおなには、俺が仕事を教える交換条件として『みんなとタメ口で話す』という契約が交わされている為、相手との距離を保っていた分厚い壁のような敬語をやめなくてはいけない。結果、その効果は絶大だった。


 最初はみんな戸惑っていた。そりゃそうだ。会話すらままならなかったみおなが、やっと口を開いたと思ったら、自分たちに対してタメ口で接してくるのだから。それは、みおなにとってもかなり勇気のいる事だったと思う。しかし、みおなは不器用ながらも、躊躇いながらも、タメ口で話した。あれだけ頑なに拒み続けていた、人と関わる事を自らの意思で選択したのだ。だから、俺たちはそんなみおなを快く受け入れた。今までの時間を取り戻していくかのように。これからみんなでもう一度始めていくんだという思いで。俺たちが求めていたのは本当に小さなものなのかもしれない。同じように働き、同じ場所で食事をし、今日あった事を話し、笑いあう。そんなごく当たり前で、他人だけどどこか家族のような関係性。昨日の夕飯でのみおなの笑顔を思い浮かべながら、俺には確かに言える事があった。みおなはやっと……


 ——あおい寮の一員になれたんだという事。


「和希、着いた」


気がつけば夕凪駅に到着していた。


俺とみおなは眩しい日差しを浴びながら、外の世界へと踏み出して行った。


          ◆◆◆


 篠宮駄菓子店。


 創業40年、駅前にある事から立地条件も良く、この町の人にとってはちょっとした有名店だ。うまい棒、きゃべつ太郎、ヤングドーナッツ、蒲焼さん太郎などの定番な商品から、ガリガリ君、スイカバー、白くまなどのアイスクリーム類、そしてばあさん特性かき氷(本人曰く、一晩寝かせて作る秘伝の手作りシロップは極上の味がするとの事。しかし、未だに売れた所を見た事がない)など、商品のレパートリーはなかなかに豊富だ。ちなみに店の前にはガチャガチャ? ガチャポン? ……うん、正式名称は謎だが、ハンドルを回せば景品が出てくる機械も設置されており、あまりにも当たりが出ない為、そろそろ子供たちから暴動が起こるのではないかと噂されている。


 そんな店でバイトをするようになって、もう一週間以上が経つ。早いものだ。仕事の事は大体わかってきたし、店番を何度かするようになって、自信もついてきた。もはや、影の店長と言っても過言ではないだろう。ふふふ。 

 そんなこの店の超重要人物である俺は、今まさに……!!

 

 ——軒先のベンチに腰掛け、ぼーっと雲を眺めていた。


 ……誤解のないように説明しよう。決してサボっている訳ではない。本当だ。俺なりに色々と気を遣った結果、こういう状況になっている。


 店内から和やかな笑い声が聞こえた。振り返ると、みおなとばあさんが楽しげに話をしている。その空気感はやはり家族だなと思わされるもので、俺にはこれっぽっちも入る隙などなかった。詰まるところ、空気を読むという選択肢しかなかった訳だ。俺はどこか申し訳なく思いながらも、しばらく二人の会話に耳を傾けていた。


 「みおちゃんが手伝いに来てくれて、本当に助かるのぅ」


 「うん……でも、もっと早くに手伝いに来れたのに。おばあちゃん、ごめんね」


 「この前から、謝ってばっかりじゃ」


 「だって……」


 「ばあちゃんは、みおちゃんに謝って欲しい訳じゃないんよ」


 「え?」


 「こうやってばあちゃんの前に顔を見せてくれる。それだけで十分」


 「それだけでいいの?」


 「あぁ、それだけでええ」


 「……そうなんだ」


 「みおちゃんは覚えているかのぅ? 小学校低学年ぐらいの頃、夏休みになるとよく家に泊まりに来てくれてたろう?」


 「うん」


 「夏休みになれば、みおちゃんが泊まりに来てくれる。それがアタシとあの人にとっての楽しみじゃった」


 「……」


 「二人で小さなみおちゃんの手を引いて、夏祭りに出かけた時の事じゃった。みおちゃんはずっと金魚すくいをやってたんじゃが、全然上手く出来んでのぅ。ついには泣いてしまった。そしたらあの人、みおちゃんの為に張り切って屋台で一番大きな金魚をすくったんじゃ」


 「……うん、覚えてる。おじいちゃんに金魚をもらって、それが…………本当に嬉しかった」


 みおなは一瞬言葉を詰まらせてそう言った。その声はか細く震えていた。


 「……」


 「……」


 「……おばあちゃん」


 「何じゃ?」


 「私……おじいちゃんともっと話したかった」


 「あぁ」


 「もっともっと色んなところに連れて行って欲しかった」


 「あぁ」


 「私の事を……大人になっていく私の事を……ずっと……側で見ていて欲しかった!」


 「あぁ」


 「……」


 「……」 


 涙声で感情を吐き出すみおな。そしてただただ、それを受け止めるばあさん。しばらく無言が続き、ばあさんはどこまでも温かな声で言った。


 「あの人は最後の最後まで、みおちゃんの事が大好きじゃったよ」


 ばあさんのその言葉の後、みおなは静かな声で泣いた。


 「……だからのぅ、願いを聞いてやって欲しい」


 「おじいちゃんの願い?」


 「あぁ、でもこれはばあちゃんの願いでもあるんじゃ」


 「……何?」


 「笑うんじゃ」


 「……」


 「あの人が亡くなった時、アタシも悲しかった。しかし、それ以上に葬式でずっと泣き続けているみおちゃんを見て、もっと悲しくなった。アタシ達が見たいのはみおちゃんの悲しい顔じゃない」


 「……」


 「みおちゃんが泣けば悲しい、みおちゃんが笑えば嬉しい。それがアタシ達、家族じゃ」


 「おばあちゃん……」


 「だから、笑うんじゃ。どんな事があっても。あの夏祭りの夜のようにのぅ」


 「うん……」


 自分がちっぽけに思えた。そして、家族の絆の偉大さを実感した。どこまでも大きく、どこまでも温かい。自然にお互いの事を支えようとする。そこには損得勘定など一切存在しない。そりゃ、他人の俺が勝てるはずもない。ここまで決定的な違いを叩きつけられると、もはや清々しい。


 ——家族か。


 ふいに、今も家に一人でいるであろう母さんの姿を思いだした。俺はスマホを取り出し、LINEを起動させる。母さんからの未読メッセージの数が着々と増え続けている。さすがにそろそろ返事をしないとな……。住み込みバイトに行ってくるという理由はあるものの、母さんとの関係はよくないままだった。些細な事で喧嘩をして、仲直りもしないままこっちに来たから、もはや家出のようなものだろう。自分自身、もっと素直になれたらなぁと思う。しかし、それがなかなか出来ないのは、俺が絶賛思春期真っ只中で、まだまだ子供だからなのかもしれない。


 俺がそんな事を考えていると、みおなは散歩に出かけるばあさんを入り口まで見送りに来ていた。ばあさんから「みおちゃんを頼んだよ、カツキ」と言われ「カツキじゃなくて、和希です」といつものやり取りを交わし、駅に向かってとぼとぼと歩いていくばあさんの後ろ姿を二人で眺めていた。ばあさんの姿が見えなくなり、そろそろ喉が渇いたなぁという俺の心を読んだみたいに、


 「ラムネ飲む?」


 と、入り口前にある冷蔵庫から二人分のラムネを取り出したみおなが言った。


 「あぁ、けど勝手に飲んで大丈夫なのか?」


 「おばあちゃん、好きなもの飲み食いしていいって言ってたから」


 「そっか」


 俺はみおなからラムネを受け取り、二人ともベンチに腰掛ける。玉押しを取り出し手の平でぎゅっと押さえると、ビー玉がカランと落ちて心地の良い音を響かせる。ビンを傾け口に含むと、爽快でどこか懐かしい味が広がった。隣には、俺と同じようにラムネを飲んでいるみおなの横顔。その光景は、初めてバス停で見た時の事を思い出させる。潮風を浴びながら無言でラムネを飲む二人。先に口を開いたのは俺の方だった。


 「……いつもどこに行ってたんだ?」


 「ん?」


 「ほら毎朝、出かけてただろ」


 「うん……」


 どこか申し訳なさそうな表情で答えるみおな。俺は慌てて言葉を続ける。


 「いや、別にバイトに来なかった事を責めてる訳じゃないんだ。ただ知りたくてさ」


 みおなはラムネのビンをベンチに置いて、空を見つめながら応えた。


 「海岸にいたの」


 「海岸?」


 「うん。日が暮れるまでずっと海を眺めてた」


 「……」


 「誰とも話したくなかった。とにかく一人になりたかった」


 「そっか……」


 「それで海を眺めながらずっと考えてた。自分の事、周りの事。けど、考えても考えても答えは見つからなくて、苦しくなるだけ。私はやっぱり……自分の事が嫌い」


 ——自分の事が嫌い。


 確かにみおなはそう言った。全部を否定する気にはなれない。誰にだってそんな時期はある。どうすればみおなが自分の事を好きになれるのか? そんな答えのようなものを一瞬考えてはみたが、無理だと途中で諦める。俺にはわからない。というか、それが当然だ。多分その答えは人それぞれ違うし、他人が見つけても意味はないだろう。みおな自身が見つけ出さなくてはいけない。しかし俺は、少しでも背中を押したかった。そして知って欲しかった。そんなみおなの事を、ちゃんと必要としている人が周りにはいる事を。だから、言葉にする。


 「けど、杏子さんやばあさんは、そんなみおなの事が好きだ」


 俺の言葉を聞き、みおなは一瞬はっとした表情をして、


 「……うん」


 と、小さく応えた。


 しばらくお互いに無言になり、俺はずっと気になっていた事を素直に聞く事にした。


 「どうして俺たちと関わってくれたんだ?」


 「……」


 「ずっと避けていたのに、今ではこうやってバイトに来てるし、夕飯も一緒に食べるようになった」


 みおなはしばらく考え、ゆっくりと話す。 


 「……いつまでも目の前の事から逃げてちゃいけないっていうのは、自分でもわかってたから。でも、それだけじゃない……」


 「それだけじゃないって?」


 みおなは真っ直ぐに俺の目を見つめて言った。


 「……和希のおかげ」


 「え?」


 「和希が私と向き合ってくれたから……だから私もみんなと向き合おうって思えた」


  思いもよらぬみおなの言葉に、俺は動揺した。


 「俺は何もしてないっていうか……てか、俺たち喧嘩もしたし、あんまりいい状態じゃなかったと思うんだけど」


 「でも、あんな風にはっきり言ってもらえたの、初めてだったから」


 「そっか……」


 「だから、和希が友達になって欲しいって言ってくれて……必要とされてるんだって思えて、私どこか救われた気がしたの」


 みおなの声が優しく耳に入り込んでくる。そして柔らかな笑顔を向けた。俺は咄嗟に目を背けてしまう。


 「……」


 「どうしたの?」


 「別に」


 「えっと私、変な事言った?」


 「言ってない」


 「和希…………照れてる?」


 「うるさい!」


 みおなはそう言って、俺の顔を覗き込んでくる。自分の感情がどうにかなりそうだった。俺には大した事は出来ないと思ってた。がむしゃらに突っ走って、それが良いのか悪いのかもよくわからなかった。しかし、結果的に俺はみおなに何かを与える事が出来たのだ。嬉しい。本当に嬉しい。しみじみとそう思う。そして、それと同時にどうして俺はこんなにも気持ちが揺れ動いているのだろうという疑問が浮かんだ。みおなと目が合う。その大きな瞳にそのまま吸い込まれるような気がして、俺は動く事が出来なかった。


