玉鬘天狐神社

竜山藍音

スノードロップ

 魔術師の家系に生まれた人なら誰でも分かってくれると思うが、この界隈は女性に対する価値観がずいぶん遅れている。

 家を継ぐのは男の役目。女は家に入る。そんな固定観念が、未だに支配している。だから、娘を嫁に出す前に入れておく箱庭、というやつがまだ存在している。わたしの通う野分女学園もその一つだ。いや、寧ろその代表格といっていい。

 私立野分高等女学園。かの有名な(といっても魔術師に限った話だろうが)野分学園の系列校で、その名の通り女子校だ。教員まで含めて誰一人として男性はいない。一学年に三クラスしかなく、全校合わせても300人ちょっとしかいない。全寮制。教育指針としては芸術科目に重きを置いているということになっている。敷地はそこそこ広く、不思議なことに小さな神社と礼拝堂チャペルがある。主立った建物は十ほど。教室棟、及びそこに繋がっている教員棟と体育館、それから講堂、本部棟、部室棟、そして寮が三つ。櫻寮、楓寮、柊寮。わたし達一年生が使っているのは櫻寮だ。その他比較的小さな建物が三つほど。

 それ以外にも、いくつか特筆すべき特徴やら制度やらがあるが、時間が惜しいので取り敢えず割愛。必要なときにまた話そう。

 ここに通う人は、皆魔術師の娘だ。それも、それなり以上の家柄の。21世紀となったこの時代に、よくもまあ家柄重視なんて言っていられるものだと素直に感心する。勿論、わたしこと宿木やどりぎ優里ゆりもそういう家に生まれた子供であり、今はただ将来何かの役に立つようにと願いながら学校生活を送っている、ただの高校一年生で魔術師だ。

 そんなわたしの一日は、けたたましい目覚ましの音で始まる。

 どんな寝坊助も容赦なく叩き起こしてやるという明確な意志が感じられるその音は、わたしを起こすことには成功したが、我がルームメイトを起こすことにはいつものように失敗した。時刻は午前六時。

「ほんと有り得ない」

 この目覚ましを持ち込んだのは彼女、関屋せきや理沙りさだ。理沙が起きられるようにと導入した目覚ましで、毎朝わたしだけが起こされる。それがもう、入学以来約三週間続いているとなれば、文句の一つも言いたくなるというものだ。

「……起きてはいるんだよ」

 絞り出したような声が、理沙のベッドから漏れて来た。

「ベッドから出られないだけ」

「……じゃあ、わたしはもう食堂行くから」

 いつものことなので、わたしはちっとも気にしなかった。彼女がベッドでもぞもぞしている間にさっさと着替えているし、朝食へ向かう用意も出来ている。食堂は六時から開いている。

「いってら~」

 理沙は結局起きてこなかった。彼女はいつもこんなだから、朝食を食べることの方が少ない。

 食堂の人はまばらだった。まだ早い時間だからそれも当然だろう。一限が始まるのが八時二十分だからか、七時半くらいになると一気に込み始める。わたしは人が多いところが苦手なので、こうして早い時間に来るのが日課である。静かに食事が出来ることは、わたしにとって幸福だ。

 ただし、それが必ずしも叶うとは限らないのが、人生のつらいところ。

「ここ、空いてるかしら」

 わたしの前の席に何故か座ろうとする人から声をかけられた。実際空いている席だが、できれば他所へ行って欲しい。そう思いながら顔を上げると、そこにいたのは教員だった。

「……はい、空いてます」

 流石に、先生に嘘をつく度胸はない。特にこの人には。

「それじゃ失礼するわ」

 この、あからさまな女性言葉で話す人は音楽の先生だ。名前を橋姫はしひめ紫音しおんという。わたしのクラスの担任で、わたしの知る限りこの学校で一番の問題教師でもある。

 授業の内容が先生の趣味に偏っているのは、私立だということを考えればそんなものかもしれない。しかし、授業に来ないのは教師として失格ではなかろうか。他の先生方であれば、授業の開始時間には教室にいる。しかし、この人だけは違う。始まって十分経っても来ないことはざらにある。教員棟にある音楽科教員室まで呼びに行くと、大抵ヴァイオリンを弾いている。それ以外にも、何かを読んでいたり、或いは書いていたり……。そして、わたしは見たことがないが、肘掛け椅子の中で死んだようにぐったりとしていることもあるとか。他にも、授業中であってもパイプを咥えていたりする。美術科の教師の一人とデキているという噂もある。とはいえ、音楽教師らしく休み時間にピアノを弾いていたりもするので、変わったところばかりではないのだろう。実際、ピアノの腕は確かだし、ヴァイオリンも卓越した技術を持っているらしい。

