第一章:『剣の都』-①
1
巨大都市ヴェラトニカ。またの名を──《剣の都》
そこは研鑽の地。自分が次の主役だと信じて疑わない冒険者たちが集まる場所。
「う、わぁ」
僕の目に、その場所は別世界のように映った。
立派な建物が軒を連ねる大通り。見渡す限りの人垣に、多種多様な文化が窺える服装。
目に映るもの全てから「豊かさ」というものが滲み出ている気がする。
他にも、空に向かって突き出している尖塔、荘厳な雰囲気を纏う鐘楼、綺麗なアーチを描く水道橋と、初めて目にする建物に圧倒され、思わず後退ってしまいそうになる。
「……はっ!」
口を開けたまま大通りのど真ん中に突っ立っていた僕は、周囲からクスクスと笑われていることに気づいて歩き出した。異なる髪の色や肌の色を持つ多様な人種の人たちによってできている人の波に流されるようにして、足を前に進めていく。
同時に僕はバッグの中に手を突っ込んだ。
取り出すのは、ベルお姉さんから送られてきた《剣の都》の地図。その地図には一か所だけ印の刻まれている場所がある。
──【氷霊】のギルド
それは、世界でも屈指の冒険者たちが集う《剣の都》で最も有名な場所。
まず、ギルドとはいったい何なのか。その答えを一言で表すなら『宗教』だ。
世界には七二の精霊と七二のギルドが存在している。
冒険者たちは七二の精霊の中から一つだけ自分が信仰する精霊を選び、その精霊を信仰している『宗教』──つまりはギルドへと所属する。そして、冒険者として偉業を成し遂げることで、信仰している精霊の格──『序列』を押し上げるのだ。
信仰している精霊の序列が向上すると、依頼の量は増え、有望な新人も集まってくる。
つまり、精霊の序列が高いギルドほど、偉く、強く、凄いということ。
その序列の頂点に君臨している精霊というのが【氷霊】であり、その【氷霊】を信仰している冒険者の集まりというのが【氷霊】のギルドというわけだ。
地図を見る。うん、まさにその場所の上に印が刻まれている。
きっとそこにベルお姉さんはいる。そこで僕を待っている。
──【氷霊】のギルドに所属している冒険者の一人として。
僕は浮き立つような気持ちになりながら、一直線に伸びる大通りの先へと目を向けた。
──直後。
「なっ」
ゴォーン、ゴォーンと外壁上の大鐘楼が鳴り出した。
『…… ──────────────────────────────────』
割れんばかりの大歓声が《剣の都》を包み込んでいく。
濁流のように荒れる人の波。熱気で満たされる大通り。混ざり合う汗のニオイ。
身体がもみくちゃにされる。大量に荷を積んだ馬車、騎士が身に纏っている分厚い鋼の鎧、冒険者が腰に下げている剣の鞘、それらがぶつかり合うことで生じる鈍い音があちこちで上がる。
「ぐ、ぐぅ」
しゃがみ込もうとする身体を叱咤し、人の波を泳ぐ。
「凱旋だ! 【氷霊】のギルドが帰ってきたぞ!」「おいどけ、見えねえだろ!」「なんて勇ましい姿」「かっこいい!」「神々しい……」「やっぱり【
熱の籠った声が耳朶を叩いてくる。
だけど、その声に耳を傾けられるほどの余裕は今の僕にはなかった。
人を掻かき分けて歩くので精一杯。ただ休める場所だけを求めて進む。
『────────────────────────────────────』
しかし、そんな僕を邪魔するように人々の熱狂は加速してゆく。
ぼんやりと霞んでいく視界。ぐらぐらと揺れる足元。どんどん荒くなっていく息。
もうだめだ。立てない。いっそ座り込んでしまえ。
心がそう囁いたと同時に ──突然視界が開けた。
「っは、はあっ、はあっ」
人混みから解放された僕は、肺へと息をたっぷり送り込む。
膝に手をついて息を整える。
「はあっ、はっ……?」
そしてそんな中、僕は胸騒ぎを覚えていた。
段々と収まっていく歓声。やけに感じる視線。ガクガクと震える膝。
冷たい汗が背中を伝って落ちていく感覚に息を呑みながら、ゆっくりと顔を上げる。
「 ──っ」
そして、息が止まった。
道。大通りのど真ん中に一筋の道ができていたから。
大人も、子供も。男も、女も。人族も、獣人族も、長耳族も、
まるで……何かがそこを通り過ぎる瞬間に備えるように。
「ぁ、ぁ」
僕はその道の上で腰を抜かしていた。
人は経験したことのないような出来事に直面すると、動けなくなってしまうらしい。
頭が真っ白になって、何も考えられなくなってしまうらしい。
