第64話 空っぽの私

「お姉さんっ!」


 精一杯に伸ばした僕の手は、消えていくお姉さんを掴み損ねた。視界が激しく揺れて気持ち悪い。魔力切れと、僕の中にあった人々の悲しみが全部抜けてしまったことで、体に力が入らない。それでも僕は存在している。お姉さんが最後にくれた悲しみのお陰で。

 ガランと、僕の手から滑り落ちた剣が転がった。そのまま倒れ込みそうになった僕の体を、支える人がいた。痩せて骨張ったひょろりと背の高い人。伯父さんだ。


「伯父さん。お姉さんが!」


 伯父さんは、僕の無事に安堵の息を吐いてから、僕の背中を叩いた。


「落ち着け。どういうことか、説明しろ」


 揚々のない伯父さんの声音に、妙に安心感を覚えて僕は全てを打ち明ける。


「クロリス! 何でだ!」


 悲痛な声が、神殿の最上部へ響いた。お姉さんと勇者の剣はマナの粒子となって消え、代わりに転がったのは一振りの新たな剣。剣と変わり果てた、お姉さんの姿だった。


「馬鹿野郎! こんなのがあるか! 人には明日のために願えって言っておいて。自分はどうなんだ!」


 シグルズが、お姉さんだった剣を掻き抱いて叫んだ。鋭い刀身が彼を傷付けるのも構わずに。

 僕から全てを聞き終えた伯父さんが、声に怒りを込めた。


「役目を終えた勇者は、剣へと姿を変えて次の勇者を待つ。魔王も同じことか。お前たち二人とも、分かっていてこの事を黙っていたな。何故自分を諦めた! この、馬鹿者が!」

「ごめんなさい」


 本気の怒鳴り声に、僕は体を竦めて謝った。伯父さんは、綺麗に整えている自分の前髪をぐしゃりと掻き上げてから、また冷静に戻る。


「過ぎたことはいい。カイ、お前はどうしたい?」

「お姉さんともう一度笑い合いたい」

「よく言った」


 迷いのない僕の答えに、伯父さんはにぃっと口の端を吊り上げた。知らない人が見たら、背筋が寒くなるような獰猛な笑顔だ。


「眠れ、カイ。お前たちは夢で逢っていたのだろう? あれが偶然な訳がない。灰色の何もない空間。剣の記憶も、同じような空間で見たと言っていたな?」


 力の入らない僕を伯父さんが抱き上げて、お姉さんの側へ運ぶ。シグルズが、燃えるような目で僕たちを見ていた。


「助けられるのか?」

「私の推測だが、夢の中の灰色の空間は、剣の中だ。魔王の剣と勇者の剣は繋がっている。そこで、勇者が最後にカイにやったことをカイが勇者にやれば、なんとかなるやもしれん」

