嘘の境界線と恋人の始まり
平石永久
第1話 嘘で構わないから
校門の前で空を見上げていると、駆けてくる足音が聞こえてきた。
「雅人くん。待っててくれたんだ」
息を切らして現れたのは肩口で髪を切りそろえた可愛らしい女子生徒。
「まあ、約束したから」
俺と彼女の関係を一言で表すなら『共犯者』だ。
ひと月前まで、俺が彼女を一方的に認識しているだけだった。
ある日の昼休み。セミロングヘアの似合う女子生徒が、上級生の男に絡まれているのを見た。その男は自分と付き合わないかと彼女――雨宮を誘っていた。彼女はどうにか会話で逃げ出そうとしているが、逃げ場を奪うように男は彼女に立ちふさがる。
周囲の人間は傍観するかその場から立ち去るかの二択しかなく、俺もそのどちらかを選ぶはずだった。
「またやってるよ。田島先輩」
「これで何人目だよ」
そんな男子たちの会話が聞こえてきて。
「あの人から逃げられた女子見たことないぞ」
「金持ちの息子でルックスはいいからな」
世の中理不尽だよな、という彼らの掛け合いをよそに、俺は雨宮たちの方へ歩きだしていた。
なんてことはない。彼女が困惑しているように見え、あの男が気に入らないと思ってしまった。
「雨宮、保健室の先生が呼んでたぞ」
俺が知っているのは雨宮の名前と過去だけ。
彼女が実際に困っていたか分からないし、余計なお世話だと思っているかもしれない。
でも、その場にいたその他大勢になるのは、何かが違う気がした。
俺に名前を呼ばれた雨宮は、少しばかり驚いた表情を見せた。
「ごめんなさい、先輩。私、鳴海先生に呼ばれてるので」
あの先生、鳴海って名前だったか。
ぼんやりと考えていた俺の手を彼女はチャンスとばかりに掴んだ。
「え?」
「呼びに来てくれてありがとう」
さあ行こう、と笑顔を湛えたまま歩き始めた。雨宮に付き従う形で、俺は保健室のある方角へ歩き始めた。
雨宮の手は少しばかり汗ばんでいたが指摘するのはやめた。俺の手汗も尋常じゃなかっただろうから。
「あの、鳴海先生が呼んでるって嘘でしょ?」
「まあな」
歩きながら視線を向けてくる雨宮の問いに平然を装って答える。
「助けてくれたんだよね」
「余計なお世話だったかもしれないけど」
「そんなことない。貴方が来てくれなかったら、きっと佐々木先輩と付き合うことになってたかもしれない」
雨宮の右手に力が入るのを感じた。
「手」
「えっ?」
キョトンとこちらを見上げてくる雨宮から視線をそらし、俺は彼女に握られた左の手を乱暴に振る。
「……もう放してもいいんじゃないか」
「あっ、ごめんね」
少しばかり名残惜しくもあったが、照れくささのほうが勝った。
手を放した雨宮はくるりとこちらを振り返って、勢いよく頭を下げる。
「ありがとう。助けてくれて」
純粋な感謝を示す彼女にいたたまれなくなって、俺ははぐらかすように口を開いていた。
「そういや、あの先輩にどうして言い寄られてたんだ?」
「イメチェンしたから、かな」
答えに困った様子で雨宮は曖昧に微笑んだ。
「髪を切ったのも明るく振る舞ってるのも、男子にモテたいからじゃないのにね」
ただ新しい一歩を踏み出したかっただけ。
彼女はそう言って寂しそうに俯く。
「ご、ごめんね。突然こんな話」
「いや、確かに中学の時と比べたらかなり明るくなったと思うぞ」
フォローするために発した言葉が、彼女の気持ちを抉ってしまった。
「……中学の私を知ってるの?」
さきほどまでの笑顔が嘘のように、雨宮は青ざめた表情をした。
「ああ、知ってる」
触れられたくない過去だということは察することができた。
でも、嘘をつくこともできなかった。
「そっか。だから、私のこと知ってたんだね」
雨宮があまりにも思いつめた表情をしたので、俺はとっさに頭を下げていた。
「ごめん」
「ど、どうして謝るの?」
取り繕ったように笑う雨宮の俺を見る目が変わった。まるで、あの時のように。
ちょうどその時、昼休みの終わりを告げるベルが鳴った。
「また困ったことがあったら相談に乗るから。じゃあな」
「あっ……」
言いたいことだけ言って、俺は足早に雨宮から離れた。よく考えてみれば、彼女は俺のことを覚えていないだろう。だから、意味のない言葉のはずだった。
午後の授業は頭に入らず、俺はぼんやりと放課後を待った。
掃除当番は俺とクラスメイト四人。箒で床を掃いていると誰かが肩を叩いてきた。
「久保。あの娘がお前のこと呼んでるぞ」
言われて振り向くと教室の入口に雨宮が立っていた。
表情を曇らせながら俺の方を向いて手を振った。
「お前、いつの間にあんなに可愛い子と仲良くなったんだよ」
箒の柄で突っついてくるクラスメイトを軽くあしらう。
「仲良くはなってねえよ」
「まあ、そうだろうな。あの娘、お前の名前知らないみたいだったし」
それだけ言うと宮部は掃除を再開した。どうやら聞き耳は立てているらしい。
「どうかした?」
「久保くん。中学の二年間、同じクラスだったよね」
「まあ、そうだけど」
「そっか」
雨宮はそれを聞いて俯いた。
「何か話があるなら、掃除当番終わってから――」
「いやいや、女の子を待たせるもんじゃないぜ」
さっきまで聞き耳を立てていた宮部は、俺の鞄を持ってくると強引に押し付けてきた。
「この間の焼きそばパンの借りはこれでチャラな」
頑張れよ、と宮部は俺の肩を叩いて教室の扉を締めた。
「あの、良かったの?」
恐る恐るといった感じで俺を見上げる雨宮。
俺は一度、教室の中を覗き込んだが、宮部が親指を突き立てているだけだったので顔をそらした。
「ここじゃ人も通るから、屋上行くか」
まだ寒さの残る季節。屋上は開放されているが、人の行き来は少ない。案の定、人気はなかった。
「それで、どうした?」
「あのね、お願いがあるの」
雨宮は緊張しているように見えた。だから、彼女が言いたいことを言えるまで待つことにした。
深呼吸を繰り返し、覚悟を決めたような顔で俺を見る。
「クラスの人たちが昼休みのことを見てたみたいで。久保くんと付き合ってるのかって言われてね」
「まあ、噂好きなやつはどこにでもいるからな」
聞き耳を立てていたクラスメイトを思い浮かべ、俺は話を促す。
「付き合ってることにしちゃったんだ」
「……え」
理解が追いつかない。
一体、彼女は何を言っているんだ?
「迷惑なのは分かってる。だから、本当の恋人ってことじゃなくて、嘘で構わないから」
――私と付き合ってください。
雨宮があまりにも切実に見えたから、俺はその願いに頷いていた。
こうして俺たちは嘘の恋人関係を結ぶことになった。
それだけで何かが急激に変わるとは思っていない。でも、日常に何か変化がつけばいい。そう思っていた。
だけど、それは間違いだったんだ。
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