うたたねの余韻

きき

うたたねの余韻

いち、

に、

さん、

し、

ご、

ろく、

なな、

はち、

く、

じゅう…



いつもの駅の改札を抜けると、私は頭の中で数字を唱え始める。

その日あった嫌な事や悲しい事を思い出さない為に、家までの歩数を一歩ずつ数えて行くのだ。

因みに、最寄りの駅から私の家まではおおよそ1400歩。

近所のコンビニに寄り道する時は1800歩。

ちょっと遠回りをして、チェーンのコーヒーショップに入る時は2100歩くらい。



ろくじゅういち、

ろくじゅうに、

ろくじゅうさん、

ろくじゅうし…



そうだ。今日は金曜日だから、少し先にあるスーパーに寄ってちょっと良い感じのお惣菜でも買って帰ろうか。軽くビールも飲みたい気分だ。

家に着いたらすぐにお風呂に入って、お気に入りの本を読みながら何も考えないでのんびりと過ごしたい。



にひゃくじゅうご、

にひゃくじゅうろく、

にひゃくじゅうなな、

にひゃくじゅうはち、

にひゃくじゅうく…



それにしても、今週は散々な一週間だった。

大声で叫びたくなるような恥ずかしい失敗を沢山した。それに合わせて吐き出される上司の溜息が棘のように胸に刺さって、なかなか抜けないでいる。

何をやっても上手く行かない自分にいらいらして、今日は仲の良い同僚に嫌な態度をとってしまった。

いつもは他愛の無い話をして笑ったり、何かと私の事を気にかけたりしてくれる、隣の席の気の良いあの子。

そう言えば、水曜日に仕事の話をしてからろくに目を合わせていない気がする。



ろっぴゃくさん、

ろっぴゃくよん、

ろっぴゃくご…



「悪循環」とは、昔の人達は上手い言葉を作ったものだ。

文字の通り、悪い事達はあっという間に手を繋いで、ぐるぐるぐるぐる輪を広げて行く。

普通の金曜日ならもっと晴やかな気分で、気持ちの良い疲労感に身体が支配されているはずなのに、今日の私は何か悪いものにでも取り憑かれたかのように、身体も頭も気持ちも重い。



ななひゃくいち、

ななひゃくに、

ななひゃくさん…



結局、数字を唱えるのと同時に、もやもやとした悩みを無意識に考えてしまう自分の器用さに苦笑する。

それでもまた一歩、足を前に動かして目的地へと進んで行く。

辺りはもうすっかり真っ暗で、気が付くと通りには私以外の人影は無い。まるで自分だけがぽつんとこの世界に取り残されたような気持ちになる。

何だか心細くて、コートの裾をぎゅっと握りながら、一歩一歩前進して行く。



2つ目の角を曲がり、住宅街に入った時だった。

相変わらず暗闇に包まれた道の先にある何処かの建物の塀がほのかに明るく光っているのが見えた。

暖かなオレンジ色に輝くその光は今の私にとっては希望の灯のように思えて、目に見えない何かに導かれるようにその方向へ足を進めていた。

近付いてみるとそれは小さな看板で、足元に小さな蝋燭が1個置いてあった。まるで「誰かに見つけて欲しい」とでも言っているかのように。

その看板には細く、だけどしっかりとした筆跡でこう書いてあった。


『Bar うたたね  30歩先』


こんなところに、いつバーなんて出来たのだろう?

この道は何度か通った事があるけれど、初めて聞く店の名だった。



いち、

に、

さん、

し、

ご…



つやつやとした黒板に記された、まるで猫が日向で微睡んでいるような可愛らしい店の名。

それをじいっと眺めていたら、「どんな店なんだろう」とふつふつと興味が沸いてきて、気が付いた時には私は30歩分、前進していた。


そこには、先程のものよりも一回り程大きなサイズの看板が立っていて、こちらにも蝋燭が置いてあった。今度は4つだ。

看板には『Bar うたたね こちら』という文言と共に真っすぐな矢印が描かれていた。

矢印の方向に目を向けると細長い木製の扉があった。暗く落ち着いた色の扉の真ん中には、四角い小さな小さなガラスの窓があり、そこから蝋燭と同じオレンジ色の光が漏れていた。


その時はもう、スーパーに寄って帰ろうとか、あったかいお風呂に入りたいとか、読みかけの本の続きの事とか、そんな事たちはすっかり頭から抜けていて、このオレンジ色の光の中に飛び込んでみたい、という事しか頭の中に残って無かった。



