勇者狩りの夜

時茄雨子(しぐなれす)

勇者狩りの夜



 赤黒く鋭い燐光が煌めくと、朱に錆びた錠前が粉々に爆ぜる。

「――よし、上手くいった」

 降りしきる長雨に撲たれながら、男は重い扉を開けて狭い講堂の中に入った。外套からしたたり落ちる大粒の水音は、だれもいない講堂に冷たく響く。

 暗く、長い沈黙――男は心から安堵した。

 窓の板木に打ち付ける音が雨の激しさを物語る。ときおり流れ込む隙間風、その重い空気の流れを指でなぞりながら、男は板木の狭間から外の様子を覗った。

「流石にここなら安全か――」

 埃っぽい空気から考えると、長らく使われてないことが覗えた。泥だらけの長靴で廃聖堂の床をあちこち塗らし、濡れた外套もそのままに近くの座席へ崩れ落ちる。

 かつて男はケイト某と名乗ってきたが、今や巷でどう呼ばれているかわからない。長い逃亡生活の末に何度も名前を変えてきた。年の頃は若く、二十を過ぎてそこそこ。身なりこそ多少荒れているが顔立ちは整っていた。

 濡れた短い黒髪、手には紋様の散りばめられたグローブ、黒で統一された衣服に数多の銀装飾。腰には丈夫そうな幅広の長剣。

 その風貌は間違いなく勇者だった。

 男は懐の奥から小瓶を一つ取りだし、栓を抜いて中の液体を飲み干す。魔力の源泉である感情の起伏も乏しくなり、簡単な治癒魔法の発動すら容易ではない。苦い顔をして悶える間に別の足音が奥から響いた。

「――どちら様でしょうか」

 声に驚いて男は飛び起きる。咄嗟に剣に手を伸ばし身構える。指の隙間から小瓶がこぼれ落ち、外套の下では小さな金属音がいくつもした。暗い講堂の中で男は必死に目を凝らして辺りを見回す。

「――――誰だ! ここの教会の者か!?」

 聖堂台の前に一人の影が立っていた。随分と華奢なシルエットだ。

灯りもない暗闇の中で影は無言でたたずみ、短く違いますと呟いた。まだ若い女の声だった。年端もいかない少女と男は確信した。

「ここでしばらく宿泊している者です」

「旅人か?」

「――そんなところです」

 男は少し肩の力を抜いた。

「なぜ今ここに現れた」

「隣が寝室なのです――そちらこそ、なぜここに?」

 声の柔らかさに安堵したのか、ふ、と溜息を一つ吐いて、完全に警戒を解いた。

「ああ――脅かして済まない、少し事情があってね」

 そう漏らした直後、男は不意に足下の小瓶を蹴ってしまい、小瓶は声のする方に向かって転がりだした。やがて少女の足下にたどり着くと、無言で彼女はしゃがんだ。

「薬――怪我をされているのですか?」

 男は言い淀み半歩ほど退く。あまりここで長居をしたくなかった。そうすることで目の前の彼女をイザコザに巻き込みたくないと思った。

「大丈夫さ、癒しの魔法はいくつか覚えてる――この程度の傷も――」

 男は無事を取り繕おうと嘘をつき、高めの声色で言葉尻を上げたが、意に反して少女は一歩また一歩と近づく。

「――手当を――させて下さい」

 誠実そうで、毅然とした口調だった。

 男は無言で首肯した。


◇――――◇ ◇――――◇ ◇――――◇


 眼が暗がりに慣れてきた頃、姿がおぼろげに見え始める。

 背丈から考えればやはり年下。この廃聖堂に残されていたのか、簡素な修道服を着ている。フードの隙間からは長目の黒髪が見える。うやうやしく男の長剣を預かってそっと座席に寝かすと、ずぶ濡れの外套をものともせず抱えて奥の部屋へ干しに行った。

 少女が燭台を運んできたとき、男は手をかざして蝋燭に火を灯した。煌々と光が二人の顔を照らしたとき、男は一つ得意気に微笑み、少女は恥ずかしいのか咄嗟に赤らんだ顔を背けた。頬にはまだあどけなさが残るが、成端としていて、真面目そうな顔つきだった。