 その瞬間「ひゅーひゅー」という声が、四方八方から投げかけられる。どこから現れたのか常連の小学生三人組が、俺とみおなの周りを囲んでいく。


 「わーにぃちゃんがねーちゃんとイチャイチャランデブーしてる!」


 「本当だランデブーだー!」


 「デブー!」


 やたらと「ランデブー」を連発するちびっこ達。意味わかって言ってんのかこいつらは。


 「お前ら、別に俺とみおなはそんな関係じゃない!」


 「じゃあ、どういう関係なの?」


 「あぁ、えっと……友達…………って、聞いてんのか!?」


  ちびっこはすっかり俺から興味をなくして、いつの間にかガチャガチャの前に集まっている。なんて切り替えの早さだ。てか、みおなまでついて行ってるし。


 「おねーちゃん、ガチャガチャやりたい」


 「うん、いいよ」


 「でもさー、全然当たり出ないんでしょ」 


 「そうだね。よし、じゃあおねーちゃんが一回分みんなにプレゼントしてあげる」


 「やったー」


 「よし、じゃあ誰がやるかじゃんけんしようぜー」


 「おー!」


 みおなはいつの間にかちびっこから人気者になっていた。他愛もない話で楽しんでいるみおな。俺はそんなみおなの笑顔をずっと見ていたいと思った。この笑顔を守りたいと思った。俺がそんな事を考えながら視線を戻すと、店の正面に別の小学生が立っている事に気がつく。そして、目が合った。


 短めの黒髪、大きな瞳。赤いランドセルにリコーダー、真っ白な給食袋。忘れもしない。自販機の前で血で血を洗う死闘を繰り広げた、宿命のライバル!! 俺は思わずベンチから立ち上がり声をかけた。


「お前はこの前のちび……いや、小学生!」


「……」


「どうしたんだよ?」


「……」


 小学生は突っ立ったままで、視線を地面に落としていた。この前とはどこか雰囲気が違う。


「……おい、何とか言ったらどうだ」


 小学生は曇った表情のまま、ぼそっと呟いた。


「嘘つき……」 


「は?」


 やっと口を開いたと思ったら、いきなり嘘つき呼ばわりされた。


「ギトギト野郎は、嘘つきだ!」


「……あのなぁ毎回毎回、意味がわからないんだけど」 


じっと俺を睨みつけている。何でこんなに嫌われなければいけないんだろう。


「よし、わかった。100歩譲ったとしてギトギト野郎は認めよう。確かに俺はあの殺人的な自販機でギトギトみそ汁を買った。けど、嘘つきって何だよ? 俺、お前に嘘なんかついてないだろ?」


「嘘つき!」


「お前なぁ……」


 そして、小学生は俺に問い正す時間を全く与えず、またしてもあっかんべーと舌を出し、ぴゅーっと去っていった。


「ちょっと待てって!」


 俺の声は蝉の鳴き声に一瞬混じって、むなしく消えていった。毎度毎度思う。一体、何だったんだ……。


 そりゃ俺も小さな嘘ぐらいつく事もあるが、明らかな悪意を向けられるような類のものではない。それに相手はほぼ初対面の小学生だ。心当たりなど皆無に等しい。訳がわからん。俺がしばらく理不尽という言葉の意味を、頭の中で考え続けていると、


 「どうしたの?」


 と、心配した様子でみおなが声をかけてきた。


 「いや、別に」


 と俺は応える。すると、他のちびっこ三人組もみおなの後を追うように近づいてきた。そして、どこか複雑な表情を向けながら聞いてくる。


 「にーちゃん、あいつと知り合い?」


 「あーまぁ、知ってる事にはなるのかな。って言っても、まだ会うの二回目だけど」


 「あんまり関わらない方がいいよ」


 「え?」


 「あいつ変な奴だから」

 

          ◆◆◆


 特に何の問題もなく駄菓子屋の仕事を終え、散歩から帰ってきたばあさんに挨拶をした俺とみおなは、あおい寮へと帰っていた。みおなは「また夕飯でね」と言い、自分の部屋に戻って行ったが、俺は一旦荷物だけを部屋に置いて、沙織の部屋を訪れていた。沙織から『仕事が終わったら私の部屋に来なさい』というLINEのメッセージが届いていたからだ。ちなみに、みおなも含めあおい寮のメンバー全員とのLINE交換はもう済んでいる。


 部屋の扉を開けると、ふんわりとしたいい香りが鼻をくすぐった。野郎達の部屋(俺も含めて)の扉を開けた時は決してこんな香りはしない。やはり、女の子の部屋という事なのだろう。そして、正直に言うと思春期の男子高校生には若干刺激が強い。


 「入るぞー……って、これはどういう状況?」


 沙織の部屋に入るなり、俺は質問した。


 「何が?」


 と、沙織の声がふわっと部屋に響く。俺はこほんと一度咳払いをして話を続ける。


 「質問は二つ。そもそも何か話をするなら別にリビングでいいだろ? 何でわざわざ部屋に呼び出したんだ。そして、もう一つ。どうしてこいつらまでいる」


 そう言って、俺は小さなテーブルの前にあぐらを掻いて座る。周りには沙織以外に、航、康也、夏美の姿があった。  


 寮の部屋はそこまで広くないので、五人もいるとなかなかの圧迫感だ。しかし、みんなそんな事は御構い無しといった感じでそれぞれに寛いでいる。康也は相変わらず小説の文字を眼鏡越しに追い続け、航は寝転がりながら「疲れた……」という単語を般若心経のように繰り返し、夏美はテーブルの上にあるポテチを五秒おきに、口の中に運び続けている。


 「大事な用があるからに決まってるでしょー」


 沙織もまたスマホのゲームと格闘しながら、俺の顔を見ないでそう言った。全く説得力がない。


 「いや、用があるように見えな——」


 「和希、和希、かっずきー!!」


 向かいのテーブルから、殺人的な音の塊が高速で飛んできた。ついでにポテチの破片も。


 「うわっ、びっくりした! そして汚ねぇ!」


 「お疲れ」


 にこっと笑い、片手を上げる夏美。


 「あぁ、お疲れ……って、食べながら人と話したらいけません!」


 「えぇー」「疲れたー」


 夏美と航の気の抜けた声がハーモニーを奏でる。うん、ちっとも美しくはない。


 「さっきから、何だよ航」


 「ちょっと和希聞いてよー、今日の仕事ほんっとうに死ぬかと思ったんだってー」


 「そのまま死ねばよかったのに」


 「同感だ」


 「ちょっと、二人ともひどくないですかー!?」


 沙織と康也が気持ちの良い毒舌を放つ。今日も絶好調だ。航はむくっと起き上がりながら、


 「ほら、もうすぐ夏祭りが始まるじゃん?」


 「あぁばあさんから聞いたけど」


 「その祭りはこの町ではかなり重要なイベントらしくて、親方もはりきっててさ。それに向けて花火の準備をしてるんだけど、その数が多すぎてやばい。こき使われすぎてるんですけどー」


 「航、ドンマイ」


 俺は航の肩にポンと手を置いて、そう言った。


 「すっげぇ他人事—」


 「てか、何で祭りにそこまで力を注いでるんだ?」


 「伝統ってやつだな。本来、祭りには神に感謝をささげるという意味合いがある」


 康也は小説をパタンと閉じて話し始めた。


 「へぇ、康也詳しいのね」


 「神社で働いているから当然だ」


 「……当然だー」


 夏美さん。今の不自然な間はなんですか。


 「夏美、絶対知らなかっただろ?」


 「当然だー」


 そう言って、夏美はポテチを再び口の中に運び始めた。俺は話を戻す事にする。


 「康也、続けてくれ」


 「昔の人たちは生きるための願いを祭りに込めていた。豊作を願ったり、疫病が流行らないようにといった感じでな」


 確かに病や災害といったものは恐ろしかっただろうし、自分たちの食料源である米の収穫に願いを込めるのも当然の事だと思う。自分たちではどうしようもない事を頼む。だから、神頼みって事なんだろうか。


 「現代になってそういう意味は薄れつつあるが、この町では未だに大切な風習として残っているようだ」


 「なるほど」


 「だから、わたし達も準備をしているのだー」


 ポテチを完食した夏美が元気にそう言う。てかこのBIGサイズを全部一人で食ったのか? という疑問は触れない事にして康也に質問した。


 「羽衣神社も準備があるのか?」


 「屋台は神社の周りを中心に並んでいくからな」


 「康也、康也—今日は掃除ばっかで大変だったね」


 「あぁ。だが掃除も悪くない。まるで心が研ぎ澄まされているようだ」


 「おぉー私たち研ぎ澄まされてるのかー」


 「研ぎ澄まされている」


 「おぉー」


 「研ぎ……澄まされている」


 「おぉー」


 何だか夏美と康也がよくわからない意思疎通をしている。ずっと同じ仕事場にいるから自然と信頼関係が芽生えるのだろうか。


 「はいはい、お祭りの話は一旦おしまい。もぅ、ギャル男のせいで、話が逸れちゃったじゃない」


 「え、俺のせい!?」


 「全部あんたのせいよ」


 「いやー、沙織もずっとゲームして一向に話をする気配がなかったと思うんですけど」


 「何か言った?」


 「何でもありません」


 こっちの二人はというと、完全に航が沙織の尻に敷かれている。これもある意味信頼関係なのか? いやうん、謎だ。それはそうと俺は、ずっと気になっていた本題に入る事にする。 


 「で、沙織の言う大事な用ってやつは一体何なんだ?」


 「みおなの事よ」


 沙織のその言葉で、さっきまで緩んでいた部屋の空気が少し変わった気がした。


 「あんた一体、どんな魔法使ったの?」


 「魔法って?」


 「あれだけみんなで協力したけど、全然みおなには響かなかった。けど、あんたが一人で行動した途端にみおなは別人のように変わったわ」            


 「あーそれは俺もすっげぇ気になってた。夕飯食べに来た時はマジでビビったし。なぁ、夏美」


 「うん。だけど、だけど、みおなちゃんタメ口で話してくれたよね。私、すっごーい嬉しかった」


 「同感だ」


 航、夏美、康也の顔をそれぞれに一瞥して、沙織は声のトーンを抑えながら続けた。


 「みんなその理由が知りたがってる。一体何をしたの?」 


 俺は少し考えてみたが、その回答としては物凄くシンプルなものだった。


 「俺もよくわからない」


 みんなの「え?」という声が、ぱらぱらと返ってくる。


 「いや、よくわかってなかったっていうのが正確かな」


 「はぁ、何それ?」


 沙織は微笑してそう言った。


 「突っ走って行動したり、言いたいこと言ってみおなと喧嘩したりもしたけど、逆にそれが良かったらしい」


 「あ! あれでしょ、定食屋で待ち伏せしたってやつ?」


 「それって、それって普通に考えたらただのストーカーだよ和希—」


 「同感だ」


 まぁ、俺もあの時は玉砕覚悟のつもりで行動したが、今思い返してもよくそんな事が出来たと思う。本格的に嫌われて、状況が更に悪化する可能性だってあったはずだ。


 「俺もやりすぎかなとは思ったよ。けど、みおなは言ったんだ。『ちゃんと向き合ってくれて嬉しかった』って」


 「何それ、私たちは向き合ってなかったって事?」


 少し不満そうに言う沙織。


 「そんな事はない。ただ俺の方が少しだけタチが悪くて、しつこかったんだろ」


 「まっ、確かにタチが悪いわね。私の着替えを覗いた変態だし」


 「航もな」


 「……そんな奴いたっけ?」


 「はーい、ここにいまーす!!」


 沙織の部屋がみんなの笑い声で包まれる中、俺は駄菓子屋でのみおなのその言葉を思い出していた。嬉しかったのは俺の方だ。その言葉のおかげで、俺は行動してよかったんだって思えた。ただみおなに対して、心配事が完全になくなった訳じゃない。今でも心に何かを抱えている。そして、自分を責め続けている。だから、少しずつでいいから自分の事を好きになってほしい。赤の他人で、バイトが同じだけの俺がそこまで踏み込んでいいのかとも思う。しかし俺の性格的に、どうやらそのままって訳にはいかないようだった。


