円い十字架
@M-P-P
-プロローグ- 今日を生きる
日が暮れて街が街灯に照らされる頃、男は人通りの少ない道を一人歩いていた。眠らない街東京というが果たして本当なのだろうか。はずれとはいえここも東京である。しかし、この道を歩くものは男のほかにいない。静まり返った夜道にただひたすらに足音が響く。だが男のそれは足音と呼ぶには不自然すぎるものだった。もっと不気味な、足を引きずる音である。息が切れていることもよりいっそう不気味さを演出しているのかもしれない。
男はそれまで会社に勤めていた。業績悪化に伴い給料も少なく、家族三人を養っていくには足りるはずもなかった。ただでさえ苦しい生活の中、さらに追い打ちをかけられたのが一週間前のことである。持病のぜんそくが悪化、一時的に会社を休まざるを得なくなってしまった。すると会社は待っていましたと言わんばかりに解雇通知を送り付けてきたのである。人件費削減と言っていたのだから無理もない。それは男も分かっていた。わかってはいたが、それを家族に伝える勇気はなかった。
それ以来、男は一度も家に帰っていない。そればかりか、ろくに食べ物も口にしていない。所持金もあとわずか。この前ホームレス狩りに遭い、何とか逃げ切ったもののそれ以来歩くたびに右足に激痛がはしる。では何が男を歩かせているのか。それは空腹か恐怖か。ただただあてもなく男は歩き続けた。
歩いているうちに公園のそばを通った。そこには小さな砂山ができていた。それを見てふと思い出す。本来なら今日、男は娘とともに遊ぶ約束をしていたのだ。もしぜんそくが治っていたなら、今頃きっと家族と笑っていただろう。生活は苦しくとも一緒にいることくらいできたはずだ。もし足が無事ならば、今から帰ることもできたはずだ。
だが男にはそれをできるほどの体力も金も残ってはいなかった。この世を恨んだ。何よりも許せなかったのは自分だ。何故ぜんそくに悩まされるほど病弱なのだろう。せめて、それが治るくらいの力があれば―。男はベンチに腰をおろすと空を見上げた。星など全く見えない空。だが自分が最後に見るにはぴったりの空に思えた。眠気が襲う。きっとこのまま目を覚ますことはないのだろう。男はそっと目を閉じた。
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どれだけの時がたっただろう。目を覚ました男は自分の右足のただ事ではないかゆみに気付いた。かゆい。皮膚ではない。足の中が、骨が、そういう部分がかゆいのである。必死に足をかきむしっていると目の前に少年が立っているのが見えた。
「おじさん、まだあきらめないでよ。こっちへおいで。救ってあげる」
少年が何を言いたいのか分からなかった。そもそもこんな少年知らないし、彼が自分を救えるとは思えない。そんな子供についていく大人などいるはずがない。次の瞬間男は身震いした。少年と目があったのだが、その瞳は凍り付くように冷たかったのだ。少しばかりめまいを覚える。
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少年を追わねば。救われるにはそれしかない。男は右足を軽々持ち上げると、見覚えある後姿を懸命に追った。少年はビルを駆け上がる。男も階段を駆け上がる。今日は調子がいい。さほど息も上がることなく屋上にたどり着いた。
屋上では少年が手招きをしていた。男はそっと一歩を踏み出した。とたん襲う不自然な重力の感覚。少しして男は自分がビルから転落したのだと気づいた。何故だろう。いつもの少年を追っていたはずなのに。手招きする少年に一歩ふみだしたはずなのに。男の意識はそのまま夜の闇へと消え去った。
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