洗われた記憶

相野一也は、そのころ、あるじが過去を思い返していたことなど、知るよしもなかった。


彼は彼で、勝手な忙しさを抱え、それなりに日々に追われていたのである。

今は、わずかに罪悪感をおぼえながらも、電車の中でストーカーとして頑張っているところだった。

「しっかし・・・美人ってのは、大抵の場合はとくなんだろうけど、しょうもないことでは、色々めんどうそうだなあ・・・」


一也が目を向けると、級友の水上はいま、男にはさまれて座席に収まっているようだった。

ほかに空いている場所はもっとあるのに、あとから寄ってきた中年過ぎのサラリーマンにぎゅっとはさまれ、それでも背筋を正して座っている。

まだ高校生ぐらいなら、そのまぶしい外見に気圧けおされることもあるのだろうが、いい歳したおっちゃんたちには、彼女みたいな存在は癒しにしかならないのかもしれない。


(この線はチカンも多いし、できるだけ男からは離れてほしいけど)

さすがに、一也もそんな保護者めいたお節介をやく神経はない。

それよりもむしろ、水上は人間の男などよりはるかに、重大な危機に面しているのだ。


・・・一也が高校に通い始めて、「面白そうだから、私もいくわ」とヒマ潰しに編入してきた ”橘かすみ” は、真祖『直系』十二貴族と呼ばれる、災害級の魔族である。

その周囲には、つねに様々な種類の監視の目があって、おいしい獲物である水上も、同族たちに把握されやすいのだ。


(さて・・・。今度この国にやって来たっていう奴は、ルド=サージェンカって言ったっけ?

こんな上物が手つかずでいるなんて、勘違いして喜んでなきゃあいいけど)


少年は、車両のはしっこで丸くなりながら隠れていた。


ーーしばしば、人間には偶然の出逢いを『運命的』な、と盛り上がって考える者もいるが、彼に言わせれば、そんな例は掃いて捨てるほどあったのである。

人には、それぞれ生き方の傾向というものがあって、その歩みの形が、パズルのようにうまく合わさる相手は、この世界に常にいくらかは存在するのだ。


彼は、徹底した現実主義者だった。


水上をたまたま・・・・この街で見つけてしまったのは、一也にとって当たり前のことであり、彼女が過去から解放されていないから引き寄せられたり、別の何かを引き寄せてしまう、呪いのようなえんもあるとは、まったく思っていない。



「・・・ん?」

それでも、これからのことをいろいろ考えていると、はっと一也の目線が止まった。

いつの間にか、水上の姿を見失っていたのだ。

(あれ!? どこに行ったんだ!!)

あわてて立ち上がるが、もう停車駅はすぐそこで、帰宅しようとしている少女は、そこで降りるはずだった。

一瞬ためらい、そのまま一也が下車すると、階段のわき、人が行き交う流れからはずれて、水上は待っていた。


「なぁ~にしてるのかな~? こんなところで相野くんは」

腕組みなんかをして、仁王立ちしている。

皮肉な笑顔を浮かべようとしているその表情は、精いっぱい怒ったふりをしているのだろう。

だが彼女は、どうしようもなく人懐ひとなつっこく見える、他人への悪感情がほとんどない人間なのだ。


(こんな顔をしてたら、通りすぎるだけの男でも、コロッと惚れてしまうでしょう)

一也はやや苦い思いがした。

けど・・・自分はここで、何をやってるんだろうか。

とっさにうまい言い訳が出てこず、少年は手持ちぶさたで立っていた。

「そっ、そうだ!」

「・・・そうだ?」

「先月あたりから、同じ手口のわいせつ事件が数件あったじゃないか。 水上さんの降りる駅も、その範囲に入ってただろう」

ーー それで、別れたあと心配になってね。

かなり無意味な、いや、はっきり言ってやらない方がましのキモい言い訳になってしまった。

だまって後をつけてくる男など、女性にとっては善意でも消えてほしいレベルのいやさである。

「ふ~ん」

そこで、彼女は見下ろすように訊ねてきた。

「キミはあれだね。私に興味ないってフリしながら、実は好きだったりするのかな?」

「それはない」

即答した答えに、水上は呆気にとられて退がっていた。

ひどいよ、ちょっとは考えようよ、と気弱になって訴えている。


ほんとに、心配だったんだ。もう二度とこんなことはない。

明日からは、対処が遅れるかもしれないけど使い魔に送らせようと、一也は心に決めていた。

「まあ、相野くんはもともと、おかしい人だからねえ・・・」

いつかの朝に見せた、いわくありげな目をして、彼女は右手を腰にやった。

ときどき妙に高得点をとる成績とか、”橘センパイ”とか、もう色々ごまかさずに、教えてもらいましょうか。

そう言って、彼女は自宅まで送られることを、納得してくれた。

「・・・うん」

一也は、ようやく一息ついたように動き出していく。


日が暮れて間もないのに、駅前にはどこか静けさがただよっていて、人々は声をひそめるように家路へとついていた。


ーー 本当のことだって?


少年は、いつものように、軽い調子で話を続けていた。

それを伝えても、信じてくれるだろうか。



・・・前世でどれほど、君は苦しんで生きたのかを。

僕のことを、どんなに憎みながら死ぬことになったのかを。


となりで歩きながら、明るくうなずく少女に、少年は作り話を聞かせてやる。


ーー 生まれ変わりなど、彼は信じていない。

しかし、その笑顔には救われる思いだった。

彼女のことはずっと忘れなかったし、間違えるはずもなかったから。



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