 「みおなは変わった。けど、今でも自信を持てないでいるし、色んな悩みを抱えてると思う。だから、改めてみんなにはみおなと仲良くしてやって欲しい」


 気がつけば俺はみんなに頭を下げていた。他人の事でお願いをする。今までの俺からするとありえない事だった。俺はみんなの返事を待ちながらも、恐る恐る顔を上げた。沙織も航も康也も夏美も。みんな俺に柔らかな笑顔を向けている。


 「そんなのあったりまえじゃん!」


 「ギャル男の言う通り、何あんた一人で背負った気になってんのよ」


 「そうだ、そうだー私たちもう友達だもんねー」


 「同感だ」


 「つーか、康也さっきからそれしか言ってなくねぇ?」


 「心外だな、本当にそう思っているだけだ」


 みんな言い方は違っても、それぞれの言葉で俺に応えてくれた。つくづくいい奴らだなと思った。そして、俺は改めて「ありがとう」と言った。


 俺は自分の胸の中が少し熱くなっていたのを感じた。そして考える。普段出会う事のないやつら。年齢も違えば住んでいる場所も違う。そんなやつらがたまたま同じバイトで、たまたま同じ屋根の下で生活する事になった。そして俺たちは今ここにいる。もし俺が住み込みバイトをしなかったら? 同じような理由で、他の誰かがここにいなかったら?  


 そう考えると、こうやっている事がちょっとした奇跡のように感じる。俺はここに来てからの事を色々と思い返しながら、ぽつりと言葉にした。


 「……俺たちがあおい寮に来て、もう二週間になるんだよな」


 「そうだけど、どうしかしたの?」


 俺が言った言葉に、沙織が真っ先に反応した。


 「いや、なんか早いなと思ってさ」


 「確かにね」


 「って事は……うわっ!? あと三週間でバイト終わりじゃん!」


 いつもの調子で、何の悪気もなく言った航の言葉が、ズシンと重くのしかかったような気がした。もしかするとそう感じたのは俺だけじゃないかもしれない。さっきまで騒がしかった部屋の空気が、ふと静かになっていた。そして、しばらく沈黙が続く。ひぐらしの鳴き声、クーラーの静かな音、カーテンから漏れる光。無言になった俺たちの代わりに、さっきまで控えめに存在していた様々なものが、この空間の中で主張をしていく。そして、


 「寂しいね……」


 と、夏美がぼそっと呟いた。


 その声色がどこか物悲しくて、嫌でも現実を突きつけられる。


 ——あと三週間。


 当たり前のように、ずっと続くと思っていたこのあおい寮での生活も、三週間後には必ず終わってしまう。そして、八月が終わりそれぞれの日常がまた始まるのだ。ふと思う。俺もここに来て、いつの間にか変わっていたのかもしれない。人付き合いがあまり好きじゃなくて、人と群れるのはどちらかというと嫌だって思っていたけど、こいつらと一緒にいる時間が今では大切に思えてならなかった。だから、俺は後悔しないように。少しでも思い出を刻みたいと思った。


 「明後日ってみんな休みだよな」


 俺の言葉を聞いて、みんなそれぞれに首を縦に振っていた。

 八月十日、土曜日。この日は大人たちで祭りの会合があるらしく、俺たちバイト組は全員休みになっていた。今までは誰かが休みでも、誰かは仕事といった感じだったのでかなり珍しい事だ。


 「提案なんだけど、せっかくだしみおなも誘って、みんなで遊ばないか?」


 俺のその言葉に、部屋の空気が再びぱっと明るくなった気がした。


  航はチャラさを全開にして、


 「おぉ、それ最高じゃん!!」


 夏美は元気一杯に、


 「私も賛成、大賛成ーみおなちゃんも誘おうよ!」


 沙織はいつもの上から目線で、


 「あんたもたまにはいいこと言うじゃない」


 康也はメガネを光らせ淡々と、


 「異議なし」


 と言った。


 「私、私、お肉が食べたーい!!」


 「よし、じゃあみんなでバーベキューするか」


 「おぉーさっすが和希—」


 「じゃあその後、ビーチボール大会もやろうぜー」


 「ビーチボール大会……いい案だけど、なんかギャル男が言うと下心があるように聞こえるわね」


 「同感だ」


 「ちょっとその偏見ひどくねぇ!?」


 その後も俺たちは語り合った。小さな寮の一室で、まだ見ぬ未来に期待を膨らませながら。   


          ◆◆◆


 「行ってきます」


 「うん。楽しんでらっしゃい」


 杏子さんはまるで我が子を見送る親のような優しい表情で、みおなもまた本当の子供のような無邪気な笑顔で、お互いに短い挨拶を交わした。そして、とぼとぼと大げさな荷物を抱えながら、その様子を眺めていた俺たちの元にやってくる。俺、航、康也、沙織、夏美、そしてみおな。俺たちは、杏子さんに手を振りながらあおい寮を後にした。


 待ちに待った土曜日。心配されていた天気も問題なく、気持ちのいい快晴だった。いつもはみおなと二人で乗っていたバスに、バイト仲間総勢六人が乗る事になる。バスの中では航と夏美の声が大きすぎて、迷惑にならないか心配だったが、幸い乗客は俺たちしかいなかったので貸切状態だった。バスが駅に到着すると、俺たちはすぐに海岸に向かった。しばらく歩き、次第に波の音が近くなる。目の前に真っ青な海が見えると夏美が一目散に走りだした。


 「海だ海だ海だー!!」


 「うぉー夏美、俺が一番乗りだー……って康也早っ!?」


 「文系を舐めてもらっては困る」


 「ちょっと、あんた達待ちなさいよー」


 まるで絵に描いたような光景が目の前に広がっていた。どこか甘酸っぱくて、青春っぽくて、こそばゆい。しかし、今はなんでも受け入れられる気がした。本能が楽しもうと言っている。


 「俺たちも行くか」


 「うん」


 俺とみおなも倣って、子供のように叫びながらみんなの後を追い掛ける。靴の隙間に砂が入るのも、太陽の眩しさに目がかすむのも気にせず、ただただ真っ直ぐに走った。


 それから俺たちは念願のバーベキューをした。男性陣が火を起こしている間に、女性陣は食器や飲み物の準備をしていく。俺と航があーだ、こーだ言いながら火を起こすのに悪戦苦闘している様子を見かねたのか、康也は手馴れた様子で作業を進め始める。すると、あっという間に火がメラメラと燃え始めた。不覚。俺と航は顔を見合わせ、出来ない男の称号を不本意ながら獲得しつつも、謎の熱い握手を交わしていた。それぞれの準備が整い、俺ははんなり亭のおっちゃんにもらった、特製肉を網の上に乗せる。ジューッと肉の焼ける音と、美味そうな匂いが広がる。波の音を聞きながら食べた肉は本当に美味かった。康也と沙織がアルコールを普通に飲んでいたので、俺は高校生代表としてここは厳しく……見て見ぬふりを決め込んだ。まぁ、こんな時ぐらいいいだろう。夏美は「みおなちゃん、負けないよー」と宣言し、みおなも「私も夏美には負けない」と控えめに言った事から、女子二人によるフードファイトが繰り広げられたため、特大肉は跡形もなく姿を消した。もうこの二人の胃袋の構造を理解出来ない。最低限の片付けを済ませた後、航は勢いよく立ち上がりシャツを脱ぎ始める。続いてハーフパンツに手をかけたところで、俺は渾身のローキックをお見舞いした。


 ドスッ。


 「痛ってー!? 和希何すんだよ!?」


 「露出狂の退治」


 「いや、ちゃんと水着履いてるから」


 「あ、そっか」


 服の下に水着を着てくる約束をしていたのを忘れていた。そして、俺と康也も水着姿になる。その瞬間「おぉーっ」と歓声が上がった。ふふふ、まぁそういう事になるだろう。伊達に身体は鍛え……俺がそんな事を考えていると、目の前にミケランジェロ作ダビデ像が神々しく立っていた。何だ、このバキバキの身体は。どうやら歓声の対象は俺ではなく、現代版ダビデ像こと康也だったらしい。ちなみに実際のダビデは巨人ゴリアテと戦う為に手に石を持っているのに対し、康也は手にメガネを持っていた。決めポーズが少し似ているとこがムカつくし、メガネを外しているから本当に誰だかわからない。普段、本にかじりついているような奴が、なんでこんなバキバキに仕上がってしまうのだろうかと疑問に思いながら、康也のシックスパックを睨みつけていると、


 「文系をなめるなよ」


 とドヤ顔で一言。うん、あとでそのメガネを海にぶち込んでおこう。

 


 「見たら殺すわよ」と警告した沙織を中心に、女性陣も隅の方で着替えを始める。服の下に水着を着ているとはいうものの、やはり異性の前では色々と気を使うのだろう。その間に、俺たち男性陣は子供のようにはしゃぎながら海に飛び込んだ。


 ざばーん。


 大きな音を立てて、日に焼けた肌が海水の冷たさを吸収していく。気持ちいい。しばらくぷかぷかと緩やかな波に身を預けていると、康也が真剣な表情で俺と航に訊い

てきた。


 「なぁ、お前ら。誰の水着姿が一番見たい?」


 咄嗟の質問で返答に困っている俺をよそに、航が叫んだ。


 「俺は沙織ー!!」


 「まじか。でも、お前もう下着姿見てるだろ」


 「和希はわかってないなー、水着には水着の良さがあるんだって」


 「さいですか、康也は誰のが見たいんだ?」


 「愚問だな。俺は夏美一択だ」


 俺と航が「え?」と顔を見合わせる。


 「どうやら、お前たちは夏美の本当の美しさを理解していないらしい。彼女は………………」


 その後、康也は夏美の美しさとやらについて三分ほど力説していた。俺と航が軽く引くぐらいに。うん、こいつには変態メガネの称号を与えよう。てか、もうそこまで語れるんだったら夏美のこと好きだろとか考えていると、矛先が瞬時に俺に向いた。


