チョコレートだったころ
阿部 梅吉
チョコレートのぼく
学生の時の頃の話をする。
学生の時、僕は肌が人よりも黒かった。誰よりも黒かったし、体も大きかった。体が柔らかくて、暑さに弱かった。僕はいつだってとても目立った。
当然、僕は目をつけられた。入学してすぐの頃、僕は先輩に呼び出された。面倒だった。面倒だから黙っていた。黙っていたら殴られたけど、相手は僕の身体に触れると、
「熱っ」 って言って勝手に逃げて行った。よくわからなかった。
それからいろんな人が同じようなことを言いに来た。また面倒だから黙っていた。
そして同じように、僕の体に触って「熱っ」とか「うわっどろどろ……」とか言って逃げて行った。それから僕は何も言われなくなった。
学校にはいろんな子がいた。だいたいは、しょっぱい味のするような子ばかりだった。僕は色んな子の匂いを嗅いでみた。
いつも優しい佃煮君、
優等生のふりかけ君、
野球部キャプテンの生姜焼き君、
ケンカは強いしいつも辛口だけど、僕を守ってくれたこともあるキムチ先輩、
理科がおそろしく得意だったナメタケ君、
おとなしかったけど可愛かった茶漬けちゃん、
服とか聞いてる曲のセンスが良かった納豆君、
なぜかオカンっぽくて皆に安心感を与えてくれた梅子ちゃん。
みんな、甘い香りなんかしなかった。僕だけが甘い香りを放っていた。それに、僕みたいにみんなは熱いとどろどろに溶けるなんてこともなかった。そのせいか、僕の周りにはあまりみんな近寄ってこなかった。
授業ではひたすら米について学んだ。
「皆さんは大人になって社会に出たら」と、綺麗な流線型の頭部と赤みを持つ鮭先生が言った。
「米に合わせなくてはなりません。社会とは恐ろしいところです。米に合わせ、且つあなたたちの品質を損なってはなりません。 米に合わなくても、あなた方が勉強できなくても、捨てられます。社会とはそういうところです。だから皆さん必死に勉強しましょう」
これが彼女の口癖だった。ことあるごとにこういうことを言った。だいたいは同じセリフで、末尾だけが変わっていた。鮭先生はメガネをかけて居て、どことなく神経症的な女の人だった。でも鮭先生の頭部の曲線はほんとうに綺麗だった。
僕の学校は進学校だったから、他の子はいつも必死に勉強していた。僕も必死に勉強した。
テストではいつも上位になれたけど、実技試験ではどうしても良い点が取れなかった。というより、ほとんど毎回最下位に近かった。僕は先生をひどく困らせた。
「君は成績は良いんだけど」と、半ば呆れ顔でベテランの海苔先生が言った。
「何度も実験の手順は復習したね?」と海苔先生は言った。
「予習も復習もしています」と僕は言った。
相変わらず、実習のレポートだけは満点だった。
それでも、どうやっても米に合うことができないから、僕は次第に同じ実験班の人たちに無視されるようになった。海苔先生は機械に手をかけた。
「リラックスするんだよ。」と彼は言った。
「肩の力が入りすぎている」
確かにそうだった。僕は力を抜いた。もう一度米に手をかけた。僕は実験を開始した。とても力を抜いて。機械がピピピピ…と鳴った。
0.1。
絶望的な数字だった。そして海苔さんは言った。
「実験をもう一度復習しよう」
僕は何度も教科書を読んだが、かえって混乱した。
タマコは優秀だった。彼女は僕の幼なじみで、学校に入ってからどんどんとその才能を開花させた。学業は僕と並んで1番で、実験だって得意だった。人望もあった。クラスで何かする時、みんなタマコに相談した。先生だって、何かあると真っ先にタマコに相談した。僕はタマコに
「相変わらず鈍臭いのね」と言われた。2回目の試験を終えた後だった。
何も言いたくなかった。うんとだけ言って、目も合わせずに通り過ぎようとした。そのとき、
「そういえばあんた、ケーキ作るの得意だったよね?」
とタマコが言った。