「今、お体を拭く物をご用意します――」

 やがて講堂の最前席に小さな桶とよく乾かした布巾がいくつも運び込まれた。桶の中は水がなみなみと注がれており、女はそこに布巾を浸してから細い腕でよく絞った。

「――旅人と言ったが」

「ええ」

「こんな辺境の村に、なんの用があって訪れるんだい?」

 男は微笑み、なんとなしに訊ねてみた。巡礼者か、身寄りの無い子供かと予想はしていた。それ以上に深い意図は無かったのだが、やはり少女はすこし気まずそうに目線を逸らしながら答える。

「――生まれ故郷なんです、この村は」

「生まれ故郷なら、なぜ旅人なんかしている」

「――旅立つ必要が、あったからです」

 ああ、と男は小さく漏らす。

「戦か」

 少女は目を伏せ、首肯した。

「聞き飽きてるでしょうから、詳細は話しませんが――」

「大丈夫だ、言いたくないことは訊かないよ」

 少女に急かされるようにして男が装備を外し、生傷だらけの肌を露わにさせると、少女は何も言わずにそれを拭った。男はその健気な姿に見とれていた。

 その後はしばらく黙した。暗がりで、布巾を絞る音だけが続いていた。濡れた肌に冷たい布巾を押しつける感覚にむず痒さを覚えつつも、男は瞑想にふけった。

 魔王軍としのぎを削っていた頃とは異なり、今の戦は人間同士で執り行われる。血で血を洗う時代が何十年と続いていた。男も何度か小銭稼ぎに戦地で傭兵の真似事をしたこともあるが、そこは悲惨の極みでしかなかった。残酷、非道、理不尽がまかり通る時代。未だなお、その戦火はどこかで続いている。煽りを受けて泣くのは決まって平民なのだ。

 この時代、ごくありふれた話なのだ。

 それでも、負けた側の人間が奴隷として売りさばかれるような場面に出くわすと、自分を抑えられなくなることもあった。男は遂に感情をこぼした。

「全く、愚かな話だよ――」

 物憂げな顔立ちで話し始める。止め処がなかった。

「改革派とやらは何を考えているんだ――今は人間同士で争っていい場合じゃないのに、方便を並べ立てては金持ち貴族を煽って対立を加速させて――はあ、これじゃ命を犠牲にして魔王軍を討伐した先人達も浮かばれないよ」

 少女は無言で男の身体を拭き続けた。

「それに現行の魔王を倒したところで、始祖が安泰なんじゃ意味がない。 いつ第二第三の魔王が現れるかわからないって言うのに、上の連中はまるきり日和っちまって、肝心の騎士団も坊ちゃんクラブの平和ボケと来た――それに残党共がのさばっているから、あっちこっちでオークやゴブリンみたいな下級魔族が卑劣な手段で土地を侵略して――こんなんだから、辺境が荒れ放題になるんだ」

 男は少しだけ少女の方を見て、言った。

「この村も、随分と荒らされたようだな――ここも物置小屋かと思ったよ、最初」

「半分当たって、半分違います――」

 少女は、すこしだけ言葉に詰まったようだ。

「とっくの昔に焼けてしまって、最近急いで建て替えられたんです」

 なるほど、座席だけ真新しいのはそれが理由か、と男は納得した。

「きっと村人の憩いの場所だったろうに――最低だな、襲った連中は」

 戦の後の掠奪は世の常で、今さら目くじら立てるようなものでもないが、とりあえずそう憐憫の態度を見せる。

「――見ての通りこの村は、それはもう随分昔に掠奪の被害に遭い、年配者や当時幼子だった者たちだけが残されました――こんな土地に興味を示してくれる方は希です――近隣の村や町からも、殆ど忘れ去られているのが実情です」

 平気そうに装っているが、その言葉選びは重苦しいものに聞こえる。

「村の周辺を見てきたよ――窓も戸も閉め、灯を消して、見つからないように警戒している様子だったが、また襲われる危険性があるのかい?」

 少女は無言で首肯した。森に阻まれた村は、落ち延びた傭兵崩れにもってこいの地形だ。

「私は――私は、この村をこんな風にした人々を――」

 ――絶対に許さない。

 か細くもその悲痛な声に、男は一旦目を背けた。

 ――伝統教会は、国王は、一体何を考えているんだ。

 憔悴しきっていた男の中に、沸々と苛立ちがこみ上げてきた。権力者達が、討つべき敵を放置しながら分断を止めようともせず、本来救うべき弱者を放置している。自分たちは安全な場所でのうのうと暮らしながら、犠牲になるのはいつも彼女のような平民だ。