 「そういう、和希は誰だ?」


 「え? 俺は……」


 と言いながら、考えてみる。当たり前のようにみおなの姿が脳裏に浮かんで、無性に恥ずかしくなった。


 「……」


 「和希。言わなくてもわかっているぞ、お前が水着姿を見たい女子はずばり——」


 ズゴーン。


 その絶妙なタイミングで康也の側頭部にビーチボールが直撃する。


 いや、てかなんだその殺人的な速度は!? という疑問も束の間、康也は海の藻屑と化していった。


 「やった、やったー康也をしとめたー!!」


 「ちょっと夏美、あんた全力出しすぎ!」


 海岸には水着姿の沙織と夏美が立っていた。夏美は活発な印象の黄色、沙織は更に露出度が高いオフショルの群青色、二人の奥で恥ずかしそうにしているみおなは、ピンク色のフリルが付いたビキニを着ていた。俺と航は思わず息を飲み、二宮金次郎像のように固まってしまう。


 ——あぁ、生きてて良かった。


 俺のすぐ隣で、なぜかビーチボールを抱えながらぷかーっと浮いている康也をほんの3ミリだけ不憫に思っていると、夏美と沙織も海に飛び込んで来た。


 ざばーん。ざばーん。


 「うわーっ、最っ高!」


 「沙織ちゃん、沙織ちゃん、気持ちいいねー!」


 「うん。よし、じゃあみんなでビーチボールね!」


 「やろう、やろう! あれ、航—ボールは?」


 「あ、なんつーか、康也がすっげぇ大事にそうに持ってて全然取れねぇの」


 「もはやビーチボールの守り神だな」


 俺がそう言うと、夏美は康也のすぐ近くまでやってきて、耳元で囁く。 


 「康也、康也—起きてよー」


 「——俺はいつでも起きている」


 「おぉー」


 愛する夏美の呼びかけに食い気味で復活した。あほだ。ビーチボールの準備が出来たのはいいが、今回の主役とも言える人物の準備がまだだった。みおなは海岸でおどおどと立ち尽くしている。俺たちは叫んだ。


 「みおなー、何してんの!?」


 「みおなちゃーん、すっごいすっごい海気持ちいよー!!」


 沙織と夏美が。 


 ——ゆっくりと一歩。


 「早く入っちゃおうぜー!」 


 「海は快適だ!」


 航と康也が。


 ——ゆっくりと一歩。


 「大丈夫だ、みおな! 進め!!」

 俺が。叫ぶ。


 ——ゆっくりと一歩。そして、ついに……


 ざばーん。


 びしょ濡れになったみおなは「気持ちいいー!」と言って、くしゃくしゃの笑顔を俺たちに向けた。それが開始の合図かのように、ビーチボール対決が繰り広げられた。何度も何度も水しぶきが舞い上がり、きらきらと太陽の光を跳ね返す。俺たちの笑い声もまるで夏の風物詩の一つのように、それが当たり前の事のように、飛び交い続けた。ただただ夢中だった。だから、この時間がいつまでも続くような気がした。続いて欲しいと心から願った。いつかは終りが来るという、不安や切なさを無理やりに押し殺して。


          ◆◆◆


 それからどれくらい時間が経ったのだろうか。すっかり遊び疲れた俺たちは、沈んでいく夕日を全員で眺めていた。みんなの影がどんどん伸びていく。俺は思った。多分、昔の人も今の人も結局、考える事は同じなのかもしれないと。この瞬間が大切だから、忘れたくないから。


 ——だから、残す。


 自分の記憶から決して消えてしまわないように。そんな根底にある多くの人の願望と努力によって、カメラやビデオなどが誕生したのだ。だから俺も、その先人達の考えに倣うことにした。現代科学の最先端。スマホの最新バージョンを片手に持ちながら、大声で叫ぶ。


 「記念写真、撮ろうぜー」


 みんなはそれぞれに返事をして「じゃあ立ち位置を決めよう」と準備をしてくれている間に、俺は杏子さんから借りてきたスタンドを砂浜に突き刺し、スマホを固定した。しばらくして振り返ると、きちんと整列しているみんなが俺の方を見ていた。思わず笑ってしまう。


 「和希、どうした?」


にやけ面の航に俺は、


 「いや、何か悪意を感じずにはいられないんだが?」


 と、応える。 


 みおなだけが「?」とよくわからない顔をしていた。


 二列目には左から康也、夏美、沙織、航。一列目にはみおなが一人。ただ、ご丁寧にその隣のスペースが空けられていた。まぁいいかと気にせずスマホのタイマーを設定して、みおなの隣である位置につく。みんなスマホを見つめ、シャッターが切られるまでの間に他愛もない話をしていたのだが、隣にいたみおなが俺との距離をぐっと詰めて、小さな声で話しかけてきた。


 「和希」


 「ん?」


 「私、ちゃんと笑えてる?」


 「あぁ、最高だ」


 「……良かった」


 そう言って、みおなは俺の手をそっと握った。あまりにも意外な展開に、俺が間抜けな表情を隠せないでいると、問答無用でカシャっとスマホのシャッター音が鳴った。慌てふためきながら「今のはやり直し!」という俺の声も虚しく、結局その写真は採用される事となった。みおなはどこか照れながらも、俺はみんなから茶化されながらも、和やかに、緩やかに時は流れていった。


          ◆◆◆


 翌日の夕飯、俺たちは昨日の出来事を杏子さんに伝えた。あまりにも話が盛り上がっていたからなのか、いつの間にか自分の食事が綺麗さっぱり平らげられていた。

 ……昨日はどこか非日常だった。もちろん普段からすれば、あおい寮での生活自体がそうなのだが、昨日は特にそう思えた。まるでその一日だけを、大切に切り取ったみたいに。まぁバイトが休みだったっていうのもあって、色々と解放されていたとは思う。ただ、そうだったとしても……楽しかったな。


 俺はふと窓の外は眺めた。すっかり真っ暗で、心なしかいつもより日が暮れるのが早くなったような気がした。ゆっくりと夏の終わりが近づいている。そう思うと、少し寂しさを感じた。


 「へぇ、楽しそうでよかったじゃない」


 杏子さんが、洗い物をしながらそう言った。俺たちも自分たちが食べた後の食器などを、テーブルの上から片付けていく。今でも興奮が冷めやらないのだろうか、目を輝かせた少女のように、みおなは杏子さんに話続ける。


 「——それでね。その後、羽衣神社で肝試しをしたの」


 「肝試しかぁ、青春って感じね。あ、そういえば夏美怖いの苦手でしょ。大丈夫だった?」


  話を振られた夏美が身を乗り出しながら応える。


 「杏子さん、杏子さん! 私も呪われるんじゃないかとか、お嫁に行けないんじゃないかとか色々考えて、すっごい怖かったんですけど——」


 「お嫁に行けないは関係ないだろ」


 俺はツッコミという名の自分の使命を全うする。テーブルを布巾で拭いていた沙織が、ふふっと笑って言う。


 「けど全然、怖くなかったよね」


 「うん」


 みおなまでそう言うので、杏子さんは不思議そうに首を傾げた。


 「肝試しなのに怖くなかったの?」


 「航がおばけ役でみんなを驚かしてたんですけど。その感じが……」


 「その感じが?」


 「芸人みたいでした」


 俺が詳細を話していると、康也が一言でオチをつけた。


 「……何それ」


 杏子さんがそう言うと、今日でもう何度目なのかわからない笑いが起きた。その話題から、みんなの視線が自然と航の方に集中していく。当の本人はというと、テレビの前に座ってじっと画面を睨みつけていた。テレビでは甲子園の特別番組が流れていた。選手たちがインタビューに答えている声が訊こえる。沙織がみんなに目配せをした後、航に近づき声をかけた。


 「おーい、ギャル男。今、あんたの話してるんだから少しぐらい——」


 「……」


 「ギャル男?」


 「うぇぇぇーん!!」


 「って何、泣いてんのよ!?」


 航は子供のようにボロボロと泣いていた。


 「応援してた高校が負けちゃってさー」


 航がそう言ったので、みんななんとなくテレビの前に集まった。画面の向こうでは、俺と同い年のやつらが悔し涙を流している。……何ていうか、凄かった。その背景には色んなドラマがあったに違いない。俺でも多少、熱くなるものを感じたのだから、応援している航からするとそれは物凄いことなのだろう。


 「いや、あんたが負けた訳じゃないんだから」


 「それでも悲しいものは悲しいんだってー」


 「はいはい……まぁ、そういうとこあんたらしいんだけどね」


 沙織は小さな弟をあやすお姉さんのように、ふわっと航の頭を撫でた。沙織がそう言うのは少しわかる気がする。自分の感情を恥ずかしがらずに、表に出すのは実に航らしい。


 ピンポーン。

 

 その時、チャイムが鳴った。杏子さんが不思議そうに反応する。


「……珍しいわね」


 そう言って、玄関へと駆けて行った。俺たちもお互いに顔を見合わす。みんなあまりいい顔をしていない。というのも、そもそも普段あおい寮に客が来ることはない。そりゃそうだ、こんな人里離れた高台にある場所を、誰も気軽に訪れようとは思わないだろう。だから、これは俺たちにとっても初めての事だった。しばらくして、杏子さんがもう一人分の足音を引き連れて帰ってきた。リビングの扉が開かれる。どこか神妙な面持ちの杏子さんの後ろに、来客の姿が見えた。意外な事に真っ先に反応したのは、航と沙織だった。        


 「親方!?」


 「え、どうして親方がここに?」


 ——親方。 


 航と沙織は確かにそう言った。この人が話に聞く、松本煙火工業の親方か。


 おそらく五十代くらいの風貌。白くなった髭を蓄えていて、きりっとした鋭い目つき、紺の作務衣を身にまとったその姿は、まるで戦国武将のような貫禄と威圧感がある。親方はゆっくりとした口調で話す。


 「少し大事な話があってな。夜分に申し訳ない、失礼する」


 「あ、どうぞこちらに」


そう言って、親方をテーブルに案内する杏子さんが、少し緊張しているように見えた。静かな空気が漂う中で、俺たちはそれぞれ席に着いた。


 「わしは松本煙火工業の松本圀人と言う」


 俺たちはそれぞれに頭を下げた。


 「要件の前に少し、わしの話をしても構わんか?」


 「もちろんです」


 杏子さんがそう応える。


 親方は、そっと髭を触りながら「まぁ、大して面白くもない話なんだが……」と言って、ゆっくりと話し始めた。 


 「わしの家系はずっと花火作りを生業にしてきた。親から子へ、その技を引き継いでいく。それはわしも例外ではなかった。今まで築きあげてきたものを終わらす訳にはいかん。そんな責任感のようなものもあったが、結局は自分の手で、人に感動を与えるような花火を作りたかった。言葉にすれば安っぽいがな……その為だけに、わしは花火師としての技術を磨き続けた。何十年という年月をかけて。勿論、その道のりは並大抵のものではない。一つの事を追及し続けるというのは、決して生易しくはなく、どこまでも奥深いものだからだ。その意味を知って欲しかったからかもしれん。自分が先代達に厳しく叩き込まれていたように、若い者にも同じような教え方をした。中途半端な事は許さん。自分の仕事に責任を持てと言った感じでな。ただ、その凝り固まった考えのせいで失ったものもある……」


 親方はそこで言葉を区切り、少し悲しそうな表情を浮かべながら続けた。


 「気がつけばわしの元で働きたいという者は、身内以外ほとんどいなくなってしまった。情けない話だ。だから、こうして杏子に頼み込んで、毎年航や沙織のような若者に、バイトという形で手伝ってもらっているのが、今の松本煙火工業の現状だ」