 わたしは正直この先生が苦手だ。音楽選択なので週に二コマの授業があるが、できるだけ先生と顔を合わせないようにしている。特に目を合わせたくない。橋姫先生の特徴的な紫の目は、こちらの何もかもを見通してしまうような、不思議な感覚があるのだ。

 じゃあ何故そんな先生がここにいるかというと、わたしの母と従姉妹同士で、何かと目をかけてくれているからだろう。何か用事があるとこうしてわたしのもとへやってくる。今日は食事にかこつけているため食器トレイは持っていたが、食器の中は空だった。

「お母様から荷物が届いているのだけど、警備室で預かっているから、昼休みに来て頂戴」

 さっそく先生は小声で切り出した。人目を憚るように。

「警備室で預かってるって、なにか問題があったんですか?」

 通常であれば、何か生徒宛の荷物や手紙があったとすれば、寮に届けられる。寮監が預かって、その日のうちにそれぞれに渡してくれる。警備室で預かるという話は聞いたことがない。

「ええ、行けばわかるわ。くれぐれも一人で、誰にも言わずに来ること。いいわね?」

「はい、わかりました」

 わたしは頷き、橋姫先生はそれを見て、食器トレイを持ち上げた。もう用事は済んだということらしい。食事をしに来たわけではなく、あくまでもわたしに話すことがあるから来たのだ。そもそも空の食器で何を食べようというのか、という話だが。

 言い忘れていたが、この学校は先生方も皆魔術師だ。勿論、わたしの目の前で指を鳴らすとともにトレイを完全に消し去ったこの人も、高名な魔術師である。

 わたし達も魔術師だし、先生方も魔術師であるとなれば、なるほどここは魔術師の養成学校だったのかと思う人が殆どだろう。勿論そういう側面もある。しかし、ここは敢えて違うと言わせてもらいたい。冒頭で述べた通り、この世界は女性に対する考え方が一世紀以上遅れているのだ。だから、この学校の主たる使命は、わたし達を『魔術に理解のある良妻』に相応しい人物にすることだ。大抵の場合、生徒は卒業後にどこかの魔術師の家に嫁いでいく。ここは、その準備の場だ。

 勿論、今のところ私にその予定はない。しかし、まだ一年生の、しかも入学後一ヶ月も経っていない頃からそんな予定があったら嫌だ。三年間鬱になることは必定、下手をすれば卒業しないで済む方法を模索することになるかも知れない。

 何が一番嫌って、こういう魔術師社会を良しとしている男性のもとに嫁ぐことになるのが最悪なのだ。そういう人が力を持っているから、こうして何の改善もないままきているわけだから。その一助になんかなりたくない。冗談じゃない。

 まあ、そもそも男性に対する免疫がないというのもある。小学校からずっとこの系列校の、しかも女子校に入れられてきた。半ば隔離されるように。親の顔を見ることなど、年に二回しかない。お盆とお正月。それが、高校まで続いてきたのだ。男性とどう話していいのかさっぱりわからない。同年代の男子がどういう趣味嗜好をしているものなのかも想像がつかない。それ故、男性に苦手意識を持っているのも事実なのだ。

 いけない。つい朝から嫌なことを考えてしまった。

 わたしは少し急いで食事を済ませ、食堂を後にした。始業時間まではまだ一時間半もある。この時間に校内を散歩するのが、ここ最近の私の日課だ。この時間なら、敷地内であればどこを歩いていようが基本的にお咎めなしだ。

