第8話 雪女 弐
ん? どうやら俺は気絶していたらしい。
もしかしたら、ただ単に眠っていただけという可能性もあるが、どちらにせよ、どうでもいいことだろう。結果は同じなのだから、過程などわざわざ解き明かす必要などまったくない。
分かったところで、「あっそ」としか言えないものだ。
ゆっくりと目を開けると、そこは学校ではなく、まるで田舎にあるおばあちゃんの家――その中の、縁側に横たわっていた。
しかし周りの風景を見れば、森や山や野ではなく、ビルやホテルや一軒家など――古典的ではなく、現代的な建物ばかりが乱立している。
ということは、ここは郊外などではなく、都内。
しかもよく見れば、俺の家から見えるだろう建物も見えることから、想像よりも近い場所なのだと分かった。
それにしても記憶が曖昧だ。
俺はなにをしていたのか。
確か鬼ごっこをして……だけど、その途中から覚えていない。
「あ、起きたわね」
と、俺の真上から声が聞こえてきた。
気づくことができなかったが、俺は地面に頭を乗せているわけではなかった。
ゴツゴツしていない……、
逆に、柔らかいクッションのようなものに、頭を乗せている状態だった。
「……ここ、どこだ?」と俺。
「ここはわたしのお
「お前の、家……?」
俺の確認、というか、無意識に言ってしまった質問に、
「ええ、そうですよ。怪我などはあまり、まあ、かすり傷程度だったので、一応手当はしておきましたので。痛かったら言ってくださいね、治してあげますから」
「そうか、迷惑をかけちまったな」
「そうでもないですよ。これからわたしもあなたに迷惑をかけるんですから、おあいこです」
迷惑宣言された。素直に嫌だった。
「それと、眠っている時はよし、として黙っていたんですが、そろそろわたしの膝枕からどいてくれませんか? 重いです暑いです鬱陶しいです」
それはかすり傷以上に、傷つくセリフだった。
俺は、「……分かったよ」と不満げに(確かに不満ではあったので)言った。
「なにを不満そうな顔をして……、ああそうですか、わたしの膝に惚れてしまったのですね?」
「膝に惚れるってなんだよ。正確にはお前の太ももだな」
俺はびしっと指を差す。
「まぁ、太もも云々は一旦置いておいて。
とりあえずは礼を言っておくよ、ありがとうな、
「いえいえ、当たり前のことですから」
と、静玉はこんな暑いにもかかわらず、着ている着物を整えながら言った。
コイツも淡と同じ、しかし種類は違う妖怪だ。
まるで雪のように真っ白な髪の毛が、腰の辺りまで伸びていて、旅館の女将さんが着ていそうな着物を身に纏う。
淡の着ている和服とはまた違った味を出している静玉は、妖怪の中でも有名な位置にいると言えるだろう。
雪女だ。
静玉を見ても雪の要素と言えば、髪の毛が白い、くらいしかない。
だから俺も最初はコイツが雪女だとは分からなかった。
静玉から自分の正体を明かすことはなかったし、俺も特別、興味があるわけでもなかったので聞くことはなかったが、最近になってやっと教えてもらった。
妖怪が自分の正体を人間に明かすというのは、本当に心を許していると俺は思いたいのだが、さてどうだろう。
淡の時は真っ先に教えてくれたのだが、あいつの態度は心を許していると取れるのか。
ふうむ、難しいところだ。
「なによ、じーっと見ているけど」
静玉が俺の視線に気づいたのか、そう問いかけてきた。
いや、別に静玉を見ていたわけではなく、静玉の後ろにある、なにもない壁を見ていただけなのだが――まあ、確かに誤解されても文句を言えない、ややこしい行動を取ってしまったな、と自覚はあった。
「特にはなにもないよ」
「そうですか、膝枕をされたいと」
言ってねぇし思ってすらもねぇし、そんなこと記憶からも飛んでたよ。
「じゃあほら、きなさいよ、今がチャンス!」
「…………」
ここで、わーい、とはしゃいで行けるほど、俺のメンタルは鋼鉄に作られてはいない。
豆腐くらいだ。ずぼずぼ突き抜けて、かき回せるくらいにはメンタルが弱いんだよ。
「ふーん、さすがに恥じはかきたくないと」
恥じをかかせる気だったのか、恐いわ。
「でも、かかせる気など、これっぽっちしかないので、遠慮せず」
「ああ……、ん?」
あれ、今、静玉の言葉におかしなところがあったのだが、運悪く聞き逃してしまった。
なにか重要なことだと思うのだが……?