 部屋は静まり返り、みんな親方の話に耳を傾けていた。


 「そして色々と考えた。いつまでも古い考えに囚われていてはいかん。作品も人の教育も、時代の波に合わせ新しい形を見つけなくてはいかんとな。そう考えると肩の荷が一気に下りた気がした。わしはただ今まで築いてきた形を壊すのが怖かっただけだ。わしもそれほど若くはない。今の自分ができる事を後悔なくやろうと思った」


 そう言った親方は、どこか決意に満ちた目をしていた。


 「最近の都心部の煙火工業では、色々な花火の形が生み出されている。勿論、それなりの予算があるからこそできる事もあるがな。わしもこの町の規模に合ったものでいい。今ままでにない、新しい作品を作ってみたい」


 ずっと話を聞いていた杏子さんが、口を開いた。


 「松本さんの作りたい作品って、どんなものなんですか?」


 しばらく考えた後に、親方は真剣な面持ちで応える。


 「花火と音楽」


 「それって……コラボですか?」


 沙織がどこか驚きながらも、そう言った。おそらく、あの親方からそんな言葉が出るのが意外だった、といった感じなのだろう。


 「あぁ、そういう事だ。最近では、あらかじめパソコンでプログラムを作り、花火が点火するタイミングを、音楽に合わせて設定する事も出来るらしい。そこまで出来れば確かに凄いだろう。しかし、わしにはどうもそういう事はよくわからん。根っからの昔人間だからな。大変かもしれんが音楽の力を借りるにしても、ただ音源を流すのではなく生演奏にしたい」


 なんとなく話が見えてきた。それが果たして良い事なのか、悪い事なのか俺にはわからない。そして、俺の予想通りに親方はみおなに視線を送った。


 「みおな」


 突然、自分の名前を呼ばれて一瞬びくっとなったみおなが小さく応える。


 「……はい」


 「お前さんは、わしの事を覚えておらんか?」


 「すみません……」


 みおなは申し訳なさそうに言った。


 「そうか。小さい頃何度か会った事がある。篠宮のじいさんにはよく可愛がってもらった」


 おじいさんの名前が出て、少しだけ安堵の表情を浮かべてみおなは言った。


 「そうなんですね」


 「杏子から聞いたんだが、お前さんはバイオリンを弾いていたと聞く。それもかなりの腕前だと」


 「松本さん……」


 杏子さんが俯きながら、小さく呟いた。


 「わしが作る花火に……音楽の力を貸してはくれんか? お前さんのバイオリンの演奏で、今年の祭りを共に盛り上げて欲しい」


 親方の声が、しっかりとあおい寮に響き渡った。みおなは目をパチパチさせてから、静かに俯いてしまう。突然の事で、頭が追いついていないのだろう。自分に理解させるように、もう一度確認する。


 「私が……演奏をですか?」


 「あぁ」


 「えっと……」


 「突然、こんな話を持ちかけるのは申し訳ないと思っている。しかし、あの人の実の孫であるお前さんだからこそ、信用して頼んでいるのは事実だ」


 杏子さんは、必死に二人の会話に割って入った。


 「松本さん……実はこの子には音楽の事で色々と事情が——」


 「杏子には聞いとらん!」


 親方が声を荒げる。部屋が一斉にしんと静まり返り、再びその低い声がみおなに当てられた。


 「わしは篠宮みおな。お前さんに聞いておる」


 みおなは俯いたまま、口を噤んでいた。しばらくして、みおなは顔を上げる。親方の目を見つめて、


 「……少し考えさせて下さい」


 と応えた。


 「祭りは二十九日。本番までもう三週間を切っている。すまんが、明日には返事を貰いたい」


 そう言って、親方は立ち上がり「邪魔をしたな」と一言だけ残して、颯爽とリビングから出て行った。


 本来なら悪い話ではないのだろう。自分の演奏を、花火とのコラボで多くの人に見てもらう事が出来る。実際、そんな事をやりたくても出来ない人もいるかもしれない。しかし、みおなの場合は複雑だ。みんな、みおなの事情は知っている。音楽の大事なコンクールで失敗をした事、それがトラウマになってしまった事、周りの人間との間に溝ができてしまった事。そして、人と関わる事を避けるようになってしまった事。確かにみおなはあおい寮に来て、少しずつ良い方向に変わっている。しかし、まだ不安定な状態のみおなに、その大役はあまりにも重すぎるような気がした。まぁ、結局はみおな自身が決める事だ。俺から「止めておけ」と強要出来るものでもないのはわかっている。ただ単純に。不安で心配だった。おそらく、みんな俺と同じような事を考えているのだろう。押し黙ってしまったみおなを、ただただ見つめていた。


          ◆◆◆   


 翌日、八月十二日。


 俺はいつもどおりみおなと一緒にバイトに出かけた。昨日親方が帰った後、みおなは「みんな、心配かけてごめんね」と言い、すぐに部屋へと戻ってしまったので、結局演奏の件は話せないままだった。仕事中はまるで何事もなかったかのように、他愛もない会話をしていた。もしかすると気を遣わせないように、あえてそう振舞っていたのかもしれない。みおなから一向にその話を持ち出されなかったので、俺も踏み込まないようにしていた。


 14時になりみおなは、ばあさんに声をかけてバイトを切り上げる事になった。そして俺に「返事してくる」とだけ言い、店を出て行った。しっかりと地面を踏みしめ遠ざかっていくみおなの後ろ姿が、いつもより少し力強く見えた。帰りのバスでは、その事がずっと気になっていた。親方とどんな話をしたのだろうか? みおなはどんな答えを出したのだろうか? こればっかりは俺にもわからない。バスの揺れに身を預けながら、ただただみおなの事を考えていた。


 あおい寮に帰ってくると、外から屋上に立っているみおなの姿が見えた。その瞬間、考える間もなく勝手に体が動きだす。


 ——俺は走り出していた。


 玄関のドアを開け、階段を駆け上がり、荷物を自分の部屋に置く事もなく、そのまま屋上へと続く扉を開ける。俺は乱れた息を整えながら、さらに階段を上っていく。何故か二週間前の事が脳裏によぎった。満天の星空の下で、みおなと再会した時の事を。みおなの演奏を初めて聞いた時の事を。そしてあの時のように、あの時と同じ場所に、みおなはいた。手すりに腕を乗せて景色を眺めている。俺はゆっくりと隣に立った。


 みおなは正面を見つながら「和希が走ってくるのが見えた」と言い、俺は「そっか」と短く答える。 


 空白が生まれた。


 一秒、二秒、三秒……その空白がどこまでも長く感じられた。そして、


「あのさ……」「演奏の話……」


 俺とみおなの声が重なる。


 みおなははっと俺の方を振り向き、精一杯の笑顔を浮かべて続けた。


 「引き受ける事にしたの」


 「……」


 小さく風が吹き、みおなはさらさらと揺れる柔らかな髪を、左手でそっと耳にかけた。空は青とオレンジのグラデーションを描き、その光に照らされたみおなはどこか幻想的で、儚げで、綺麗だった。


 ——それがみおなの出した答えだった。


 俺にも言いたい事や、確認したい事は沢山ある。しかし、そんな俺のちっぽけな考えの何倍も何十倍もみおなは考え、決断したはずだ。その覚悟に文句をつける事は出来ない。ただ、それでも一つだけ確認しておきたかった。漠然とした言葉かもしれないが、


 「……大丈夫か?」 


 とだけ聞いた。みおなは少し考え、俯きながら応える。


 「わからない……」


 多分、それはみおなの正直な思いなのだろう。


 「ただ、いつまでも逃げたくない。これ以上、自分の事を嫌いになりたくない」


 みおなの思いがこぼれていくようだった。「だから……」と続けて、ゆっくりと顔を上げる。そして、俺の目を真っ直ぐに見つめながら、


 「もう一度ね、音楽と向き合いたいの」


 その言葉が、その表情が、とても強く見えた。みおなは戦っている。必死で自分自身に負けないように踏ん張りながら。それでも俺は心配だった。またみおなが傷ついてしまったら? もし立ち直れなくなってしまったら? そんな事が何度も何度も頭によぎる。ただ、目の前にいる小さな女の子の、純粋で真っ直ぐな気持ちを、俺には止める事が出来なかった。


 「……そうか。じゃあ、みおなの思うようにやってみればいいと思う」


 「本当にいいの?」


 「俺が決める事じゃないだろ。確かに正直、心配なところはあるけど、一番大事なのはみおなの気持ちだ」


 「うん……ありがとう」


 「あぁ」


 みおなは少し柔らかくなった表情で続けた。


 「あのね。親方さんと色々打ち合わせをしながら、進めていく事になったの」


 「そっか。て事は、これからみっちり練習だな」


 「うん」


 「先に言っておくが、練習には俺も付き合う」


 「え?」


 「迷惑だって言われても、つきまとってやる。俺はみおなの友達その一だからな」


 俺は冗談っぽく言いながら、笑ってみせた。


 「和希……」


 「ただやるからには絶対に成功させてやろう。町のみんなをびっくりさせてやるんだ」


 「うん」


 あぁ、成功させる。成功すれば、みおなは自信を取り戻し、過去のトラウマにも打ち勝つ事が出来るだろう。しかし、もし失敗すれば多かれ少なかれ傷つく事は避けられない。そうなって欲しくはない。だから、せめて俺にできる事ぐらいはしてあげたかった。


 二人の会話が一旦終わったところで、俺はふぅとため息を吐く。そして、


 「……それにしても、さっきからコソコソ盗み聞きとはいい趣味ですねー!」


 と、わざとらしく大きな声で言った。


 すると下から扉の開く音が鳴り、ゾロゾロと沙織、夏美、康也が階段を上がってくる。みおなは気づいていなかったのだろうか。「え?」と驚きながらみんなの顔を眺めている。


  開口一番に航が言った。


 「おっかしいなー、絶対気づかれてないと思ったのに」


 「いや、さっきから物音でバレバレだから」


 「和希、和希—」


 「何だよ?」


 「『迷惑だって言われても、つきまとってやる。俺はみおなの友達その一だからな!』」


 決め台詞のように言って、夏美はびしっと俺に指をさした。


 「……夏美やめてくれ、恥ずかしくて死にそうになる」


 俺が航、夏美とわちゃわちゃしていると、沙織はどこか真剣なトーンでみおなに話しかけた。 


 「みおな、基本的にはこのバカが練習に付き合うみたいだけど、もし何かあったらいつでも私たちに言いなさい」


 「沙織……」


 「そうそう。俺もマジでみおなの演奏が引き立つような、すっげぇ花火作るからさ!」


 「すっかり職人だな」


 康也は若干皮肉っぽくそう言うと、航は得意げな表情で。


 「あったりまえじゃん!」


 と応える。


 「じゃあ、ギャル男は卒業したら正式に親方の元で働かないとね」


 「あー……それはどうでしょう」 


 そして、俺たちはいつものように笑った。そうだ、みおなにはあおい寮のみんながついている。その存在の大きさを、今はみおな自身が一番感じているだろう。俺がそんな事を考えていると、


