第9章 日常への浸食(1)

 目が覚めたのは夜中のことだった。時計を見ると日付が変わって少ししたくらいだろうか。ということは、病院の調査へ出発するのは今日だということになる。だがこの胸騒ぎはそれだけなのか。何故だか異様なほどの緊張感を感じる。回りを見回すと、隣で寝ていたはずの凛さんがいないことに気が付く。私は少し気になって廊下へ出てみることにした。


 廊下へ出ると、あのモニターだらけの研究室の扉が少しだけ開いているのがわかった。私は興味のままにその部屋へと足を運んだ。そこには茫然と立ち尽くすトオルがいた。トオルはこちらを向くと無表情のまま、


「やられた。次は凛さんだったんだ」


とつぶやいた。私はトオルが何を言いたいのか理解できなかった。首を傾げながら部屋へ入ると、そこには目を疑う光景が広がっていた。初めは凛さんが机に突っ伏したまま寝ているのかと思った。しかし、月明かりに照らされた赤黒いそれが、寝ているわけではないと物語っていた。いまだトオルは無言のまま部屋に立ち尽くしている。突然の出来事に私は、悲しみさえ感じなかった。ただ驚きの感情が自分を支配しているのみである。


 凛さんは机に伏せたまま、自分の腹にナイフを突き刺していた。自殺なのか。だが、モニターに書きかけの論文が残っていることから、おそらく自殺ではないとわかる。だとすればいったい―。


 トオルが連絡していたのか、警察が駆け上がってくるのが聞こえた。扉の向こうから刑事の声が聞こえる。


「私だ、渡辺だ」


どうやら駆け付けたのは渡辺刑事だったようだ。渡辺刑事は手際よく部下に指示を出すと、即座に私たちの方へやってきた。


「身近な人が亡くなって混乱しているとは思うが、少し話を聞かせてくれないか?」


正直私はほとんど何も知らない。知っているとすればトオルなのだが、本人は何やら考え事をしている。


「あの、凛さんが殺されたのって、理由があるんですよね。でなかったら僕は……」


トオルもだいぶ精神的にきているようだ。いつものように落ち着いた話し方ではない。


「正直現段階では何もわからない。他殺と決まった訳ですらない。だからこそ、君たちの話を聞かせてほしいんだ」


渡辺刑事は少しこまったようにそう言った。それでもなおトオルは渡辺刑事に質問をぶつけていた。その間に私は、自分が起きた時にはすべてが終わっていて何も知らない、ということを告げた。


「そうか、君は何も知らないということだね?だとするとやはり何か見たとすれば彼のほうということか」


渡辺刑事は再びトオルと向き合った。少しトオルも落ち着いたようで、事件のあらましを説明し始めた。


「僕は夜中の十二時前に起きてしまって、それで飲み物でも飲もうと廊下へ出たんです。そうしたら研究室の電気がついていました。そこで凛さんにも飲み物を入れようと部屋へ入ったんです。その時凛さんは論文を書いていました。凛さんはコーヒーを入れてくれと言ったので僕は一階へ降りました。すると、二階で明かりが消えるのが見えました。僕はおかしいと思って部屋へ戻ると、そこで凛さんはナイフを……」


そう言うとトオルは再び黙り込んでしまった。渡辺刑事は明日の明け方まで警察で泊まるよう私たちに指示した。それを拒否する理由もなかったので私とトオルはしたがうことにした。


 車を降りたとき、すでに午前一時半を少しまわったところだった。建物のなかから職員が出てきて私たちを仮眠室へ案内した。仮眠室にはベッドが四つ、下二段、上二段と別れて設置されていた。私は上に、トオルは下のベッドに入った。


 明かりが消え、少し落ち着いてくると、事の重大さがひしひしと心を浸食してくるのがわかる。つい先ほどまで自分を励まし、たくさんの情報を与えてくれた凛さんは今、この世から消えてしまった。だが今はそれ以上に、不安の方が大きかった。次は私なのではないかという考えが頭を離れようとしない。


 死ぬ、というのは痛いのだろうか。苦しいのだろうか。それを知っているのは死んだ人間だけなのだから、今考えても仕方のないことである。しかし、この思考というものは一向に私を寝かせてはくれなかった。

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