 ――否、それだけでは飽き足らず。

「勇者様は、どうして旅を続けてらっしゃるんですか?」

 少女の言葉に、男ははっと意識を戻した。知らぬ内に目許には力が籠もっていた。今ここで素性を明かすのはと考えもしたが、肌を預けた手前これ以上隠し事をするは馬鹿馬鹿しいとも感じた。

 男は、なるべく言葉を選ぶように訥々と口を開く。

「たしかに見ての通り――俺は勇者だ――かつて、成り上がりを夢見て勇者協会へ登録した――神託と伝説を信じ、この大陸を縦横無尽に駆け巡り、仲間達と共に力を合わせて困難に立ち向かった――だが今はもう、その仲間も、力も失いかけている」

 男は、多種多様の紋様が刻まれた自分の腕を見つめた。その聖刻の殆どが輝きを失い、かつて掴んできた栄光を過去の物にしている。今では燭台に火を灯すのでさえ、相当な集中力を消耗するほどだ。

「君も知っているだろう? 勇者協会ギルドが伝統教会から破門されたんだよ――今までさんざん世話になってきた協会が、王の妄想と不埒者どもの陰謀によって貶められたんだ――勇者は秩序を乱す狼藉者、犯罪者予備軍、社会不適合者集団だってな」

 俺たちは一気に悪者扱いさ、と男は自嘲気味に微笑んでみせる。

「ある日――突然、ペラ一枚持った偉そうな文官が現れて、ああだこうだと難癖を付けて来た――勿論、俺たちはそれを当然のように退けたが、次の日から追手が現れるようになったんだ――訊いたことはないか? 勇者狩りって奴らだよ」

 堰を切ったように男は吐露する。

「あの薄汚い小役人どもめ、金で雇った連中で寝込みを襲い、こっちが打って出ようとすれば人質を使う! あんな連中を守るために、先人の勇者達は戦ってきたわけじゃねえんだ! そうこうして逃亡しているうちに一人、また一人と仲間が減って――気がつけばこの有様だよ」

 男の双眸から僅かに涙が零れた。

 悲しみからではない、悔しさからだ。

 中に一人だけ、恐ろしく強い者がいたのだ。

 男はパーティー最強を自負するが故に、積極的に対峙した。大半は切り伏せたが、ソイツだけはまるで歯が立たず敗走した。焼けた肌に赤い髪、頑強なメイルに身を包んだ屈強なその風貌から、アイツは魔族ではないかと考えた。国を取り仕切る役人が、本来敵であったはずの魔族と手を結んだ事実に、男は嫌悪感を抱いた。

 残った仲間たちは、皆そいつに叩き潰された。無慈悲に、無感情に、なぎ払われる有様を目の前で見せつけられた。詰みだと感じた。歯がゆさで身がよじれるような思いだった。何を持ってしても抗えない現状に絶望しかけた。そうして逃げ回る生活だけが続いていた。

 長雨は止んでいた。男の手は震えていた。

「俺はもう無力だ――それでも、出来ることなら」

 少女は、男の話に耳を傾け、真摯な視線で見つめ返す。

「初めから――やり直したいと、そう感じている」

 少女は、姿勢を正して男を見上げる。

「勇者様が心からそう願うなら――私には出来ることが一つだけあります」

 窓の板木から零れる月明かりが二人を静かに照らしていた。


◇――――◇ ◇――――◇ ◇――――◇


 少女の顔が魔法光に照らされた。簡単な転送魔法だ。片手にはペンとインク壺、もう一方には何かしらの契約書らしき金縁の羊皮紙が収められている。

「君――魔法が使えるのかい?」

 簡単な物だけですが、と少女は微笑んで応える。

 男は心から嬉しそうに笑った。新しい仲間を迎え入れたときのような、晴れ晴れとした気持ちが甦った。少女は筆記具を中空に浮かせると、羊皮紙を広げてハッキリとした声で告げた。真っ直ぐに見つめてくる視線が、男の心を釘付けにする。

「貴方に許された道はただ一つ――その罪を認め、その心を改め、もって再び正当なる法の裁きに於いて然るべき身分を受け入れることです――正しき道を識る者の魂は、必ず正しき報いによって救われる事を、ここに信じると誓いますか?」

 奇妙な間がその場を支配する。

 また俺なにかしましたか、という決まり文句が出そうになった。

「――なんて?」

 一言一句の淀みなく、少女は同じ言葉を復唱した。

「――意味が――解らないんだが?」

 少女は、微笑んだ。だが、その瞳は笑っていなかった。

「申し遅れました。 私はアンネリンダ・ファイエール。 王都の立法府司法局執行部弁務課より、前任者ヤン・ダランソンの後任を受けてこの地に参りました――ある任務とは、貴方に関するものです――ケイト・アングレイス・シュバルツ殿」