 広い敷地なので、ただ歩いているだけでも割と退屈しない。今日は気が向いたので、今までは地図で見るだけだった、本部棟の東側へ行ってみることにした。

 わたし達が寝起きする寮は、およそ長方形の敷地の、南西の端近くにある。そこから北へ行くと教員棟、更に北側に体育館、その東側に教室棟。体育館の西側には部室棟。教室棟の東に講堂。そして、そのまた東側にあるのが本部棟。その裏に正門。教室棟・教員棟・体育館・部室棟の四つは密接しているが、他の建物はそれぞれかなり離れている。

 今からわたしが行こうとしているのは、敷地の対角線にあるところだ。なにしろ遠いし、特に用事もなかったので、今まで一度も行ったことがない。地図だと、そこには神社と礼拝堂があるらしい。まあとにかく遠いので、見てみようと思っても、ぼんやりそれっぽいものが見えるだけで、詳しく見て取ることは出来ない。

 全体的に、この学校は設備が大きすぎるのだ。体育館はまあ、様々な競技のコートに加えてプールも入っているからそこそこ大きくなるのはわかるが……。教室棟も横に広い。代わりに階数が少ない。講堂も無駄に大きい。全校生徒を入れても、半分も埋まらない。

 などと言っても、所詮は学校の敷地である。多重に結界魔術で覆われているため外部からの干渉は一切受けず、どころか観測も出来ないような無茶苦茶学校だが、それでも土地には限度というものがある。実際歩いてみたら、本部棟に着くまでにかかった時間は五分程度だった。

 ここまで来れば、流石に見える。うん、神社。とても神社。決して大きくはないけど。

 どう見ても朱い鳥居。額には『玉鬘天狐神社』の文字。社殿の傍には狛犬、ならぬ狛狐。

「狛狐、とは普通言わないんだよね」

 後ろから、女性の声がした。

 はっとして振り返ると、そこにいたのはわたしと同世代くらいの女性だった。わたしより頭一つ大きいくらいか。白衣びゃくえと緋袴、つまりよくある巫女装束を纏っている。その顔は、これほど美しい人は見たことがない、と断言できるほど美しかった。

 肌は雪のように白く、透き通るよう。細められた目は宝石のように煌めく。背中にまで届くその長い髪は、黒く艶やかで絹のような質感を見せている。小ぶりで形の良い唇は仄かに桜色で、色白の顔によく映えるが、かといって目立ちすぎることもない見事なバランスを保っていた。

 これ以上は望むべくもない、完璧な風貌がそこにはあった。

「社に置かれる狛犬は、神域を守護するという目的があるもので、一方その狐は神使しんしと言って神の使い。同じように置かれていても、その意味合いは大分違う。同じように呼ぶのは好ましくないね。何より、狛犬は犬じゃない。あくまでも『狛犬』という名の存在であり、狛と犬とに分かれることはない。故に、狛狐という呼び方は有り得ないんだ」

 聞き覚えのある声、見覚えのある顔。わたしが見間違えるとも思えないが、一応訊いておいた方が確実だろう。

「えっ、あの、えっと、その、お名前をお伺いしてもよろしいですか?」

 めっっっちゃ変な声が出た。しかもしどろもどろ。しかしわたしは悪くない。今わたしの脳内は大混乱なのだ。

玉鬘たまかずら椿つばき。玉鬘本家の跡取り、と言えば分かりやすいかな? ここで家業の修行をしている。一応二年生だよ」

 玉鬘と言えば、日本にある魔術師の家系のうち最も高貴な家だ。本家の当主は綾女様から変わることもないので、当主代行が実質的な中心と言える。

 その中でも次期当主代行と目される椿さんはここ数代の中で最も優秀な魔術師で、その名と『神童』という呼び名を知らぬ者がいないほどの有名人だが、素顔は滅多に見せない。だが、顔を知らなくても皆の憧れの的である。ただし、わたしは他の人とは違う。

 勿論わたしにとっても憧れの方だ。違うというのはそういうことではなく、わたしはこの方の声も顔も知っていた、ということだ。

 数年前に玉鬘天狐神社——旧夏山神社——へ行った時のこと。恐らく分社であろうここではなく、夏山市にあるもっと大きい方だ。わたしはこの方に救われた。というのも、此の世のものではない何かがわたしに襲い掛かってきたのを、見事に撃退してくださったのだ。だからこその憧れであり、わたしが見間違えるはずがない理由である。