なな、

はち、

く、

じゅう…



一歩ずつ扉に近付いて、金色に輝くドアノブに手をかける。ノブはひんやりとして、すべすべとしていて、気持ちの良い触り心地だった。

それをゆっくりと引くと、ふんわりと温かい空気が全身を包んだ。

店内はカウンター席だけで、大人が5人入ったらいっぱいになる位のこぢんまりとした広さだった。

カウンターの奥にある棚には綺麗な色のお酒の瓶がぎっしりと並んでいて、店内の照明と相まって不思議な輝きを放っている。

それはあまりにも幻想的で、私は一気にその輝きに魅了されてしまった。


その美しい景色をぼうっと眺めていると、「いらっしゃいませ」という声が店内に響いた。

低く落ち着いた声の持ち主が店の奥の扉から現れる。黒いチョッキに蝶ネクタイを身に着けた、品の良さそうな初老の男性だ。この店のマスターだろうか。


「どうぞ、お好きな席におかけください」

にこりと微笑むマスターに促されるまま席に着いてから、そういえばこんなバーに来たのは初めてだという事をやっと思い出し、どういう風に振舞ったら良いのか分からず心が慌てだす。

「あ、あの、私、こういうお店初めてで…、お店の看板が素敵で思わず入ってしまったのですけれど…」

しどろもどろな私の言葉にマスターは優しく応えてくれた。

「ありがとうございます。この『Bar うたたね』はまるでうたたねをしているかのような、心地の良い夢の旅へみなさまをご案内するバーです。何も考えず、お酒と夢に身を委ねてください。今宵はどのような夢をご希望でしょう?」


穏やかなマスターの問いかけに、私は必死に考えを巡らせる。

目の前に佇むお酒は相変わらず魅惑的な輝きを放っていて、どれを飲んでも夢見心地になれそうな気がした。

その中で、もし今日の私に寄り添ってくれるお酒があるとしたら。それを飲んだら私のこのもやもやした気持ちは少しでも晴れるのだろうか…?

「ちょっと…仕事が上手く行っていなくって。仲の良い同僚に八つ当たりしてしまったり、少し棘のある気持ちでして…。その、優しい気持ちに戻れるような、穏やかな夢が見たいです」