昔の話だ。昔僕はよくケーキを作って遊んでいたのだ。タマコもそれを知っていた。僕は足早に廊下を通り過ぎようとした。すると後ろから、
「今度ケーキ作ってよね」と声がした。
僕は走った。
彼女の声だけが、頭の中でこだましていた。
帰ってから僕は、何度確認したかわからないほど読み込んだ実験の手順を一から見直してから、死んだように寝た。
変な夢をみた。夢の中で僕はまた実験に失敗していた。不思議なことに、タマコは僕の先生だった。そして彼女は言った。
「今度ケーキ作ってよね……」
翌週に追追試を受けたが、やはりダメだった。今度はノリさんだけでなく、おかか先生もいた。おかか先生は優しくて、今年産休から戻って来たばかりの一児の母である。彼女は笑いながら、僕の名簿に不可のスタンプを押した。
「ま、ね。こういうこともあるよ。何回かここで練習してみよっか。」と彼女は言った。僕らは3人、試験室で何度も機械合わせを行なった。薬品や機械のボタン、手順、米のセットの仕方などは何度も何度も確認した。途中で何度もおかか先生が助けてくれた。やっと僕は1.0を叩き出した。そして海苔さんのお情けで、
「うーん、まあいっか」と言われながら合格した。
試験を終えた後、僕はケーキを作るためのスポンジを買った。僕は一時間でケーキを作って隣の家まで行った。玄関にはタマコが出た。
「受かったよ」と僕は言った。
「「ふーん。3回も受けたんだ」と彼女はそっけなく言った。彼女なら一発で2.5くらいの数値を叩き出したのだろうか…?いや、聞くのはよそう。こんなことを聞くと暗くなる。僕はケーキを差し出して、
「じゃあ」とだけ言って、振り返りもせずに帰った。
翌日、タマコは僕のところに来た。
「あんたさ、バカだけどケーキの才能あるんじゃない?」
わざわざそれを言いに来たのか。
「美味しかったよ」
なぜか彼女は幾分緊張しているみたいにもごもごと口を動かした。
「ケーキ職人なんてさ、なれるの、何万分の一の確率かもしれないよね。それで食べている人なんてほとんどいないからさ。まあ、たまにいるけどね。難しいとは思うよ。うん。大スターだもんね。ある意味さ。
でもさ、あんたそういうの向いてるんじゃない? わたしはよくわからないけどさあ。周りにそういう知り合いもいないし……」
彼女は僕の目を見ずにうつむきながら早口で言った。
うん。と僕は笑った。
一年後、彼女は有名な国立の大学に行き、僕は専門学校に通った。ケーキを作る学校だ。
彼女はもっと視野を広げたいとのことで、留学制度の豊富な和食全般に関する大学に行った。僕は少し羨ましかった。彼女はいわゆるエリートなのだ。
かたや僕と来たら、売れるかどうかもわからない夢に向かってすがりつく専門学校生だ。僕は一時期、彼女に会うべきではないと考えもした。彼女と僕とでは世界が違いすぎる気がした。そのせいで本当に2年くらい彼女には会わなかった。
転機は訪れた。
二年後、僕は学校で一番の成績を取り、学校代表としてとある有名なケーキコンテストに出ることになった。少し塩っぱいケーキを作ってみたのが審査員に受けたのだ。試作にはまる一年を費やした。僕は涙が出るほどほんとうに嬉しかった。
しかしそれからが大変だった。僕は瞬く間にテレビに出ることとなり、本の出版依頼が舞い込み、なぜかわからないけれどトークショーに出ることになった。雑誌の取材もたくさん受けた。
学生時代の友達からは大量のメールがきた。恐ろしいものだ。どこから嗅ぎつけてくるのだろう。僕とろくに話したことなんか無いやつでさえ、僕にメールをくれる。僕の携帯はあっという間に100件もの200件ものメールが届いた。雪だるま式に、それは日を追うごとに増えていった。思えば、入学したての頃僕を殴ったやつだって、メールを送ってきたのだ。どういう神経なんだろう。面倒だから全部無視していた。
