第4話 なにも、変わらない (梨烏ふるりさんからのお題「指先」)
分厚いガラスの向こう側に歪んだ景色が見える。その日は朝からずっと雨が降っていて昼になっても薄暗い。もしかしたら止むんじゃないかって期待しているエメリアの心がキリキリと痛んで今にも泣きだしてしまいそうだ。
昨日はあんなにいいお天気だったのにどうしてこんなにひどい雨が降っているのか。
「パパもママも行っちゃだめだっていうし……意地悪なんだから」
夜にはお誕生日のお祝いをするから今日だけは家でじっとしていなさいだなんて――いつもならちゃんと言いつけを守って夕飯を楽しみにしながら待っていることに文句なんかひとつもないけど。
「今日だけは特別なのに」
湿った空気がじわりと感じられるガラスに額をつけて唇を尖らせていると、ぴしゃりと雨粒ではない大きな飛沫がぱっと窓に当たった。
「え?」
驚いて顔を離し、じぃっと眺めていると水滴があちらこちらへとガラスの上を動き回り、やがてゆっくりと円を描くようになる。
これは魔法だ。
エメリアは窓を開けようと取っ手に飛びついたけれど不思議なことにびくともしない。壊れているわけでも立て付けが悪くて開きにくいわけでもないのはよく知っている。
だって自分の部屋の窓なのだ。
「………!ディーネ!ディーネなんでしょ?」
こんなことできるのは水の精であり小川に住んでいるディーネしかいない。
会いたかったのは自分だけじゃなかったんだとほっとしつつもどうして窓を開けさせてくれないのか理由が分からずにエメリアは混乱するばかり。
「お願いディーネお顔を見せて」
お話をさせて。
「これが最後なんだよ?」
『……ごめんなさい』
「どうして謝るの?ねえそれよりディーネは小川から離れても大丈夫なの?」
精霊の世界にも約束やお仕事があって、ディーネは小川に流れ込む山からの水をきれいなまま次へと送る役目があるらしい。小川に住む色んな生き物が気持ちよく過ごせるように気を付けることも大事なお仕事なんだっていってたのに。
ディーネが棲んでいるところから出て村に来るだなんて今まで聞いたこともないし、仲良しのエメリアだってただの一度も見たことがない。
これはきっと大変なことなのだ。
「ディーネちゃんと教えて。わたしはもう子どもじゃないんだよ。今日で十歳になるんだから」
十になったら子どもから半人前として扱われる。色んな仕事を任されるようになるし、小さな子たちの面倒も見なくちゃいけなくなる。大人と一緒に山を下りて商品を売りに行ったり、山に木の実や染料の材料を取りに行ったりもするのだ。
家のお手伝いで済んでいた子どもと違って自由に遊びまわる時間だってなくなるし、覚えることがいっぱいで毎日きっとくたくたになる。
そうなったらディーネと過ごした楽しかったことを思い出す暇も無くなって、きっと少しずつ忘れていってしまう。
「もうあなたのこと見えなくなっちゃうのに」
『……それでいいのよ。それが、普通なの』
「やだよ。普通なんて簡単にいわないで」
エメリアがディーネを見ることも感じることもできなくなっても、ディーネにはエメリアのことは普通に見えるから。
だから平気なんだ。
そんなのズルい。
「忘れたくない……わたしは忘れたくないのに」
『いいのよ。忘れなさい。わたくしのことなど』
「じゃあどうして会いに来てくれたの?」
『…………』
無理をしてここまで来てくれたくせに。
忘れろだなんてひどい。
「二年前に渡そうとした飾り玉のこと覚えてる?」
『覚えてるわ』
「忘れろっていうならわたし明日小川にそれ捨てに行くから」
『…………』
「絶対に行くから」
待ってて――その言葉に対する返事はなかったけどエメリアはいつまでも窓の傍でじっと雨音に耳を澄ませていた。
翌朝まだみんなが眠っている時間に起きだしてこっそりと寝台を抜け出し、形だけ身だしなみを整えて小川へと向かった。
手のひらの中には初めて作った飾り玉。あの日受け取ってもらえなかったものを渡しに行く。
ぬかるんだ道を泥を跳ね上げながら進んで靄の立ちこもる小川の縁へと出た。
「ディーネ!いるんでしょ?」
エメリアの声は靄に吸い込まれたかのように不安定に消えていく。静かな小川の流れる音。微かな生き物の気配。濡れた土の匂い。
なにも変わらない。
十歳までだったころとなにひとつ変わらないのに、十歳からの時間を生き始めたエメリアには意地悪して出てこないのかそれともそこにいるのにディーネが見えないのかぜんぜん分からないのだ。
「ディーネっ!!」
自然とあふれてきた涙が頬を伝って顎から落ちるまでのわずかな間。滲んだ視界の先にディーネの姿が見えた――気がした。
あの優しい微笑みを浮かべ手を伸ばし指先でエメリアの額に触れて。
『あなたに素敵な出会いと多くの喜びが訪れますように』
甘い、甘い声が幸せを願って溶けていった。
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