「なるほど…では、こんなお酒はいかがでしょう?」

背後に並ぶお酒の中からマスターが1本の瓶を取り出す。骨ばった手で丁寧に瓶を開け、グラスに注がれたのは琥珀色に光る液体だった。

「どうぞ」と恭しくグラスが私の前に差し出される。

「これは…?」

「温かく、まろやかな口当たりが特徴のお酒です。今のお嬢さんにぴったりかと思いまして。ぜひご堪能ください」

淀みのないマスターの言葉は不思議な説得力があって、私は黙って頷いた。


グラスを手に取り鼻を近付けると、芳醇な香りがした。心がすっと解れる様な、奥深い香り。

そのままこくり、と一口呑み込むと、液体が身体にじんわりと染み渡っていくのが分かった。

すると不思議な事に瞼がだんだん重くなって、私は深く遠い場所へと吸い込まれていった。




がたん、ごとん

がたん、ごとん



気が付くと、電車の中だった。

車体の動きに合わせてリズムよく身体が揺れる。

それはいつも乗っている通勤電車ではなく、何処かの田舎を走るような古びた電車で、私はボックス席を一人で占領していた。

辺りを見渡すと、どうやら乗客は私ひとりのようだ。

窓の外を見ると、一面に星が瞬く夜空が広がっていた。

ああ、昔読んだあの本みたいだ。そう、『銀河鉄道の夜』でジョバンニとカムパネラが乗っていたような。


電車はゆっくりと進んで行く。行先は分からない。

けれど自然と不安は無く、どこまでも進んで行けるような気がした。



がたん、ごとん

がたん、ごとん

がたん。


少しすると停車して、乗客が一人乗ってきた。

「あれ、橘?」

現れたのは、会社の同僚だ。

そうだ、私がつっけんどんな態度をとってしまった、いつもは仲の良いあの子。

「どうした、どうした、こんなところで」

会社での出来事を忘れてしまったかのように、彼はあっけらかんとした態度で私に話かけて来る。

思いもよらない場所での遭遇に戸惑って何も言えずにいる私をよそに、彼は私の目の前の席にどかりと腰を掛けた。


そのまま電車は再びゆっくりと動き出した。

無言のまま窓を眺めると、そこには彼の顔が反射して写っていた。その表情からは何も読み取る事は出来なかった。


「そうだ、俺、ビール買ったんだよ。橘も飲む?」

彼はいきなりそう言うと、おもむろにコートの両ポケットからビールの缶を一本ずつ取り出した。

右手には大きな星が描かれた缶、左手には生意気そうな表情のネコが描かれた缶が握られていて、少しだけ悩んでネコのビールを貰う事にした。


ぷしゅっ、と子気味良い音が車内に響く。

「乾杯」と軽く缶をぶつけ合い、冷たい缶に口を付ける。しゅわしゅわとした液体が身体に広がる感覚が心地よい。

目の前の同僚はというと「あー、これこれ」と満足気な表情だ。


「橘はさ、ネコ好きなの?」

「なんで?」

「ネコのビール選んだからさ」

「普通、かな。実家で飼ってるのは犬だし」

「ふうん。そうなんだ」


短い会話を終え、再び沈黙が訪れる。

いつもは何てことないはずの沈黙なのに、今の私は居心地の悪さを覚えてしまう。

彼は、一体何を思ってこの場に座っているのだろう。

気まずさを打ち消す為に、小刻みにビールを口に運ぶ。


すると、彼が突然立ち上がった。

「流れ星だ!」

その声に私も思わず窓の方に目を向ける。

そこでは、無数の星たちが絶え間なく落下を続けていた。その様子は、まるで海を駆ける魚のようで、大きな波のようで、言葉に出来ない迫力があった。


彼はおもむろに窓を開け、外へ顔を出した。

「橘も、ほら早く!」

満面の笑みで彼がこちらを向く。目が爛々と光っている。

促されるまま私も立ち上がり、窓の外に顔を出した。

疾走する電車の速度で髪の毛が顔の周りで暴れるのを抑えながら、落下し続ける無数の星を眺めた。

気が付くと私は星を眺める事に夢中になっていた。


「お願い事!」

彼が叫んだ。

「お願い事しなきゃ!こんな沢山の流れ星、なかなか拝めないんだからさ!」

興奮しているのだろうか、頬を真っ赤にした彼はおもむろに目を瞑った。

力を入れすぎて眉間にぎゅうっと皺が寄ってしまっている様子が何だかおかしくて、思わず笑ってしまった。


それから私も同じように目を瞑った。

瞑ってから、「さて、何をお願いしようか」と悩んでいると、右耳にかすかに熱を感じた。

「俺が何をお願いしたか、教えてやろうか」

私はどうして良いか分からず、目を瞑ったまま黙っていた。


「月曜日、橘と笑顔で話せますように」

「大丈夫、美味しいもの食べて、好きな事して、沢山眠ったら、元の橘に戻れるよ」


その言葉を聞いた瞬間、すぐに目を開ける事が出来なかった。

寒空の下、私はその言葉を噛み締めた。

噛み締めた言葉は私の喉を通って、胸へと伝わり、そこから身体全体に広がっていくように感じた。

とてもあたたかく、優しい言葉。

私がぐずぐずと立ち止まっている間にも、彼は私の事を見ていてくれて、わかってくれていたのだ。

その優しさが嬉しくて、むず痒くって、申し訳なくて、それから「ありがとう」という言葉を言いたくなった。


彼の顔が見たくなって、私がようやく目を開けると、そこはバーのカウンター席だった。




「おかえりなさい」

マスターの穏やかな声が店内に響いた。客は、やっぱり私しか居ないようだった。

ぼんやりとした頭を回転させて、先程までの出来事を思い出す。

あれは、夢だったのだろうか?あのお酒が見せてくれた幻だったのだろうか?


いずれにしても、私の心はこの店を訪れた時よりも遥かに軽くなっていて、穏やかに澄み渡っていた。

きっと、もう大丈夫だ。

そう確信してから、私はマスターに「ただいま」と小さな声で言った。




お会計を済ませて私は店の外に出ると、冷たい風が身体を刺してきた。

時計を見ると22時を過ぎたところだった。


まだふわふわと不思議な心地だ。

そう言えばあのお酒は一体何だったのだろう。銘柄を聞いてみれば良かった。

でもきっと、あれはマスターしか知らない秘密のお酒なのだろう。

世の中には知らなくても良い事だって沢山あるはずだ。



さあ、早く家に帰ってお風呂に入ろう。そして温かい布団にもぐって好きな小説の続きを読もう。

それからこの週末は、デパートにちょっと良いお菓子でも買いに行こうか。

月曜日に、夢の中で励ましてくれた彼に渡すのだ。

「ありがとう」という言葉を添えて。



この時の私は、ここまで何歩歩いて来たのかすっかり忘れている事にさえ、気が付いていなかった。

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