第1章 歯車が目を覚ます(3)

「り、凛さん。これってお酒じゃないですか。不味いし、胃が熱くなるし。こんなの初めてですよ」


私はむせながら言った。


「まあ、そう怒るな。一口くらいなら『未成年』でも問題あるまい」


そう言われてようやく凛さんの意図を理解した。私は未成年なのだ。お酒の味を知っているか試したのだろう。これでだいぶ年齢を絞ることができた。少なくとも十代後半であることは間違いない。


 凛さんに案内され二階へ上がると、そこには一階とはうってかわっていかにも研究所という面構えの部屋があった。正面には多数のモニターを備えたコンピュータが設置してあり、その横には小、中学生くらいの男子がいかにも喜びそうなデザインの十字架がかざられている。そして十字架の置物からは多数の銅線が伸びていた。凛さんはコンピュータの前の椅子に腰かけ、私も近くの椅子に座るよう促してきた。トオルは一階でなにかしているようだ。椅子に座ると凛さんはいくつかの資料を印刷し、それを私に投げるように渡した。


「これを読め。一つ目は一般的な記憶喪失の資料、二つ目は車で私が話に挙げた一連の事件の資料だ」


まず一つ目の資料には、記憶喪失の主な原因が示されていた。脳に障害がある場合などの肉体的原因、ストレスなど精神的な原因、そして薬や電気ショックによる意図的に記憶を消す方法。また、記憶喪失はほとんどの場合、ものの使い方や世の中の動きといった一般常識は忘れないとのことだ。そして二つ目の資料。何故凛さんがこの資料を見せてきたのかは全く分からない。だが凛さんのことだ。きっと何かしら意図があるのだろう。


 そこには二つの事件が挙げられていた。一つ目は、先週起こったという殺人事件、十四歳の少女が変死体として発見されたものだ。読んでいて気分のよいものではない。だが、ここまで読んでしまった以上最後まで読んだ方がいいだろう。


 その事件が発生したのは先週の十月十日のことのようだ。ということは今日は十月十七日だということになる。いつもなら寝坊することのない少女が起きてこないのを不審に思った母親が遺体を発見、すぐ警察へ通報したとのことだ。


 当初事件は首吊りによる自殺と考えられていたが、警察の調べの結果遺体付近に踏み台として使ったものが一切残されていなかったという。さらにもがき苦しんだ形跡もなく、死亡推定時刻からするに何者かによって意識を奪われたのちロープに首をかけられたという見方が強くなっている。しかしこれ以上の情報は警察からも公表されていないようだ。


 次の事件は一昨日のことだ。四十歳の無職の男性がビルから転落した事件だ。


 この件について警察は、解雇されたことによるショックでの自殺とみているようだ。この男性は事件の一週間前に会社から解雇されており、それ以降帰宅していないことがわかっている。


 しかし、転落する直前、現場付近を何かにとり憑かれたかのように走り続ける男性の目撃情報も上がっており、いまだ捜査が続いているようだ。男性は一命をとりとめたものの、回復は絶望的とのことだ。資料はここまでだった。


 読み終わり私が視線を上げると凛さんがモニターの記事をさし示している。そこにはネットでよく見かける掲示板サイトのページが映し出されていた。そこに集まる人々も、この事件の話題で持ちっきりのようだ。ページを見終えたことを確認した凛さんは私に問いかけた。


「これを見てなにか不自然だとは思わないか?」


「この資料とサイトでですか?」


やはりこの人は意図が読みにくい。この質問の意味すらわからない。


「ああ。ここをよく見ろ」


そう言いながら先ほどの資料の一文をトントンと叩いた。その一文は「一般常識は忘れない」というところだ。それがいったいなんだというのだろうか。私は家に入るときは靴を脱ぐだとか、車の扉の開け方だとかそういった常識は忘れていないはずだ。


「まだわからないか。ネットのこの騒ぎようを見ろ。この事件は常識とまではいかなくともそれにかなり近いモノだろう?」


ようやく意図がわかった。私の記憶喪失の不自然な点を指摘したかったのか。確かに言われてみればその通りである。何故こんな大きなニュースを知らないのだろう。


「そうですね。なぜなんでしょう」


凛さんは少し考え込んでこういった。


「この事件が発生する以前に世間から隔離されていたか、さもなくば意図的に記憶を消されたか、といったところかな」


背筋がぞっとする。記憶を意図的に消されたなんてなんと気味の悪い話だろう。私は信じたくない。すると凛さんはそこで気にすることはない、と言い着替えをおいて出て行った。どうやら私が病衣以外身に着けていないことを察してくれていたようだ。下着までおいてある。―だが明らかにサイズが合わなそうなものもあったのでそれはあきらめた。


「おいトオル。いまこの扉を開けてはならんぞ」


外で話し声が聞こえる。どうやら二人は一階へ向かったようだ。下の階から声が聞こえてくる。


「瀬奈。今日はつかれたよね。ごはんできてるから食べない?明日は凛さんが服買いに連れていってくれるってさ」


トオルは料理が得意らしい。まぁ、凛さんは正直料理うまそうには見えないけど。


「はーい。いまいくよ」


私は返事をすると、部屋をでた。

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