「俺も行く。クロリスを必ず連れ戻す」

「貴方が一緒に入れるかどうか、保証はできません」

「構わない。少しでも可能性があるなら」


 分かったと答える代わりに、僕は手を伸ばした。片方は剣になったお姉さんへ、もう片方はシグルズの額へ。どちらにしても限界だった僕は、直ぐに夢へ旅立った。


****


 ゆら、ゆら、ゆら。

 灰色の何もない世界を漂う。

 地面もない。空もない。生き物もいない。私の体さえもない。思考は朧で、それすらもいつか消える。

 皆の願いを叶え終わった私は脱け殻で、何にも残らなかった。外側だけしかない、空っぽの私。思えば私は最初からこうだった。誰かの願いを叶えるだけの、がらんどうの中身。


 悲しくもない。そんなもの、最初からないんだから。

 後悔もない。皆の願いを叶えられて満足しているもの。ああ、叶えられなかった願いが在るのは心残り。


 そんな小さな思考も、浮かんでは泡のように消える。ゆらゆらと何もない灰色の世界を漂う。


「お姉さん!」


 ……? 知っている声。


「クロリス!」


 ! この声は、駄目だ。

 穏やかだった灰色の空間が、荒れ狂う。色んな想いが溢れてくる。駄目。私はここで、次の勇者を待っていなきゃ。


「逃げるな、クロリス」


 声の主は、私を逃がしてくれない。捕まった! と思った途端、掴まれた手首が、腕が、体があることを認識し始める。


「お前の願いを言え、クロリス。俺が叶えてやる」


 私の願いは、誰かの願いを叶えることよ。


「誰かの願いを叶えるなんて、そんな紛い物の願いじゃねえ! お前の真実の願いを言え! お前自身の願いを!」


 願い。私の願い。そんなの、そんなものない。

 両親と妹との生活は楽しくて、幸せで、満足で。これ以上の願いなんてなかった。

 突然勇者になった時は、早く元の花屋の娘に戻りたかった。でも、皆と旅して、色んなことがあって。これもいいかなって思ったの。勇者の使命を果たして、終わったっていいかなって。

 だからほら。何にもない。私には、願いなんてないの。


「嘘をつくな、クロリス」


 声が私を呼ぶ度に、何もなかった空間に、私が具現していく。私の指先が現れた。指先からゆっくりと手、手首が構築される。その、出来たばかりの手を掴まれた。

 大きくて、ごつごつとした、剣を握る手。誰かを守りたい、守る手。シグルズの手。その手に、ぐい、と引かれた。現れた私の肩をシグルズの反対の手が掴む。そっちも引き寄せられる。再構築されたばかりの胸の中がきゅうっとなった。頬が平たくて温かいシグルズの胸に当たる。

 嬉しい。心地いい。もっと触れていたい。離れたくない。一緒にいたい。

 願いが泡みたいにぶくぶくと生まれて浮かんで、膨れていく。どうしよう。私ってこんなに欲張りだったんだ。


「そうだ。願え。言えよ。お前自身の願いを」


 ほとんど元通りになった私の体を、シグルズが苦しいくらいに抱き締めた。彼の低い声。彼の大きな手。彼の広い胸。彼の体温。彼の匂い。それらが私を包む。

 いいのかな。自分の為に願って。誰かの為じゃない、私自身の願いを願っても。


「いいに決まってんだろ。たとえ誰かが駄目だと言ったって、俺が許す」


 何それ。シグルズって本当にいつも偉そう。


「おう。なにせ竜殺しの英雄だからな」


 ごつごつと硬いシグルズの手が、私の頭を撫でる。シグルズの声が、体が、回された手が熱い。


「……生きたい。貴方と、皆と一緒にもっと生きたい!」

「ああ。叶えてやる。俺が必ず!」


 私は大きな背中に、震える腕を回した。泣き笑いのカイくんが近づいてきて、私のおでこをコツンと押した。


「お姉さん。僕はお姉さんに生きてほしい。それが僕の願いだ」


 灰色の世界が離れていく。現実の声が少しずつ近くなってくる。現実に戻る私たちに、知らない声が語りかけてきた。


『お前たちが人としての生涯を終えるまで、もう少し私たちが役目を続けよう。今代の勇者と魔王よ』


 向けた意識の先にいたのは、見たことのない人物が二人。だけど、どこか懐かしくて。遠ざかる世界に向かって、ありがとう、って叫んだ。


****


 雨でも降っているのかな。頬に液体が落ちてくる。私は重い瞼を苦労して開いた。


「良かった、クロリス」


 液体はシグルズの涙だった。青い瞳から流れる涙に胸が詰まる。シグルズの涙を初めて見た。


「自分のことを後回しにする癖、何とかしろよ。心臓に悪りぃ。あれでお前が戻って来なかったら、トラウマになるわ」


 息が止まりそうな程、強く抱き締められ震える声で言われた。申し訳なくて、涙が溢れる。


「うん。ごめんね」

「ったく、お前のごめんは当てになんねえな」


 苦笑してシグルズは、ぐいっと乱暴に袖で涙を拭った。


「好きだ。クロリス。一緒に生きよう」

「好きです。シグルズ。貴方と生きたい」


 私の頬に大きくて温かい手が添えられる。どちらからともなく、互いの顔が引き寄せられて私は目を閉じた。

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