 「もう、みんなどこにもいないと思ったら、こんな所にいたのね」


 と、声が聞こえてきた。

 またしても階段を上ってくる足音が近づいてくる。


 ——杏子さんだ。


 あぁ、そうだよな。今のみおなにはこの人の言葉が必要だ。みんなが見守る中、杏子さんはみおなにゆっくりと歩み寄り、声をかけた。


 「みおな」


 「お姉ちゃん」


 「演奏……やるの?」


 「うん」


 杏子さんは気持ちいいほどの笑顔をみおなに向けて言った。


 「頑張りなさい。あなたなら出来る」


 その言葉を聞いて、みおなはこくっと頷いた。そして「みんな……」と言い、ゆっくりと俺たち一人一人の顔を見つめていく。今にも泣きそうな表情をこらえながら、にかっと柔らかく微笑む。


 「私、頑張るね」


          ◆◆◆ 


 みおなが演奏を決意してから二週間が過ぎた。


太陽は「いい加減にしてくれないと干からびますよ?」という声を、ようやく聞き入れたのかしぶしぶ熱気を抑え、セミ達は度重なる別れのドラマの末に、残されたメンバーで最後の叫びを唄に乗せ、緩やかな風は海から託された潮の匂いを律儀に運びながらも、少しばかりの寒さを乗せながら哀愁を漂わせた。


 ——夏が終わる。


 世界は確実に変わり始めていた。それは、俺たち人間にも例外なく当てはまる。みおなは決してバイトを休む事はなく、限られた時間の中で練習をしていた。夕飯の後、俺たちは恒例行事のように屋上へと向い、みおなはバイオリンを掲げ演奏をする。正直、俺には何もできない。ただただ、みおなを見守る事ぐらいだ。それでもみおなの「和希がいてくれると安心する」という言葉が嬉しかった。練習を始めた最初の頃は、思うように進まない事の連続だった。というのも、俺が初めてみおなの演奏を見た時と同じように、途中でプツリと演奏が途切れてしまうからだ。そしてみおなは肩を震わせ、座り込んでしまっていた。相当のトラウマがあるのだろう。コンサートの出来事が頭によぎっているようだった。俺が心配して「大丈夫か?」と声をかけると、みおなは過去の恐怖と戦いながらも「もう少し続ける」と言って立ち上がる。それを何度も何度も繰り返した。辛そうで、目を背けたくなるような瞬間が何度もあった。しかし、その努力が実ったのだろう。親方と打ち合わせをして、決定した曲を最後まで演奏する事に成功した。みおなは瞳にうっすらと涙を浮かべながら、少女のように喜んでいた。その時の演奏しているみおなは、どこか違う次元の人のように感じられた。みおなの音楽の世界に誘い込まれる。見ている人を、聞いている人を魅了してしまう。幻想的で、儚げで、美しい。みおな。お前はやっぱり凄いよ。自分の弱さを受け止める事。そして、必死にそれに立ち向かう事。それは決して弱さなんかじゃない。それは……強さだ。頑張れ、頑張れみおな! 俺は照れくさくて中々口に出せない分、心の中でエールを送り続けた。


 そして、それぞれのバイト先も祭りの本番に向けて、準備に取り掛かっていた。


 航と沙織の松本煙火工業では、親方がみおなの返事を聞いてからというもの、ただならぬ緊張感が漂っているらしい。それもそのはず、親方にとっても初めて音楽とのコラボに挑戦する訳だ。必ず成功させるという、熱い思いがあるに違いない。羽衣神社では会場設備の為にテントの準備や提灯などの飾り付け、そしてみおなが演奏する為のやぐら作りにも取り掛かっていた。もちろん、この町の運営実行委員会の人たちが中心となって準備をしていくのだが、祭りの会場が羽衣神社となっている為、バイト組である康也と夏美が手伝わされる事も多かった。特に康也は別件で、神主さんから祭りの宣伝用チラシ制作を任されていた。リビングでもカタカタとパソコンを睨みつけて、チラシ制作に取り組んでいただけの事はあって、完成されたものはなかなかの出来だった。今までの康也の性格なら「書きたい小説がある。何で俺が仕事時間以外にチラシ作りなどしなければいけないんだ」とか言い出しそうなものだが、文句の一つも言わずにその仕事を引き受けた康也も、みおなに対して応援したいという思いがあったのだろう。篠宮駄菓子店では、康也から受け取ったチラシをちびっこや、近所の人達に配っていた。そのチラシには「松本煙火工業—篠宮みおな 花火と音楽のコラボレーション!!」といった感じでみおなの名前もしっかりと書かれていたので、みおなは少し緊張したような、恥ずかしそうな表情でそのチラシを配っていた。お客さんから「頑張ってね」「絶対、見に行くから」と声をかけられる度に、笑顔で返事をしていたのが微笑ましかった。


 本番まであと三日。俺とみおなは演奏の最終調整の為に、今日も屋上に来ていた。あたりはすっかり真っ暗で、緩やかに吹く風が少しひんやりとしていて、どことなく寂しさを感じられる。本番の段取りなどもふまえながら、いわゆるゲネプロを想定してやってみる事にした。最後まで演奏をやり切った、みおなはとてもいい表情をで、俺は安心した。大丈夫だ、これなら必ず成功する。俺はみおなに「少し休憩しようか」と声をかけた。みおなは「うん」と言って二人とも座る事にする。 

     

 「結構いい感じになってきたかも」


 「そうだな」


 「ありがとう。ずっと練習に付き合ってくれて」


 「俺は何もしてない。頑張ったのはみおなだ」


 「私が頑張れたのは、みんなのおかげ」


 みんなのおかげか。まさかあのみおなからこんな言葉が出るなんてな。


 「……みおな変わったよな」


 「え?」


 「何ていうか、強くなった」


 俺がそう言った後、みおなは少しだけ微笑んで「正直に言うとね……」と話始めた。


 「おじいちゃんが亡くなって、コンクールで沢山の人に迷惑かけて、私、もうダメだったの」


 俺は思わず、みおなの方に体を向けた。


 「これ以上傷つきたくなかった。また傷ついてしまうのが怖くて仕方がなかった。逃げたい、逃げたい、逃げたい。そう思っていたら、一つの考えに行き着いたの。誰かと関わるから傷ついてしまう。じゃあ、もう関わらなければいいって。だから私は、自分の身を守るように壁を作った。もうそうする事でしか、自分を保てなかったんだと思う」


 みおなは苦しそうに、悲しそうに、当時の心境を口にする。


 「ある日、ずっと自分を責め続けて抜け殻みたいになってた私に、お姉ちゃんはおばあちゃんの駄菓子屋でバイトをしないかって声をかけてきた。あおい寮で住み込みになる事になるけど、私しかいないからって。……そしたら、みんながいた」


 「まんまと騙された訳だ」


 「うん」


 次第にみおなの表情が柔らかくなっていく。


 「今思うと、みんなには本当にひどい事をしたと思う。でもそんな私をみんな迎え入れようとしてくれた。何度も何度も……」


 そして、みおなはしっかりとその思いを口にした。


 「私、あおい寮が好き」


 「みおな……」


 「沙織がいて、夏美がいて、康也がいて、航がいて、お姉ちゃんがいて、和希がいる。毎日が本当に楽しかった。私もみんなと同じあおい寮の一員なんだって思うと嬉しかった。……でもね、ちょっと複雑なの」


 「複雑って?」


 「いっぱいいっぱい助けてもらった。それなのに今回もまた助けてもらってる」


 「それは俺たちが勝手にやってるだけだ。気にしなくていい」


 「私はみんなの気持ちに応えたい。逃げないで……ちゃんと、もう一度。自分の足で歩けるようになりたい」


 「……きっとなれるよ」


 俺はそうつぶやいた。しばらく沈黙が続いた後、みおなが口を開いた。


 「もうすぐ夏休み終わるね」


 「あぁ」


 夏休みが終わる……か。もちろん考えてはいた。祭りが終わればその後すぐに、あおい寮での生活も終わってしまう事を。みんなとの別れが来てしまう事を。そして本来の日常が始まる事を。


 「……やっぱり怖いな」


 みおなの声は震えていた。


 「でも、これだけ頑張ってきたんだ。絶対に成功する」


 みおなは少し笑みを浮かべながらも、首を横に振った。


 「演奏の事もそうなんだけど、それだけじゃなくて……」


 「どうした?」


 「学校が……怖いの」


 俺はそうかと思った。夏休みが終われば、俺たちは何ら変わらない三学期を迎える事になるだろう。おそらく、航も康也も沙織も夏美もそうに違いない。しかし、みおなは違う。自分が迷惑をかけた人たち、関係が壊れてしまった人たち、その人たちがいる集団に再び飛び込まなくてはいけない。少し想像しただけでも、それがいかに勇気のいる事なのかがわかる。


 「絶対に許してもらえない事をしたってわかってるから……だから、何て話したらいいのかわからない。顔色伺って、私の失敗の事、色々言ってるんだろうなって想像すると、苦しくて息が出来なくなる……」


 「今のみおななら大丈夫だって、何も気にせずに明るく接すれば——」


 「簡単に言わないで!」


 と、みおなは声を上げた。そして、はっとしてそのままうつむいてしまう。……確かに簡単に言ってしまった。みおなにとって、その『何も気にせず明るく接する事』がどれだけ難しいかぐらい、俺にだってわかってたはずなのに。


 「……今のは俺が悪かった、ごめん」


 「ううん」


 しばらくして、みおなは続けた。


 「ねぇ、和希」


 「ん?」


 「……ずっと夏休みが終わらなければいいのにね」


 みおなのその言葉が、すっと耳に入ってきた。あぁ、終わって欲しくない。だから「そうだな」と俺は応えていた。


          ◆◆◆


 みおなとの練習が終わり、自分の部屋の扉を開けると、久しぶりの光景が目の前に広がってた。


 「ほんと……懲りないよな」


 そこには航と康也の姿があった。


 「勝手に俺の部屋にいるお前たちを見たら、少し安心してしまっている自分が怖い」


 「おぉーそれって、俺と康也にちゃんと心を開いてるってことじゃん!」


 「あーそれはない」


 「まったまたー照れんなって?」


 「照れてないから。てか、そんなことはどうでもいい。何しに来たんだよ?」


 俺の質問に「こほん」と大げさに咳払いをした航は、変に格好つけたトーンで話始めた。


 「今この部屋には、俺と康也が持ってきたものも合わせて枕が三つある。これの意味がわかる?」


 「さぁ」


 俺は肩をすくめる。


 「ほら、もうすぐここでの生活も終わっちゃうでしょ? だから、和希と男と男の決着をつけにきたのさ!!」


 「康也、そうなのか?」


 「知らん」


 「いやいや、康也さっき話したじゃん」


 なんだかグダグダだった。


 「つまり、あれか? 枕投げしようって事?」


 「そういう事!」


 航が目を輝かせて応える。枕投げね、最後にやったのは確か小学校の修学旅行か。


 「けど正直、子供っぽいっていうか。高校生の俺たちがやるもんか?」


 「わかってないねぇー和希は。大人の枕投げはそんなに甘くない。手加減なしのガチの真剣勝負だから」


 俺はふぅとため息をついて、話を康也に振った。 


 「康也もこんな事やってていいのか? てか、結局小説は書けたのかよ?」


 「いや、どうやらここにいる間には書き終わらなさそうだ。だから別に構わん。俺は、今できる事をするまでだ!」


 そう言って、康也はメガネを輝かせる。


 「何か格好良く言ってる風だけど、今できる事って枕投げだからな?」


 「さっすが康也。じゃあ、戦闘開始と行きますかー!!」


 そして俺たちは、枕投げをする事になった。



 バコッ。


 ドコッ。


 グチャ。


 ……グチャ?