 長らく、忘れていた己の名前を耳にして、男は固まった。その名前は、仲間内から茶化されて、登録早々に別の物へと差し替えたからだ。

 戸惑いを隠しきれず、ついに男は声を漏らした。

「――その、俺は何をすれば?」

「冒険の書を差し出していただき、こちらの指示に従ってください。 

 は、と見下したような溜息を吐いて男は口角を上げる。

「お嬢ちゃんは――何を言ってるのかな?」

余裕そうにしているが眉には力が籠もり、堪えかねるといった表情を示していた。

「冗談でも過ぎるぞ――知らないのかもしれないが、冒険の書はユーザーのメモリー、勇者の魂、冒険の証――言ってみればアバターそのものと言ってもいいんだ、簡単に渡せるわけないし、第一それをどうする気だい?」

 雨音が次第に戻りつつあった。

「然るべき機関を通じ、白紙化いたします。 その後に貴方への賞罰を判断いたします」

「初期化するってのかよ――ますます悪い冗談だぜ」

 少女は気高く応えた。

「冗談など申しては居りません、私は本気で、この書面も公式のものです――先に名乗り上げなかったのは確かに失礼ですが、そちらも素性を隠していたのでお相子ということにしましょう」

 男はその慇懃な物言いに既視感を覚える。

「――お前、本当にあの文官の仲間か」

 低い声で問い質すと、はい、と少女は明朗に答えた。

「前任者の責務を引き継ぎ、私は貴方に改悛の念を問い、返答にそれに応じて身柄を拘束あるいは保護し、正当なる手続きを経て裁判を受ける権利を保障します」

 少女のまとう修道服が一瞬だけ煌く。

 足元から役人の正装服に置換されてゆく。見慣れない真新しいもので、それが近頃新設された機関、近頃大陸の方々で見かけるという勇者狩り専門部隊の物だと一瞬で気が付いた。

 魔法光の強さが収まったところで、少女は再び宣誓する。

「己が身を、その思いをならば、王の法と神の心は貴方を、よりよき方向へ

 聞き慣れてしまったその文言は、間違いなくあの小役人たちの決まり文句だった。この書面にサインを、言って差し出された羊皮紙を、男は即座にたたき落とした。

「ふざけるなよ!」

 男の怒号が廃聖堂の重い空気を揺さぶる。間隙を突いて、窓の板木に叩きつける雨音がする。

毎日安心して寝られると思ってるんだ!? 誰のおかげで今日ものうのうと生きていられると思ってるんだ!? 全部俺たち勇者が、大陸各地に蔓延る魔族のような汗水垂らして駆逐して、命がけで魔王を討伐してやったおかげだろうが!」

 魔族ではなく亜人類種族デミ・ヒューマンです、と少女は諌める。

「ご指摘の通り、百年前の戦争を終戦へと導けたのは当時の勇者協会による働きが効を成したと言えましょう。 ですが終戦時から和平条約と友好協定が結ばれて、亜人デミの市民登録制度も浸透された今日、当面の社会情勢を安定するためには増えすぎた勇者の引き起こす諸々の事件処理こそが先決と判断されます」

「偉そうに喋ってんじゃねえよ! 外圧に屈して迎合しただけの腰抜け共が! こっちはお前らの説教やオベンチャラが聞きたくて大人しくしてんじゃねえんだ! この流れだったら、リスタートイベントだろ! アンタが魔女か法術師かなんかで、仲間になるのがお約束だろうが! なに偉そうに上から目線で指図してんだよ! だいたい、なんで俺まで犯罪者みたいに扱われなきゃいけないんだ! 俺たち勇者が居なければ、このボロ村みたいな集落が無限に――」

「――

 男は息を呑んだが、少女は全く意に介さず、足下の羊皮紙を拾い上げた。外の音は、前より激しさを増しているような気がした。

「――弁務官としての私の任は、貴方に立法府や他の機関からの要請、指導、勧告、決定を伝え、その可否も含めて貴方の行動を見届け、然るべき対応を取る事――書面が読めない、読んでいただけない場面に置いては、代読も任務のひとつとして承っております」