「スルーされるとは思っていなかったですよ」
と静玉。
「いいんですよ、分からないならば、分からないままで」
そこまで言われたらすごく気になってきたのだが、まあ、興味などすぐに薄れてくだろう。
あれだ、氷が大量に入ったカルピスの味、みたいな感じだろう。
あれ、すごく薄くなるのは体験済みだ。
「ところでさ」
「んん? 膝枕ですか、どうぞ」
それはいい。
「冷たいですね。わたしより冷たいのは珍しいですよ――」
雪女に勝てるというのは結構、嬉し――くもないな。
「聞きたいことがあるんだよ、俺がここにいるってことは、鬼ごっこの勝者はお前なのか?」
「ええそうですよ。あなたの所有権は、このわたしにあります」
「所有権まで俺は商品にしたつもりは微塵もない」
そう必死に抗議してみる。
俺の抗議を必死、と取るかどうかは、各々の判断に任せるが。
「ならば、職権乱用をしますよ。この勝者という職権をね」
「つまり?」
俺は聞く。
「あなたの所有権をわたしに移動させる」
予想通りか。
「それはズルだろう。それって『魔法のランプから出てきた魔人が叶えてくれる願い事』に、『叶えられる願い事を増やしてください』と言っているようなものだぞ」
「それは……そうなの?」
そうだよ、とか言う以前に、お前が魔法のランプとか魔人とかを知っているのが俺にとっては驚きだったよ。
「そう言われれば、そうかもしれなくもなくもなくもない」
……面倒くせえ。
「いや、いいよ。今日だけなら俺はお前のものでいいから。
だからさっさと要件を言ってくれよ」
「おお、そこまで進んで、ああなりたいと言いますか」
なんだよ、ああって、なんだよ。
「あなたの意気込みを買いましょう。大人買いですよ、すごいでしょう」
「すごいすごい」
パチパチ、とやる気のない拍手をして見せた。
こんなテキトーな態度を取れば怒ってくると思ったが、静玉は冷静な表情で、
「まずは部屋に入ってください。ここでは暑いでしょう?」
「それは、確かにそうだけど」
でも、静玉が雪女なのだから、部屋の中にいなくとも涼しいは涼しいのだが。
まあ、蚊が飛んでいるのもうざいし、中に入ることに反対なわけでもない。
大人しく、文句も言わずに静玉の後ろについていき、部屋の中に入った。
すると、
「おお、お友達かい?」
部屋の中でのんびりと畳に座ってテレビを見ている雪女……(だよな?)が言った。
「うん、お友達」と静玉。
「人間か。珍しいもんだねえ。あんたは静玉を見ても怖がらないのかい?」
「ええ、まあ」
目の前の雪女は、見た目はたぶん、人間で言えば四十代後半くらいの女性……だろう。
喋り方がおばさんを通り越しておばあちゃんっぽいのは、仕方のないことか。
妖怪は長生きなのだから。
積み重ねてきた時代が人とは違う。
「ほんまに珍しいやっちゃなあ」
「いいから
静玉が苛立ちを含んだ声で言う。
すると、言われた叔母さんは、
「ええやないかええやないか。
静玉も、意外と男を見る目があるやないか」
と、さらに挑発するように言う。
静玉は、「むむむ……」と握った拳を必死に抑えているが、まさか殴るまで怒りが到達しているとは、予想もできていなかった。
「うつ、抑えた拳はどうすればいいですか?」
「しまえばいいと思う」
冷静に考えて。
ふぅ、と一息ついた静玉がまず座り、俺の手を引っ張って――「座って」と。
このままずっと立っているつもりも、俺の中にはなかったので、ゆっくりと腰を下ろした。
「……どうしたらいいんだこれ」
いきなり静玉の家に連れてこられ、身内の人にいじられて、俺は一体、どうすればいいのだろうか。
そもそも、静玉の願いが分からない。
曖昧過ぎて、どう取ればいいのか、理解するのに手間取る。それが長く続き、不安が少しずつ溜まっていき……、そういえば、トイレに行きたいなと感じてしまって、立ち上がる。
「どこに行く気?」
静玉に聞かれ、一瞬、悩む。
妖怪と言えど、一応は女の子だと考えると、トイレだと面と向かって言っていいのか分からなかった。しかし、ここは静玉の家だ、言わないわけにもいかないだろう。