「で、何をしにこんな所へ? ここは数年間誰も見向きもしていないような寂びれ神社だけど」

 目の前の少女——今後は椿様と呼称することにする。憧れの人をさん付けでは気持ち的に済ませられない。尤も、この学校では、先輩のことを○○様と呼ぶのが慣例だ——が小首を傾げながら尋ねた。超人然としているのに、こういう動作にはしっかり高校生らしさがあるのが妙な感じだ。

「えっと、朝の散歩に。ついでに、この辺りはどうなってるのか見に」

「入学してからもう三週間になるっていうのに、今更どうなってるのかも何もないと思うんだけどね。まあいいや。折角だし、参拝して行ったら?」

「ご利益とか、あるんですか?」

「さあね。そもそも『ご利益』なんてものは人間側の都合で決まる。そして神は、自らを信ずる者の前にしか手を差し伸べられない。基督キリスト教じゃないけど『信じる者は救われる』だね」

 そういうものなのか。

 呆気に取られているうちに、椿様はわたしの横をスッと通り抜けて、朱色に塗られた鳥居をくぐっていった。右端を、一礼してから。

 わたしはその後に続いた。

「神というのは、かつてこの世を支配していた種族の総称だ。実体を持たないモノが多く、今ではただの概念に過ぎない彼等でも、自らを信ずる者がいれば、その者を援けるくらいの力は得られる。それが『ご利益』というものの正体なんだ。だから、ご利益があると評判だからといって適当に参拝するような人にはない」

 つと椿様は足を止めると、手水舎の裏へ回り、上品に屈み込んだ。

「ふむ。今年は随分と早く咲いたものだね」

 わたしもそちらへ向かうと、一本のアヤメの花を眺めていた。

 アヤメは本来五月に咲く花だ。椿様の言う通り、随分早い。

「綺麗な紫色……」

「紫は古来より高貴な色とされてきた。皇族やそれに連なる者のみが使用できたという時代もあるほどに。西洋においても、ローマ帝国の時代から高貴な者が身に着けていたという。一方で、紫という色が毒を連想するという人もいる。高貴な色で毒の色。ふふ、なかなか面白いとは思わないかい?」

 正直なところ、わたしはちっとも面白いとは思わなかった。椿様はそれに気付いたのかどうか、恐らく気付いていて無視したのだと思うが、何事もなかったかのように話を続けた。

「とある移動王国では、その音の繋がりからか『死』と関連付けられている。死は誰にでも訪れる故に低俗であるかもしれないけど、ある意味では、人生の終着点として高尚なものと言えるかもしれないね」

「死が高尚なもの、ですか?」

 とても高校生が言うことではない。思わず、よく考えずに聞き返してしまった。

「そう。けれど、それは人生を無為に送った者にとってはそうならないだろうね。そのような者の死には何の価値もない。低俗なそれだ。でも、人生を全うした者にとっては、死は新たな段階への一歩であり、生者には計り知れない世界へと至る道となる。それが高尚でなくて何だというのか、という話だよ」

 わお、宗教的死生観。

 何も言わないでいると、椿様はやや考えるようにしてから「芥川龍之介に」と続けた。

「『侏儒の言葉』という作品があって、その中に死について書いた項がある。曰く『我我は何かの拍子に死の魅力を感じたが最後、容易にその圏外に逃れることは出来ない。のみならず同心円をめぐるようにじりじり死の前へ歩み寄る』のだそうだ。死が如何に人の行き着くところとして魅力的かを言い表すに足る言葉だね。そして、その本にはこうも書いてあった。曰く『あらゆる神の属性中、最も神の為に同情するのは神には自殺の出来ないこと』だと。これには全く私も同感でね。この社に祀られている神もまた、死にたいと思っても死ねないということはきっとつらいことなんだと思うな。勿論、本人に聞いたことはないけどね」