 その後、様々な音を部屋に響かせながらも、壮絶な戦いが繰り広げられた。うん、甘かったと思う。俺たちがやっている事は『枕投げ』なんて生易しいものではない。それは……もはや『戦争』だった。そもそも、どうすれば勝負がつくのか明確なルールがなかった。これが戦況が血みどろ化した一番の原因だと思う。いつの間にか、相手が戦意喪失すれば勝ちという暗幕の了解のみが、この部屋の空気に漂っていたと思われる。


 結果、あれだけ威勢のよかった航が真っ先に惨敗した。今は壁の隅っこで「枕こわい……枕こわい……」とつぶやいている。


 俺は康也と一騎打ちになっていた。


 「はぁ……はぁ……」


 「はぁ……はぁ……」


 二人とも肩で息をしながら、枕を片手に向かい合っている。お互いの距離感を保ちながら、相手を伺う。一瞬の隙も見逃してはならない。まるで、侍同志の決闘だ。 

    

 …………てか、俺たちは一体、何をやってるんだ。


 「康也」


 「何だ?」


 「この勝負……これで終わりにしないか?」


 「いいだろう」


 「え……」


 空白が五秒続き、


 「えーっ!!!!」


 航は目をパチパチさせた後、うるさいぐらいに叫んだ。


 「ちょっと待って、まだ決着ついてなくねぇ? これで終わり?」


 「「そうだ」」


 俺と康也は応える。


 「いやいや、ぼこぼこにされた俺の苦労は?」


 「「ドンマイ」」


 再び応える。


 「交渉して必要だと判断すれば、和睦も視野に入れる。これは立派な戦術の一つだ」


 「同感だ」


 「まじで、ありえないんですけどー」


 航が情けない声を出した。俺たちは笑った。けらけらとがはがはと。腹の底からバカみたいに。そして、航がそのままのテンションで言った。


 「俺さぁー沙織に告るわ!」 


 「え……」


 空白が五秒続き、


 「えーっ!!!!」


 俺は目をパチパチさせた後、うるさいぐらいに叫んだ。


 「航、大丈夫か? さっきグチャってなったから、頭おかしくなったか?」


 「全然、頭は、問題ナッシング! いや、なんつーか学校始まって、みんなバラバラになったらいつ会えるかわかんないじゃん。だから、その前に気持ちを伝えとこうと思って」


 「……お前が沙織を好きだって事が意外なんだけど」


 「いや、バレバレだっただろ」


 康也がさも当然のように言う。


 「まじ?」


 「ちなみに俺も夏美に告白する」


 「え……」


 空白が五秒続く……までもなく俺は「そうか」と言った。

 康也は目をパチパチさせた後、どこか寂しそうに叫んだ。


 「ちょっと待て! お前たち、驚かないのか?」


 「「うん」」


 俺と航は心地の良いハーモニーを奏でる。今までで一番息が合っていたかもしれない。若干、ヘコミ気味の康也を一旦放置して、航は俺に話しを始めた。 


 「まぁ、俺たちはこんな感じって事。和希はどうすんだよ?」


 「どうするって?」


 「みおなに何も言わなくていいの? 確かにLINEでやりとりは出来るけど、この先どうなるかもわかんない。もしかしたら、学校始まった途端、すぐに彼氏ができるかもしれないし」


 「え、彼氏?」


 「いや、ありえない話じゃないでしょ? みおな、あのルックスだし、他の男がほっておくと思う?」


 「まぁ、確かに」


 「で、どうすんの?」


 「俺は……」


 このままみおなと会えなくなる。みおながいない毎日。その日常を想像してみる。


 …………嫌だ。


 そうか、俺は無理やり自分の気持ちを抑えようとしていたのかもしれない。今はそんな状況じゃない。ただ、みおなを支えたいって。そもそも、俺のその異常なおせっかいの時点で答えは出ていたんだ。じゃあ、素直になろう。自分の気持ちに。全てが終わった時。みおながちゃんと自分の演奏をやりきって、一歩踏み出せた時。俺は気持ちを伝える。


 「……みおなの事が好きだ。俺も告白する」


 俺が意を決してそう言うと、航と康也が「おぉーっ!」と盛り上がる。うん、うるさい。


 「じゃあ、約束しようぜ」


 「約束?」


 俺は航に聞いた。


 「祭りの日、みんなで告る」


 何だか発想が航らしい。そう思い、俺は微笑した。


 「俺は沙織に、康也は夏美に、和希はみおなに!」


 そして俺たちは、男同志の約束をした。

 あおい寮での生活が終わっても、好きな女の子との物語の続きを手に入れるために。


          ◆◆◆


 八月二十七日。時刻は朝の5時。


 途中で目が覚めてしまった俺は、トイレに行く為に一階に下りていた。用を足し、部屋に戻ろうとすると、ふといつもと違う様子に気がつく。リビングからほんのりと明かりが漏れていた。誰かがいるのだろう。それにしてもこんな朝早くから? 俺は何気なくリビングの扉を開けた。するとそこには、じっとスマホを覗き込んでいるみおなの姿があった。スマホからはオーケストラの音楽が流れていた。おそるおそる俺は、みおなに声をかける。


 「みおな?」


 「和希……」


 みおなは力なく俺の声に反応した。……一体どうしたのだろう。俺は明らかにみおなの様子がおかしい事に気が付いた。みおなは、見ていたスマホをポンとテーブルの上に置く。画面を見ると、それは有名な動画サイトにアップされていた映像だった。とある高校の合奏コンクール。大勢の制服姿の生徒たちが、舞台の上で楽器を演奏している。そして曲は、最高潮の盛り上がりをみせていた。


 その瞬間、演奏が止まった。


 そして、バイオリンを弾いていた一人の少女が、その場に泣き崩れてしまった。

 会場には異様な空気が流れ、ざわざわと観客の不安そうな声が上がっていく。

 俺は確信した。


 ——その少女は、みおなだった。


 みおなのバイオリンは、その役目を終えたように舞台に横たわっていた。指揮者の合図で、演奏が再開される。しかし、生徒たちは動揺していたのだろう。その演奏が乱れているという事は、素人の俺でさえ感じられた。そして、とうとう続行不可能と判断されたのだろうか。幕がゆっくりと下りていった。


 ……それだけなら良かった。そこで終われば何とか希望は持てただろう。しかし次の瞬間、俺は自分の目を疑った。体が凍りついてしまっていた。その現実から目を背けたくて仕方がなかった。


 ——言葉の嵐。


 みおなに対する、第三者の誹謗中傷の言葉が画面を覆っていく。右から左へ容赦なく流れていく、流れていく、流れていく。


 その波は一向におさまる事はない。明らかに悪意のあるものだった。誰か一人が悪口を書くと、よってたかって無責任な言葉が集まってくる。何て卑怯なのだろう。顔が見えないから、名前がわからないから、だからといって何を言ってもいいという訳じゃない。そんな状況だからこそ、人間の本質的な部分が見えるのかと思おうと吐き気がした。そして俺は、心の底から込み上げてくる怒りを抑えきれなくなり、動画を止めてスマホの画面を勢いよく机に伏せた。 


 恐る恐るみおなを見た。その目にはもう光が宿っていなかった。いつものみおなではなかった。泣いている訳でも、怒っている訳でもない。何も感情がなく、ただそこに存在していた。そして今にも消えてしまいそうな、か細い声で言った。


 「……コンクールに出場したメンバーのグループLINEがあってね、そこにこの動画が上げられてた。私の悪口が書かれてるのを見つけて、嫌がらせでやったんだと思う」


 「……」


 「動画を上げた子とは凄く仲が良かったの。だから、私はコンクールの後ずっと謝り続けた。何度も、何度も。その子だけだったの、気にしなくていいよって言ってくれたのは。だけど……やっぱり……許してくれる訳ないよね…………」


 「みおな……」


 「……うわぁぁぁぁぁぁ!!」


 そう言って、みおなは泣いた。泣き続けた。


「おい、しっかりしろ! みおな!!」


 俺たちの声が聞こえたのか、杏子さんが慌ててリビングに入ってきた。


 「どうしたの!?」


 「杏子さん、みおなが……」


 「みおな、みおな!!」



 俺と杏子さんは、しばらくみおなを落ち着かせる事にした。20分ほど経って、ようやく泣き止んだみおなを俺は部屋まで送り届け、今日のバイトは休ませる事にした。何でこうなるんだと思った。どうしてこのタイミングなのだろう。丁度、杏子さんから聞いたみおなの話もそうだった。


 ——コンクール本番一週間前に、おじいさんが亡くなった。


 皮肉にもその状況と今回があまりにも一致しすぎている。とにかく心配だった。祭りの演奏の事もそうだが、みおな自身の事が心配でたまらなかった。部屋の外から声をかけても反応がない。LINEを送っても返事がない。ただただ、みおなが落ち着くのを願うしか手段がなかった。何も出来ない自分が腹正しくて、俺は気がつくと廊下の壁を殴りつけていた。ドンッと鈍い音がして拳にヒリヒリとした痛みが広がる。そうする事でしか、自分を落ち着かせる事ができなかった。それでも何とか一日のバイトを終えて戻って来た俺は、リビングにみんなと集まっていた。杏子さんは今朝起きた事をみんなに話し、例の動画を全員に見せていた。そこにみおなの姿はない。


 タイムコードが最終地点に到達し映像が止まると、重苦しい空気が漂った。おそらく色々な感情が渦巻いているだろう。そして、一番最初にその静寂を切り裂いたのは意外な事に航だった。


 「……何だよこれ!」


  航はテーブルをばんっと叩き、怒りを露わにする。


 「訳わかんねぇよ。なんであんなに頑張ってるみおなが……」


 「航……」


 沙織が小さくつぶやいた。


「俺はこの時の状況はわかんねぇ。けど、きっとみおなは今回と同じように頑張ってたはずだって。何も失敗したくてした訳じゃない、仕方ねぇじゃん。それなのにこんな言われ方、あんまりだっつーの……」


 「……うん、ひどいよね」


 夏美はそう言って、しくしくと涙を流す。隣にいた杏子さんが優しく肩をさすってあげていた。ずっとうつむいていた沙織が顔をあげて言った。


 「この動画って、誰がサイトに上げたのかな?」


 その確かな答えはわからない。ただ俺は自分の予想を言葉にした。


 「映像のアングルからして、席に座っていた一般客だと思う」


 「……消す事ってできないの?」


 俺が応えるよりも早く、康也が口を開く。 


 「無理かもしれないな」


 「え?」


 「明らかに違法とされるようなものなら削除申請する事も出来るが、基本的にこの程度なら許容の範囲だろう」


 「……この程度?」


 航はそう言って、立ち上がった。そして、ゆっくりと康也に近づき胸ぐらを掴んで無理矢理に立たせる。


 「康也。もっかい言ってみろよ!」


 「おい、やめとけ!」


 俺が声をかけても、航は止まらなかった。


 「これのどこが、この程度なんだよ。みおなが誰かも知らないような奴らに、さんざん言われてんだぞ!」


 「これが現状なんだ。ネットの世界では無責任な言葉が飛び交っている。それは止めようと思っても止められるものではない。今回、たまたまみおながその被害にあった。それだけだ」