全く新しい携帯をもうひとつ持つべきかどうかを考えていたら、タマコから連絡があったことに気づいた。
僕は彼女に電話をかけた。
タマコは相変わらず優秀だった。大学院に通い、順調だけども研究の辛さを実感している日々だと言った。ぼくはそうか。よかった。応援している。とだけ言った。僕は自分のことは何も言わなかった。タマコも黙っていた。一瞬のことだったのかもしれない、でもぼくにはそれが十秒くらいに感じられた。
「じゃあまた今度会えたらね」と彼女は言った。
いつでも会えるんだ、と僕は反射的に言った。会おうと思えばいつでも会えるんだ、嘘じゃない。
でも半分が嘘で、半分が本当だった。だって僕はケーキ職人なんだ。ケーキ職人がクイズ番組に出たり、オシャレな洋服を着て街を歩いたり、雑誌の写真を飾るのは馬鹿げている。
僕はケーキを作りたいんだ。
僕は心の底からそう思った。僕がやりたいことは、最高のケーキを作ることだ。そして僕は彼女にそのありのままの気持ちをぶつけた。しかし彼女の答えは、意外なものだった。
「相変わらずあんたはバカね」
ため息混じりの声だった。ゆっくりとした発音だった。
「あんたは何もわかってない」
確かにそうかもしれなかった。でもわかっていても同じだ。そのあとの行動は僕が決めることだ。他の奴らなんてどうだっていいだろう?
僕らは電話を切った。
色んなことがあった。僕は何度もコンテストで優勝し、世界大会にも出た。いろんな人に出会った。いろんなすごい奴らに出会った。刺激的な日々だった。大学でケーキ作りを教えることにもなった。何人かの女の人と付き合った。そしてどれもダメになった。原因は様々で、結果だけが毎回同じだ。僕はもう恋愛は懲りた。残ったのは研究室の助手と、パパラッチだけだった。なかなか良い人生だ。
僕の教え子が大会で優勝した。時には僕がコンテストの審査員になることもあった。大学の試験問題も作るようになった。
でも僕の心にはいつも何かが足りなかった。
足りないまま、ぼくは歩き続けた。そうするしかなかったから。立ち止まると、闇に飲まれそうだったから…。
タマコは結婚した。僕と最後の会話を交わした3年後だった。今は女の子を二人産んで、相変わらず研究をしている。うタマコも母になったのだ。旦那さんは、物流関係の研究をしているヒラメさんとかいう人らしい。なんとなく腰の低い、優しそうな人だったと思う。 しかし、その道では非常に偉い人らしく、新聞やニュースにもよく出ている。彼の名前を聞くと恐れおののく社員もいるそうだ。
僕は相変わらず独身だ。しかし、僕にはケーキがある。ぼくはこいつと結婚したんだ。そう思うしか無い。ぼくはケーキの女神に愛されているし、僕だってケーキの女神を愛している。それで十分だ。
そうだ。今度ケーキを作ろう。
また塩っぱいケーキがいいかもしれない。それをタマコに送ろう。あのとき、僕は彼女に救われたんだ。高校のとき、実験がどうしてもできなくて、悩んでいたとき。廊下でケーキを作れと言ってくれたとき。あんたバカね、と言ってくれた時。
僕はそのとき、彼女を一生守りたいと思った。だから僕はケーキを作る。ずっとずっと作り続ける。ずっとずっと、僕のケーキで彼女を、いや、みんなを笑顔にする。たくさんのケーキを作って、一番彼女が喜ぶものを作りたい。
最近はまた、京都の大学の奴らが力をつけて来たし、専門学校からも優勝な奴らが輩出されている。パリでの国際コンクールでは、手厳しい評価ももらった。しょっぱいケーキにはもう新しさは感じられない、との評価もあった。僕は今、新たな食材探しの研究に出かけようと考えている。
僕は何があっても作り続ける。たとえ君が僕の傍にいなくても、僕は君の笑顔をずっと守る。
(了)
チョコレートだったころ 阿部 梅吉 @abeumekichi
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