 おっふ。なんだかめっちゃムズいこと言い始めた。芥川龍之介なんて、現代文の教科書でしか読んだことがない。

「神様って、死にたくなるものでしょうか?」

 深く考えるのが嫌になったので、最後の方についてだけ尋ねた。椿様はちょっと首を傾げ

「逆に訊くけど、君は死にたくなったことがある?」

 と言ってきた。

 そりゃ、生きていればそういうことはある。

「神もね、人とそう変わらないんだよ。ここに祀られてる神、つまり綾女様は死ねないから、時には死にたくなっても無理はないかもね」

「……どうして、死にたいって思うんでしょう」

「簡単なことだよ。生を諦めるからだ。生きて幸福を掴もうとする努力をしたくないからだ。ある意味では、究極の逃げだね。よく分かる」

 一つ上とは言え、同世代にこうもはっきり言われると、なんとなく情けない気持ちになる。

 そんなわたしの気持ちを意に介することもなく、椿様は言葉を続けた。もっとも、彼女はさっきからわたしに背を向けているので、気付くはずもない。

「メメント・モリ、死を想え。ふふ、よく言ったものだね。この言葉は元来生きるための指標だったようだけど、今では死に意識を向けることを促す言葉となっている。時代の流れって面白いものだよね」

 さて、と言って椿様は再びこちらを向いた。

「参拝の前にするような話ではなかったね。行っておいで。早くしないと授業が始まるよ」

 はっとして時計を見ると、時刻は七時半。妙に時間を使ってしまった。確かにそろそろお参りして戻らないと、授業の用意とか出来なくなる。

 きちんと御手水で心身を清める。左、右、口、もう一度左、そして柄杓。お賽銭を入れて鈴を鳴らす。五円玉があればよかったのだろうが、生憎手持ちには百円玉と一円玉しかない。ないものは仕方がないので百円を入れた。二拝。手を合わせてから右手を少し下にずらして二拍手。手を戻してお祈り。個人的で低俗なお願いはしない。そして一拝。

「ふうん、存外きちんとしてるんだね」

 まあ、わたしもこの国の魔術師の端くれだ。そのくらいはね。

「……」

 椿様からとても冷たい視線を浴びせられた。何かやらかしただろうか。

「まあ良いや。ほら、早く授業へ向かわないと。遅刻するよ」

「あ、はい。ありがとうございます!」

 椿様に礼を言って、わたしは神社を後にした。勿論出る時にも社殿に向かって一礼だ。

 大切なのは作法ではなくて心だと言われたことがあるが、作法だって心のうちだ。完璧にとはいかなくても、やれる限りきちんとしたい。

 朝から参拝というのも悪くないかもしれない。往復十分程度だが、いい気分転換になる。

 この散歩のおかげか、三限までは清々しく、気持ちよく受けることが出来た。

 そういえば、椿様は授業受けないのかな?


 さて、問題があったのは四限である。

 今日の四限の授業は音楽である。そう、あの橋姫先生の授業だ。

 ところが、先生は今日も音楽室に来ない。先週の二回もそうだったし、噂にも聞いているわたし達はちっとも動揺しなかった。けれど、先生を呼びに行ったクラスメイト二人は、戻ってくるまでに通常の倍、十分ほどの時間を要した。

 曰く、先生は教員室に居らず、警備室に用事があってそちらに行っているのだろう、と言われたらしい。代わりに、二人からやや遅れてやってきたのは美術科の総角あげまき明菜あきな先生だった。『音楽科教員室に誰もいなかった場合は総角女史の部屋へ行け』とは昨年来音楽クラスに受け継がれているお約束である。出欠だけ確認されて、休講という扱いになった。

 休講となると、何をしていても咎められることは基本ない。うるさくさえしなければ。教室にいなくても問題ない。

 わたしとしては、もう警備室に行っても気持ち的にはよかったのだが、一応来いと言われたのは昼休みなので、それまでどこかで時間を潰した方がいいだろう。取り敢えず一旦寮に戻り、食堂で昼食をとる。何しろ昼休みのそれにどれだけ時間がかかるかわからない。昼休み中に昼食をとれないと、午後の授業がキツイ。

 おおエネルギーよ。カレーライスは甘口だった。

 しかし、食堂が空いているということもあって、時間が余りまくってしまった。およそ三十分の余裕がある。そこで、わたしは再び神社へ向かった。警備室があるのは本部棟なので、とても近い。ギリギリまでゆっくりしていたとしても大して問題にはならないだろう。

