いつかの夏休み

森口裕貴

序章「鞄の中、心の中」

 教室の扉を開けると女の子が立っていた。

 窓を開けこちらに背を向けながら外を眺めている。夕日が差し込む教室の中は、オレンジ色に染められていてなんとも不思議な光景だ。上手く説明できないが、どこか映画のワンシーンのような気さえする。


 ……嫌いじゃない。教室という普段見慣れている場所が、こんな風に幻想的になる事が素直に綺麗だと思えた。俺はゆっくりと彼女に近づく。一歩、また一歩……


 次の瞬間、ひゅるりと窓から心地の良い風が訪れた。


 彼女の長い髪の毛が揺れ、そして振り返る。目が合う。彼女は全力で笑顔だった。そして、笑顔のままポロポロと涙を流した。俺は戸惑わずにはいられない。なぜか胸が苦しくなって、固まってしまう。そしてしばらくしてから、ゆっくりと彼女の口元が動く…………何を言ったのか聞き取れない。俺は彼女の口の動きからその言葉を推測する。 


 「…………!!!!」


 そうか……わかったぞ!! その言葉は、今の自分の心境にも実にしっくりとくる。おそらく彼女も俺と同じく、それを望んでいるに違いない。そうだ、じゃあ俺も言ってやろう。今ここで、言葉にしてやろう。俺はすーっと息を吸い込み、全力で叫んでみた。


 「カ・ツ・カ・レ――!!!!」


 ……嗚呼、なんとも清々しい。何かをやり遂げた後のような達成感。空腹からくる意識を集中させ、今の自分の感情を爆発させた。爆発といえば、芸術家の岡本太郎もそのような事を言っていた。なるほど。これがその瞬間だというのか。俺は、遂に芸術の世界に足を踏み入れてしまったらしい。我ながら恐ろしい、この溢れんばかりの才能が…… 


 今にもどこかから「あほ」とか「引っ込め」などの罵声が聞こえてきそうだったが、すっと耳に入って来たのは罵声ではなく、何とも日常的な環境音だった。


 「ガタン、ゴトン!」


 うるさい。人がせっかく気持ちよく夢の中を楽しんでいるというのに。自分の目覚め方ぐらい、自分で決めさせて欲しいものだ。俺は閉じきったまぶたを仕方なく開けてみることにした。


 「…………」


 ぼんやりとした意識で辺りを見渡し、少しずつ今の自分が置かれている状況を認識する。


 電車の中……そうだ、電車の中だ。ようやく頭の中のメインコンピューターが起動したらしい。その電車はというとたった二車両しかなく、お世辞にも新しいとは言えないが、昔ながらの雰囲気を漂わせている。もちろんクーラーという代物も存在しない。その代わりに年季の入った扇風機が、視界の上で悲鳴を上げながら活動している。そんなに頑張って壊れないのか? 見ていて少し心配になった。ただ、そんな頑張る扇風機君には申し訳ないが、正直少し物足りない。暑いものは暑いのだ。寝ている間に汗をかいていた事に気付き、俺は真っ白なTシャツを手でパタパタとして微かな風を送り込んでいた。


 それにしても妙にリアルな夢だったな。っていうか最近、より一層夢のクオリティが上がっているような気がする。たまに夢が白黒だという話を聞く事があるが、俺には全く理解ができない。白黒どころか4Kもびっくりの超高画質だ。俺の脳内では、色も形も音も、全て現実世界と同じように再現される。まぁ、こうなった原因はおそらく普段の習慣の積み重ねだろう。


 俺には想像癖がある。


 時に自分の都合の良いように、時に自分の理想や願望を脳内で具現化する。ただの現実逃避だと言われるかもしれないが、俺にとっては17年という人生の中で身に付けた、れっきとした処世術だ。そして何より、その行為自体が楽しいのだから仕方がない。


 中学の頃、頭のハゲた科学教師が言っていた言葉をふと思い出す。


 「脳は現実と想像を区別出来ない。酸っぱい食べ物を想像すれば唾液が出てくるように。感動的な場面を想像すれば瞳が潤んでしまうように。その映像が鮮明であればあるほど、心と身体は実際にそれを体験した状態になっている」


 当時は何の事かさっぱりだったが、今なら何となくわかる気がするし、心当たりもある。その教師が言っている事が本当だとしたら、俺の想像癖もあながち無駄ではないのかもしれない。なるほど、素晴らしい人生経験だ。


 「ガタン、ゴトン!」


 電車は快調に目的地に向かって走り続ける。


 乗客はほとんど乗っていない。俺以外にいるのは同じ座席に少し間を空けて座っている、ばあさんくらいだった。

  