 ふざけるな、と一本調子に拒絶する男を遮って、少女の声は好く響いた。

「貴殿に問われた罪状は――クエスト依頼中の行き過ぎた行為、代金の踏み倒し、市民への恫喝まがいの脅迫、奴隷商人への理由なき暴行、伝統教会と騎士団への侮辱行為、魅了魔法の乱用による婦女暴行など数多く、以て詳細は裁判所で明示する――ここでは王都での勧告無視、弁務官への公務執行妨害、暴行と侮辱、器物破損、無銭飲食、道中一般市民への暴行を以て最大警戒状態による――」

「そんなもん、ぁ! なんでここで、矢面に立たされなくちゃなんねぇえんだよぉお!!」

 仕事ですので。少女は短く、冷たく、そう返した。

「貴方だけ拘束されて裁かれるわけではありませんから、ご安心を」

「うっせぇええんだよ!」

 つらつらと淀みなく続く朗読の合間にも、男は罵詈雑言を並べ立てる。それでも少女の弁が止むことはなく、苛立ちが最高潮に達した時、男は腕を前に突き付けてわずかばかりの詠唱を唱えた。残る魔力を、情動を、怒りを、限界まで振り絞る。わずかに燐光が閃くと、途端に辺り一面が爆炎に包まれ、ほんのわずかな間、男は勝利を確信してほくそ笑んだ。

 しかし己の腕に施されていた紋様の輝きを辿るうちに絶句した。

「馬鹿な――」

 魔力増幅を行う筈の銀装飾は、いつの間にかすべて取り外されている。発動した魔法も想定していたより小規模で、廃聖堂は形を残したままだった。

<code 0: Automatic-Defense = Running>

 真っ黒な煙の奥から眩い閃光を放ち、中から少女が現れる。

「――これだから、貴方たちは」

 無傷だった。煤一つ付いていなかった。

 窓の板木は吹き飛び、燭台の蝋燭が溶け落ち、視界に映る何もかもは燃え盛っていた。それだというのに、目の前の少女の周囲は何一つ損害を被らず、生っ白い肌には汗一つ流れていない。とりわけ足元に広がる炎は、少女を中心にして避けるような燃え方をしていた。まるで見えない直方体が、彼女を護っているように見えた。

「て、てめぇ、チートプレイヤーかよ! どんなアバタースキルもってりゃそんな強固な防衛魔法を――」

 男が横を一瞥すると光の方形が現れた。ステータスコードを見ると、男は息を呑んだ。

――NPC、だと?」

 息を呑み、黒煙を吸い、むせかえって大咳を吐く男を尻目に、少女は書面の続きを述べた。

「――分けても、前任弁務官への私的感情による殺害は殊の外残虐非道な行為であり、常識的人道上犯された罪の一切を看過できず、情状酌量、試行猶予を与えられる事態ではないと判断されるのが妥当であり――」

「す――少し炙ってやっただけだろうが! あの百貫デブには燃焼ダイエットになって丁度いいだろ!」

 苦しい息の中で男が悪態をつくと、少女は鋭い目線を返す。

 男は固まり、肩が透くんだ。そうとも、あの偉そうな小役人には、蓄えられた全身の皮下脂肪に火を点けてやったのだ。完全な腹いせだった。即死しない程度の威力を調整したことが、完全な裏目に出た。ダイエットどころではない。まして生きていられるはずがない。残り僅かな時間を、苦しみ悶えながら迎えるのだ。

 それが相手を怒らせた。

 眼に怒りの色をにじませて、少女は告げる。

「――よって担当弁務官には、万全を期すために聖物院封印魔法研究会からの対勇者戦術処理が施される――つまり、今の私にどれほど斬りかかった処で、効力を発しません」

 それが非攻撃対象化――王宮などの建物やフィールド、空気や水などの背景と同じ――存在すれど当たり判定ヒットボックスが存在しない。反撃したところで一切の抵抗が徒労と消える。まして男の傷が癒えたころで、出せる魔力はもう残り少ない。

「――運営キャラでもないタダのが――なんで、そんな」

 男は、心の底から絶望に呑まれていた。

「こんなの――こんなのどうすりゃいいんだよ!」

 男は膝を突いた。天を見上げて慟哭を衝いた。

 これは確定負けイベントだ、そう自分の中で反芻した。

 きっとここで一時的に折れてしまえば、次の展開に繋がる。大逆境からの大再起だ。役立たずの有象無象よりも、もっと有能で忠実で強力な仲間が手に入るんだ。今ここで耐えきれば、もっと広大なフィールドでもっと自由に遊べるんだ。男は呼吸すら蝕んでゆく炎と煙に苛まれながら、必死で都合のいい解釈を並べ立てては涙を流した。