「あ、今朝の。授業はどうしたの?」

 なんとまあ、椿様はまだいた。箒を手に境内を掃いていたが、わたしの来訪を認めると手を止め、箒を空中に現れた穴——魔術陣が一瞬だけ見えた——の向こう側に放り込んだ。

「それはお互い様なのでは……。わたしは休講になりましたけど」

「私が授業に出ないのはいつものことだよ。しかし休講かあ。この時間は何の授業?」

「音楽です」

「音楽が休講に? 今朝紫音を見かけた覚えはあるんだけどな」

 なんと教員を呼び捨てである。力関係が分からない。

「警備室に行ってるって言われました」

「警備室? すぐそこだね。そんなところに何をしに行ったんだろう」

「わたし宛ての荷物が警備室に届いているらしいですから、多分、それ関係だと思います」

「おや、荷物が警備室止まりになるなんて、よほどマズイ物が送られてきたとみえるね。何が送られてきたの?」

 そう言われても困る。わたしには分からないのだ。

「——いや、答えなくていい。充分だ」

 椿様はそういうと、今度は黙り込んでしまった。険しい顔をしているが、何を考えているのかはちっとも分からない。読心系の魔術は得意ではないし、敵対しているわけでもない人を相手に使うべきでもない。

 気まずい。沈黙が重い。

「ところで君、次の日曜日は空いてる?」

 急にそんなことを訊いてきた。今日は金曜日なので、明後日ということになる。

 この学校は全寮制だが、日曜日だけは外出することが出来る。ただし、寮監と担任から許可が出ればの話だが。

 わたしは今までの約三週間に一度も学校の外へ行こうとしなかったので詳しくは分からないのだが、伝え聞くところによると、許可はそう簡単には下りないらしい。お嬢様を悪い虫から守るための学校とも言えるところだから、無理もないかもしれない。

 ある種の隔離だ。

 それ故、わたしは彼女の問いにこう答えるしかなかった。

「空いてますけど、外出許可は出ないと思いますよ」

 わざわざ日曜日を指定するのだから、外出しようという気があるのは確かだろう。しかし、許可がなければ意味がない。

「許可なんて簡単に取れるよ。気にすることじゃない」

 うーん、簡単に言ってくれる。担任はまあわたしに甘いからいいとして(よくはない)、問題は寮監だ。我らが櫻寮の寮監は兎に角厳しいという。しかも、成績が優秀じゃないと外出許可を出さないとか。わたしはまあ、そんなに良い部類ではあるまい。勿論入学して三週間の現在までに自分の成績の程を知る術はないが、わたしの上にどれだけの凄い人がいるかは分かっている。

「大丈夫だって。授業も出てなくて、制服も着てない私が申請しても通るんだから」

 そう言われると、大丈夫な気がしてくるから不思議だ。冷静に考えると、玉鬘家の次期当主代行のやることに反対できる人はいないのだろうけど。

「納得できたのなら良し。今日のうちに出しておかないと手遅れになるから、それだけは忘れないようにしてね」

 そういうと、これ以上話すことはないとばかりに社務所に上がり、戸を閉めた。


 その後何分か黄昏たあと、四限終了のチャイムを聞いたわたしは警備室に急いだ。

 警備室は本部棟の一階にある小さな部屋だ。壁の二面がガラスになっていて、訪問者の応対が出来るようになっている。

 部屋の中央に置かれた机に、段ボール箱が乗っていた。サッカーボールくらいなら入るかなという大きさで、特に模様などはない。普通のどこにでもありそうな段ボールだ。

 その傍に、担任・橋姫紫音先生。机を挟んで反対側に、知らない女性。警備室勤務の職員だろう。

 わたしは一応ノックしてから入室した。

「大体時間通りね。じゃあ早速開けましょうか」

 橋姫先生は意外なことを言った。

「開けるんですか?」

「ええ、段ボールに魔術が仕掛けられていて、開けないことには中を確認できないのよ。そういうことをされている物を直接貴女に渡すわけにはいかないわ。こっちで確認しないと。でも、中身が何であるにせよ、本人の立ち会いなしで開けるわけにはいかないから」