 「腹へった……」


 咄嗟に出た言葉はこれだ。朝から何も食べてこなかったつけが回ったらしい。まぁ、自業自得か。駅に着いたら、食料を調達しに……ん? 何だ、視線を感じる。俺は横目でちらりと見る事にした。隣に座っているばあさんが険しい顔でじーっと俺の方を見ている。何だろう……俺の顔に何かついてる? あ、びっくりするくらい俺がばあさんの孫に似ているとか? 他の可能性は……まぁ、いいか。気にしない事にしよう。


 ——五分後。


 まだ見てる!! じーっと見てる!! てかガン見!!! え、何か俺、悪い事でもした? いや違う……これはおそらく…………カツアゲ? 俺は今からカツアゲされるのか!? そして、年金生活のばあさんに金をむしり取られるという、人類史上で極めて残念な男になってしまうのか!? 歴史の教科書にも俺の顔写真が載って「老人からカツアゲされた男」として、後世にその名を語り継がれてしまうのか!? 


 ……いやだーそんな未来は訪れて欲しくない!! 俺の頭の中では、地獄絵図が展開されていた。


「にいちゃん!」


「は、はいっ!」


 声が裏返る。びびりすぎだろ、俺。我ながら情けない。


「そんなにカツカレーが好きか?」


「はい、大好きです……」


 そう言ってばあさんは、段々と顔を近づけてくる。とうとう運命の時が来た。あー俺、財布の中にいくら入れてたっけな。覚悟を決めようとしたその瞬間、しわくちゃのばあさんの顔が、さらにしわくちゃになった。

 ん、満面の……笑顔? 


 そして、ピッチャーが超スローボールを投げたような、優しくゆっくりとした口調でこう言った。


「カツカレーはないけど、おにぎりならあるよ。お食べ」


「え……」


 俺は差し出されたおにぎりを受け取った。思考が一旦停止する。おそらく周りから見ると、俺は鳩が豆鉄砲をくらったように間抜けな顔をしていただろう。色々と意味を理解するのに多少の時間を要したが、それと同時にじーんとしたものが胸の中にこみ上げて来て、気がつけば勝手に口が動いていた。


 「あっ……ありがとうございます!!」


 「ええよ」


 俺はおにぎりをその場でほおばる。おそらく手作りであろう。三角のおにぎりに塩がかかっているというシンプルなものだったが、そんな事は全く関係なく美味い。兎にも角にも、俺の名前が後世に語り継がれる事はなかったので、肩の荷が下りてほっとした。


「ガタン、ゴトン」


 電車は、変わらずに走り続ける。


 おにぎりを食べきり、空腹が少し満たされた所で、電車はトンネルへと入っていった。


 車内は外からの光を遮断され薄暗くなった。


 「…………」


 車内は外からの光を遮断され薄暗くなった。 


 「…………」


 車内は外からの光を遮断され薄暗くなった。


 「…………」


 ——不安。


 何の前触れもなく、小さな感情が生まれた。それは次第に大きくなり、いつの間にか体の隅々にまで行き渡っていく。そして、言葉が頭の中をぎっしりと埋め尽くしていく。


 「…………これから大丈夫だろうか?」 


 「……上手くやっていけるんだろうか?」


 「……いや、どうせ無理だろ」


 「だって俺には……もう……」


 あぁ、本当に自分が嫌になる。こんな事、考えたくもないのに……。


 と、その瞬間、目の前の景色が一変し、俺は我に返った。視界が広がる。咄嗟に細めていた目を少しずつ開けて、徐々に明るさに慣らしていく。電車はトンネルから外に出ていた。


 俺は振り返り、窓から外の景色を眺める。迎えてくれたのは、眩しすぎるくらいの夏の光と大きな入道雲、一面に広がるキラキラと輝く海、そしてその周りをさり気なく取り囲む木々達。


「凄い……」


 体の中で、何かが熱くなるのを感じた。そして俺は、思わず窓を全開に開け顔を出す。もわっとした風が入り込み、潮の匂いと、微かな波の音が聞こえる。全身の鳥肌が止まらない。俺はただただ圧倒されていた。この季節の、この場所の、この瞬間は、何故だか俺の気持ちを掴んで離してはくれなかった。さっきまでの感情が嘘みたいに、塗り替えられてしまった。だから俺は、自然の流れに身を任せてみる事にする。


「うおぉぉぉぉー!!」


 ——結果、謎の雄叫びを上げていた。


 何だこのテンションは。笑えるぐらいに情緒不安定だ。いや、この景色がそうさせたのかもしれない。そういう事にしておこう。


「元気一杯だのう」


 ばあさんが、そう言って微笑ましそうにこっちを見ている。だから俺も元気一杯に答えた。


「はい!」


 電車は夏の景色の中を走り続ける。

 俺、山岡和希が鞄に詰め込んだ数々の思いを乗せて。


 長い長い夏休みが始まろうとしていた。

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