「トイレだけど、どこにあるんだ?」
「ああ、案内するからこっちきて」
静玉も立ち上がり、部屋の外に出ていく。
聞いてから立ち上がり、歩き出すまでがものすごく早かったので、あいつもこの部屋から一刻も早く出たかったのだなあ、と分かった。
そこのところ、気持ちは共有できたらしい。
トイレまで行くには、一度、縁側を通らなければいけないようだ。
もわぁっ、と熱気が俺の体を気持ち悪く撫でてくるのを、俺はまた体験しないといけないのか……しかし、他にルートがないのならば、この道を通るしか方法はない。
人の家だ、あまり別案を模索することはしたくない、というのが本音だった。
トイレまでの距離は意外にも長かった。
最初から家の中にいた俺としては、この家がどれだけ大きく、どれだけの規模なのか予想もつかない。外観を見れば、なんとなくでも予想はできたのだが、内側だけでは難しい。
見るだけだったら、の話だ。
しかし、内側を歩けば、分かるものだ。
俺の勝手な予想ではあるのだが、やはりこの家、大きいだろう。
どれだけ大きいのかは……さすがに、そこまでは分からない。
そうだな、学校の体育館よりは大きいくらいか。自分で言って分かりにくい……たとえるのに失敗してしまった。
そんなことを考えられるということは、今はすごく余裕があるということなのだろう。
こんなものはただの独り言だ。頭の中で呟くようなもの。
しかし、今は一人ではなく二人でいるのだが、静玉は黙々と、トイレまでの道を案内してくれている。元々、無口な奴だと知ってはいるし、俺も無口な時は無口なので、この雰囲気に堪えられないというわけじゃない。
むしろ好むのかな。淡がうるさいから、こういう空間も俺にとっては貴重だ。
だが、俺は今、この沈黙で支配された心地良い空間を壊さなければいけない。
別に、今、絶対にやらなければいけないわけではないのだが、なんだか、勘とでも言うのだろうか――ここを逃せば二度とチャンスがこないような気がして、俺は退くに退けなくなってしまった。
聞くなら今、と直感が訴えている。
「なあ」
という一言を始点として、俺は言う。
「今日一日、お前と一緒にいればいいってことなのか?
それとも、なにかした方がいいのか?
いや別に、俺の力を越えないのなら、無茶ぶりでもできると思うぞ。
お前が遠慮してるなら、それはそれでいいけど……、
でもさ、この時くらいはわがままを言ってもいいんじゃないか?」
上から目線のような俺の言葉に、自分自身で少し吐き気を感じたが、俺の頭ではこの言葉しか出てこなかった。まったく使えない脳みそだな、と吐き捨てる。
すると、静玉が、ふふふ、と微かに笑って、笑ったというよりは、口元を少し動かした程度のものだったが――でも、それは笑っていると言ってもおかしくはないものだった。
「ふふ。せっかく勝利したのですし、そして今、こうしてあなたがわたしのお家にいるのですし……ここまで条件が整っていてなにもしない、なにもお願いしないというのも、変ですよね」
「別に、無理して出さなくてもいい――」
という俺の言葉は遮られ、
「そうですね、じゃあお願いしますよ」
と、お願いを聞かなくてはいけない状況になってしまった。
いや、完璧に自業自得だけども。言ったのだから、文句はないけどさあ。
「と言っても、うつが考えているわたしのお願いとなんら変わりなどないのですけど」
静玉がそう言った。ということはだ、結局、俺は静玉の傍に、今日一日、一緒にいればいいということなのだろうか。
それならばそれで、全然お安い御用さ、と言えるほどには嫌じゃない……だって楽だし。
という会話をしていると、気づけばトイレへ辿り着いていた。
忘れていたが、俺はトイレに行きたかったのだ。
しかし長かった道のせいか、今はあまり出そうにない。
……おいおい、引っ込んでしまったのかよ、尿意くん。
「じゃあ、きた道をそのまま戻ればさっきの部屋に辿り着くから」
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