「そのために呼ばれたんですか、わたし」

「そうよ。確認にかこつけて私達が妙なことしないかの確認ってところね」

 そんなことは疑ってないけどな。寧ろ中身の方が気になる。

 先生は「じゃあ開けるわよ」などと言いながら箱に手をかけた。蓋が僅かに開く。

 その時だ。わたしはガラスの砕ける音を右側で聞いた。同時に、頭の中で声が響いた。

『目を閉じよ。我が良いと言うまで決して開くな』

 椿様の声のように聞こえた。しかし今朝や先程のそれとは違い、もっと聞く者に絶対的な指示を与えるような凄みがあった。有無を言わせない、支配者の貫禄があった。

 何かを考えるよりも早く、わたしの目は閉じられていた。

 段ボールの裂ける音。何かが割れたような乾いた音。そしてまた声。今度は普通に耳を通して聞こえた。

「ちっ、思っていたより強い呪だな。……こんなところか。後は任せる。上手くやれ」

 その言葉を最後に、椿様の辺りにあった圧倒的なオーラが消え去った。

「もう良いよ」

 そう言われて目を開けると、椿様はわたしのすぐ前に立っていた。

 机の上の箱は、上面が取り除かれた段ボール箱が静かに置かれていた。

 椿様は橋姫先生の方を向いていたが、やがてこちらに向き直った。手に何かを持っているように見えたが、わたしにはそれが何であるかよく見えなかった。

「これが誰から届けられた荷物か、君は知ってる?」

「知ってますけど」

「……届いていた物を見てみな」

 正直なところ、見たくないというのが本心だった。明らかに、碌なものではない。だからといって、放置もしておけない。わたしは意を決して箱を覗き込んだ。

 そこに収められていたのは、ヒトのものと思われる頭蓋骨だった。緩衝材替わりか、白い花が詰められた箱の中に、髑髏が一つ。

「それには、目を合わせた者に対する死の呪いが込められていた。しかも相当強力なものが。まさか神気封じの面を破壊するとはね」

 椿様は、手に持っていた物を机に放った。それは白地に赤く隈取がされた狐面だったが、正中線で真っ二つに割れていた。

「呪い自体は封じておいたから問題はない。けど相当強い術だったから、かなりの恨みが籠もってるね」

 そう言って椿様は箱から頭骨を取り出した。そのまま様々な方向から眺めていたが、やがて満足したのか箱に再び収めた。

「見たところ成人かな。ふむ、鑑定しないと流石に誰のものかまでは分らないね。紫音、連盟にその手の専門家はいたっけ?」

「いるわよ。流石にね。鑑定結果は綾女さんに伝えておくわ」

「了解。あとは……こっちの花は何? 馴染みのない花だけど」

 橋姫先生が答える前に、わたしが割り込んだ。

「スノードロップ。ヒガンバナ科の植物です」

「ははん、じゃあこれが待雪草というやつか」

 椿様は所謂を強調して言った。恐らく、待雪草とスノードロップが厳密には別物だということを知っているのだろう。なのでわたしは肯定した。

 椿様は興味深そうにそれを眺めた。

 スノードロップは本来春の訪れを告げる花である。こんな時期に咲くものではない。しかし、わたしや母なら、そのくらいはどうにでもなる。

「ふむ、縁起の悪い花言葉でもあるの?」

 骸骨と一緒に送ってくるくらいだ。それくらいあってもおかしくはない。しかしこの花は少々特殊なのだ。

「いえ、スノードロップの花言葉は『慰め』とか『希望』ですから。でも——」

「——I want to see you dead」

 今度は先生が割り込んだ。

 因みに発音がめちゃくちゃ上手い。英語教師もやれるんじゃないかというほどだ。

「どういうこと?」

「スノードロップを送るというのは、西洋では『あなたが死んでいるのを見たい』という願いが込められているとされるんです。だから忌避されています」

「ははあ、なるほど」

 わたしの返事に対して、椿様はカラカラと笑った。しかしわたし的には笑い事ではない。

「じゃあ私は帰るから。紫音、後のことは任せたよ」

 椿様は入ってきたガラスの穴から軽やかに出て行った。その背後でガラスが元に戻っていく。

 橋姫先生は、その後ろ姿に向かって軽く頭を下げていた。

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