 「何、悟ったような事言ってんだよ。康也は腹が立たねぇのかよ!?」


 「腹が立つに決まってるだろ!」


 「……」


 康也が声を荒げ、航はチッと舌打ちをして自分の席へと戻っていった。そして、杏子さんはゆっくりと顔をあげて、


 「みんなの気持ちは本当に嬉しい。怒りたくなるのもわかるよ。けど、一番苦しんでるのはあの子のはずだから……」


 と、言った。


 杏子さんのその声が、その表情が、妹に対する不安と心配で揺れ動いているように見えた。杏子さんも、かなりショックだったに違いない。

 その時、リビングの扉がゆっくりと開いた。みんなの視線が、一斉に集まる。そこに立っていたのはみおなだった。


 それぞれが「みおな!」と声をかける中、みおなは静かに自分の席に座った。そして、


 「みんな、心配かけてごめんね」


 と、小さく言った。


 「みおな、大丈夫なの?」


 杏子さんが優しい声で聞いた。


 「うん。映像見たときはびっくりしたけど、なんか思いっきり泣いたらスッキリしちゃった」


 そう言って、みおなは微笑した。


 「みおなちゃん、みおなちゃん、本当に大丈夫?」


 「大丈夫。夏美まで悲しい顔しないで」


 「はぁ、何かあんたの顔見て安心したわ」


 そう言って、沙織はふぅと息を吐いた。


 「沙織にも心配かけてごめんね」


 「いや、私はいいんだけど、さっきまでこのギャル男が珍しく暴れ狂ってたのよ」


 「……航が?」


 みおなが不思議そうな顔で、航に視線を送る。


 「いや、なんつーか。暴れてた風みたいな?」


 「何だよそれ」


 俺は微笑しながら言った。航も頬をかきながら、どこか恥ずかしそうにしている。まぁ、康也もそうだがこいつがこんなにも怒ってるのを初めて見たのは事実だった。普段はおちゃらけているが、こんな時は真っ直ぐな航の存在がどこか頼もしく感じる。部屋の空気がやっと、いつもどおりに戻ってきたところで、


 「みんな、心配かけてごめんなさい」


 と、みおなは頭を下げた。


 「演奏、出来るか?」


 俺は聞いた。


 「うん。成功させる」


 顔を上げたみおなの表情は笑顔だった。……無理をしている、そう思った。気を遣って、明るく振舞っているのだろう。それでも。いや、だからこそ。俺たちは、みおなの言葉を信じる事にした。


          ◆◆◆


 その翌日、みおなの演奏と松本煙火工業の花火のリハーサルが羽衣神社で行われ、そして八月二十九日。ついに夏祭り当日がやってきた。直前の準備などもある事から、松本煙火工業の航と沙織、羽衣神社の康也と夏美たちはいつもと変わらず最後まで仕事をする事になり、篠宮駄菓子店の俺とみおなは昼過ぎには上がる事になった。俺から話を聞いたのもあって、ばあさんはみおなの事をいつも以上に心配し気遣っていた。勿論、みおなにとって二日前の件はかなり堪えただろうし、本番に向けて緊張やプレッシャーなども確実にのしかかっているはずだ。しかし、みおなはいつもどおりだった。お客にも、ばあさんにも、俺にも。そして「大丈夫。ずっと和希が一緒にいてくれたから絶対成功する」という言葉を聞いて、俺は少しだけ安心した。


 次第に日が暮れ始めた頃、俺とみおなが本番での打ち合わせをしていると、ぞろぞろとみんなが帰ってきた。部屋に戻り、再び出かける準備を始めている。みおなの晴れ舞台をみんなで見に行くためだ。それから30分ほど経ち、時刻は18時。それぞれが準備を終えてリビングに集まっていると「ごめん、遅くなって」と言い、杏子さんとみおなが現れた。一瞬、部屋の空気がしんと静かになった。そして「みおな……綺麗」と沙織が呟いた事から、みんなのテンションが一気にあがる。


 どこか恥ずかしそうにして立っていたみおなは、いつもと違った格好をしていた。群青色の浴衣。所々、金魚の模様が入っており、髪の毛をアップにした姿は少し大人っぽく見える。時々、ちらりと見えるうなじが艶めかしくどきっとした。「じゃあ、そろそろ行こっか」と杏子さんが言い、俺たちはあおい寮を後にした。よくよく考えると、あおい寮に誰もいなくなる状況はこれが初めてだった。杏子さんもみおなの演奏を見るのも勿論だが、自治会の人たちとの挨拶もあるらしく顔を出さないわけにはいかないとの事だった。


 羽衣神社に着くと、色とりどりの屋台が俺たちを出迎えてくれた。焼きそば、たこ焼き、ベビーカステラなどの匂いが漂い、目の前を子供たちが楽しそうに通りすぎていく。あぁ、いいな。俺は昔から夏祭りが大好きだった。どこか別の世界に来たような、不思議な感覚になる。鳥居の前で杏子さんは「また後でね」と全員に声をかけた後、小走りで去っていった。自治会の人たちの元に行ったのだろう。


 「って事で……」と航は話を切り出し、20時開始のみおなの演奏まで、それぞれ自由に屋台をまわろうという事になった。ここからが航の快進撃だった。二人組でまわる事を力づくで押し通し、これまた力づくで、同じバイトでペアを組むという事まで成立させた。男同志の約束を守ったぞ、と言わんばかりに航は、俺に視線を送りにかっと笑ってみせた。


          ◆◆◆

 

 からんころん、からんころん。


 みおなは下駄の音を境内に響かせ、俺はその隣を歩いていた。まず境内の中央に向かった。二人とも同じタイミングで見上げた視線の先には、紅白の立派なやぐらが組み立てられており、それは圧巻だった。この場所にみおなが立つ。演奏する。そう考えると、俺はどこか誇らしく感じた。しかし、当のみおなは「凄いね……」と笑いながらも、小さな肩を震わせていた。俺は少しでもみおなの不安や緊張を、紛らわせる事ができればと思った。


 ——だから、二人で祭りを思いっきり楽しんだ。


 屋台の灯りに照らされながら、他愛もない話をして、たこ焼きを食べて、りんご飴を一本ずつ買った。周りからすると、俺たちはカップルのように見えるのかもしれない。そう変に意識してしまった瞬間、無邪気にりんご飴を頬張るみおなの姿が、心から愛おしく思えた。そして、航の言葉が頭の中で蘇る。


 『もしかしたら、学校始まった途端、すぐに彼氏ができるかもしれないし』


 ……あぁ、やっぱそれは嫌だな。


 その後、みおなは金魚すくいをしていた。「和希は隣で見ていて」と言われたので、俺はそのとおりにする。肝心のみおなの実力はというと、屋台のおっちゃんが苦笑いをするぐらい下手だった。何度もポイを水につけて金魚を捕まえようとするが、すぐに穴が空き逃げられてしまう。俺が「代わろうか?」と声をかけても、珍しく頑固なみおなは「ううん、和希は見ていて」と言う。はい、わかりました。結構な金額を費やしたところで、みおなはついに小さな金魚を一匹すくい上げることに成功した。そして、おっちゃんに袋に入れてもらい、まるで宝物でも眺めるかのように目を輝かせていた。


 「よかったな」


 「うん」


 そして、みおなはその金魚の入った袋を俺に差し出す。


 「え?」


 「この子は、和希にあげる」


 「いいのか?」


 「うん。ずっとお礼がしたかったの」


 俺はみおなのその気持ちが嬉しくて、素直に受け取る事にした。


 「じゃあ、遠慮なく。大切に育てるよ」


 「約束」


 「あぁ」


 そして、みおなは急に何かを思い出したかのように、


 「あ、私あおい寮に戻るね」


 と言った。


 「どうしたんだ?」


 「ちょっと忘れ物」


 そう言って、みおなは鳥居の外へと小走りで向かっていった。


 「早く戻ってこいよ」


 と、声をかけると立ち止まり、こちらを振り返る。


 「和希……ありがとう」


 みおなは柔らかな笑顔を向けて、再びかけていった。


          ◆◆◆


 そして、本番20時。


 ——みおなは戻って来なかった。


 やぐらの周りには多くの人が集まり、今日のメインイベントを今か今かと待ちわびている。


 「和希、どうしたんだよ!?」


 「みおなは? 何でいないの?」


 航と沙織が慌てた声でそう言った。あおい寮のメンバーと杏子さん、篠宮のばあさん、松本煙火工業の親方も現場から一旦離れて、俺たちのところに集まっていた。

 俺はそれぞれの質問を受け、      


「あおい寮に戻ったんだけど……」


 と言った後、ラインを送っても既読がつかず、電話をかけてもただただ呼び出し音が鳴り続けるだけだった。


 本番の時間が5分過ぎ、10分過ぎたところで、人々がざわつく。そして、「おーい、まだ始まらないのか?」と声が上がり始めた。


 「すみません、俺、ちょっと様子見てきます!」


 そう言って俺は、羽衣神社を飛び出した。


 全力で走る。走る。走る。走りながら、俺は考えた。みおなの身に何かあったのか? 事故にでも巻き込まれてしまったのか? それとも……逃げた? いや、そんな事はない。みおな自身も言っていた。もう自分から逃げたくないと。それに、あれだけ必死になって、自分の弱さと立ち向かおうとしていた奴だ。そんな事をするわけない。じゃあ? どうして? あの会場に、自分の晴れ舞台に、本人はいない。俺にはわからなかった。だから、その答えを求めるように、ただただ走り続けた。見慣れた道を全速力で走り続けた。 


 そして、もしあおい寮でみおながふさぎ込んでいたら、喝を入れて背中を押してやろうと心に決めた。ようやく、いつもの石段を上りきり、あおい寮が見えてきた。俺はもう一度スマホを確認したが、相変わらずみおなからは何の連絡もなかった。最後の力を振り絞り、玄関までかけていく。


 そこで、俺は足を止めた。


 いや、止めずにはいられなかった。


 頭が真っ白になった。


 現実を受け止めたくなかった。


 夢であってほしかった。


 鼓動が早くなる。


 息ができなくなる。


 感情が高まって声にならない。


 「んぐぁ……」


 俺はその場にうずくまり、あおい寮を睨みつけるように眺めた。


 何度も何度も。


 自分の目がおかしくなっているだけだ。そう思い目をこすり続けた。


 それでも。それなのに。目の前の景色は変わらない。


 「……んで……なんでだよ……」


 あおい寮の屋上。その木の柵には、見覚えのある浴衣の帯が巻きつけられていた。そして……その先には…………



 ——みおなは浴衣の帯で、首を吊っていた。



 その姿が。その表情が。


 あまりにも苦しそうで、恐ろしくて。


 あの時の笑顔は、あの時の言葉は、あの時の約束は。


 嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ。


 頭の中を言葉と感情がこれでもかと埋め尽くしていく。


『私と関わっても何の意味もありません』


『私には価値がないんです。何もかもからっぽです』


『だから私は……生きてちゃいけないのかもしれません』


『和希が友達になって欲しいって言ってくれて……必要とされてるんだって思えて、私どこか救われた気がしたの』


『いつまでも逃げたくない。これ以上、自分の事を嫌いになりたくない』

『もう一度ね、音楽と向き合いたいの』


『私、あおい寮が好き』


『和希……ありがとう』




「……っつあああああああああああああああああああ!!」

 



 そして、俺は壊れた。

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