 突如として、反対側の入り口が大きな音を立てて爆ぜる。

「暑い――やはりこのメイルは

 男は、その声に聞き覚えがあった。

「こ、このクソ女は!」

 焼けた浅黒い肌、顔の左半分を隠した赤い髪、細めのオーガと見違える屈強な肉体。

あの勇者狩り部隊のエースが、今扉の前で仁王立ちしている。

「なんの冗談だ、馬鹿の読み聞かせが火遊びになっているぞ」

「――今いい処なんです、邪魔をしないで下さい」

 女戦士は荒く鼻を鳴らし、いいだろうと呟いて、たいそう大きな胸を張った。

「お、お前ら最初からグルだったのかよ――ふざけんな!」

 性懲りもなく続ける罵声を無視して、少女は書面の最後を読み切った。

「以上の観点から貴殿の危険性は最大限に警戒すべきものであり、この書面が即時受け入れられず、また担当弁務官が危機的状況に場合にのみ――使

「――ッ!」

 短くその一言を告げると、女戦士は猛然と男へ襲い掛かった。男は近くの座席を蹴り飛ばし、時間稼ぎを謀った。脇に置かれた長剣を取り、最大限の詠唱を与えて引き抜こうとした。だがその直後、蹴飛ばされた座席が木っ端みじんに砕け散り、破竹の勢いで女戦士が向かってくる。男は剣を引き抜いたが詠唱が間に合わず、中途半端な所でつばぜり合いとなる。

 安物の手甲に握られた相手の得物を見て、男は目を疑った。

「な――木材だ、とぉ!」

 女戦士は男の間近で不適に嗤って見せる。

「最後の手合いには口惜しいだろうが――どうかコレ我慢してくれ」

 赤髪の合間から一際鋭い眼光が覗いた。その周囲は酷く焼けただれていた。自分が味わってきた以上の地獄を目の当たりにしてきた、本物の強者だと理解してしまった。

「俺を――俺をコケにしやがってぇえ!」

 男は後悔した。力では勝てないことは解っていた。そして背後には、力そのものが意味を成さぬ相手が控えている。じりじりと、長剣が圧されて全身が悲鳴を上げ始める。

「ざっけんなぁ! こんな、こんな武器以下の棒切れで――」

 男が悲痛な慚愧の声で叫ぶと、その背後で少女が手を伸ばした。

「成程――これなら

<code 1:Domain-decode――Enter>

 <code 2:Drain & Absorption――Enter>

 蒼い魔法光を放ちながら、少女は男の背中から直接何かを引き抜く。

「そ、それは!」

 背後を気にした刹那、手にした長剣は弾き飛ばされ、鳩尾にも強烈な一撃を食らった。煤と煙と埃まみれの天井近くで放物線を描きながら、男は視た。自分を見上げた少女の手に収まった、己が冒険の書と見覚えのある懐かしい短剣を。

――それは、男が始まりの町で二、三度振ってから二束三文で捨てただった。

「――クソが」

 男は焼け落ちた聖台の跡に盛大な音を立てて落ち崩れた。飛び散った安い香油に火が伸びて、黒髪を跡形なく焼いた。酷い断末魔を上げて転げ回りながら、男はありったけの罵詈雑言を吐き散らかした。やがて焼け落ちていく廃聖堂の天井が崩れ落ち、男を下敷きにする。

 身動きのとれなくなった男の脳裏に輝かしき日々が蘇る。冒険の毎日、仲間達との思い出、誇らしき戦績。その一つ一つは、己が身と共に燃えさかり、塵となり、天へと昇っていく。

やがて二つの足音が講壇を上り詰めるころ、かつて溢れんばかりの輝きを放っていた筈の眼は、跡形もなく焼け落ちていた。

「勇者の魂を浄化し、あるべき処に戻す術はただ一つ

 ――冒険の書ごと、魂に収められていた

「わかっています、これは私の役目です」

 少女の声に淀みはなかった。男は胸に何かが置かれるのを感じたが、既に振り払う力は残されていないのだ。

「見届けよう――抜かるなよ」

頬をなにかが零れ落ちる。涙ではなかった。

「――――おかえりなさいませ、勇者さま」

 冷たい感触が皮膚を貫く。雨ではなかった。


<Order : Account Delete =Over>


◇――――◇ ◇――――◇ ◇――――◇

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