今の僕のように。
「あ、う」
訝しむような視線。不快感を露わにした視線。僅かな怒気を纏った視線。あらゆる感情を孕んだ幾百もの視線が、僕一人に殺到している。
僕はそれらに雁字搦めにされてしまっていた。
……そんな僕の元に、音が近づいてくる。
ザッザッと石畳を踏み締める音。ガチャガチャと鎧が擦れ合う音。
音源は僕の後方。それは確かに近づいてきている。大門の方向から、ゆっくりと。
僕に集まっていた視線は次第にその音源へと移っていく。だから僕も、釣られるようにそちらへと顔を向けた。へたり込んだ態勢のまま。
そして ──見た。
大門から伸びる一本の道の上を悠然と歩んでくるその一行を。視界の深奥から一直線にこちらへと向かってきているその一団を。蒼穹を背景にして高らかに掲げられているその旗を。氷を纏った乙女の紋章を。
こんな僕でも分かった。あの人たちは正真正銘、主役と呼ばれる類の人たちだと。
「ぁ」
聞いたことがある。確か ──凱旋道。
それは、冒険から帰ってきた主役たちを祝福する道。無事に凱旋した主役たちに歓声と称賛を浴びせるための道。これはきっとそれだ。
主役たちの凱旋を讃える儀式。それが今まさにこの場で行われているのだ。
そしてその道の真ん中で、僕は尻もちをついている。
「 ──」
ようやく今の状況に頭が追いついた。追いつくことができた。
そして追いついたことで、更に身体が動かなくなってしまった。固まってしまった。
退かなきゃ。足、動け。動け。動け。
……駄目だ、動かない。
早くこの道から退かないといけないのに、骨身に染み付いた臆病者の本能がそれを拒んでいる。手遅れだ。もう現実から目を逸らしてしまえ。現実から逃げだしてしまえ、と。
ザッ、ザッ、ザッ、と。主役たちの足音は止まらない。止まろうとしない。
「う、っ」
次第に膨れ上がってゆく僕に対する嫌悪の視線。押し寄せてくる負の感情の波。
それらに板挟みにされた僕の頭は ──真っ白になった。
「うッ ──おぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇええええええええええええええええええええええ」
限界に達する緊張。ギュッと縮み上がる胃。
僕は喉の奥からせり上がってきたソレを盛大にぶちまける。
栄光の道の上に、英雄が歩む道の上に……ぶちまけてしまった。
「ぇ、ぇ、っ」
びちゃびちゃ。音を立てて地面に広がる嘔吐物。凍りつく空気。
全てを吐き出した僕は、真っ青を通り越して白くなった顔をゆっくりと持ち上げた。通り雨にでも打たれたように全身が生ぬるい汗で濡れている。
視線の先には、僕の嘔吐物を目の前にして足を止める主役の一団。
「うわ……」
そしてどこからか上がったそんな声が、僕の顔を更に白く染め上げた。
僕はそのみっともない顔を隠すように、勢い良く頭を下げる。地面に這いつくばるような態勢になって石畳に額を擦すり付ける。
「ごっ、ごめんなさい! ごめんなさいっ、ごめんなさい……っ」
震える声で必死にそう口にした。何度も、何度も。
みっともない。情けない。不甲斐ない。惨めだ。滑稽だ。そんな言葉がぐちゃぐちゃに混ざり合い、僕の身体を呑み込もうとしてくる。
こんな場所に来てまで恥を晒して。臆病を晒して。
ああ、もう。いったい僕は ──何をしたいんだ。
向こう見ずな自分を呪う。馬鹿で平凡なくせに、行動すれば何かしらの道は開けるのだと、そう信じていた自分を呪う。
そうだ。僕はいつまで経っても、僕でしかいられないんだ。
それはあの村であろうと、この《剣の都》であろうと同じ。
こんな思いをするくらいなら、『端役』は『端役』らしく世界の隅っこで大人しくしておけばよかったんだ。
ベルお姉さんからの手紙を受け取ってからの自分の行動を顧み、叱責する。
そしてこの場から立ち去ろうと膝に力を込め ──
「あれ、なぁーんで前のほう止まってんのー?」
周囲の音全てを掻き分けて耳へと飛び込んできたその声に、僕は目を見開いた。
大きく跳ねた心臓が、懐かしさと温かさの波に呑み込まれる。
忘れられない。忘れられるはずがない。
それは ──ずっと再会を待ち望んでいた人の声。
僕はゆっくりと顔を上げ、正面へと視線を向ける。主役の一団を視界に捉える。
鋼のような筋肉を持つ人族の男性。この世のものとは思えないほどの美貌を持った長耳族の女性。刃物のような気配を放つ
哀れみ、好奇心、苛立ち。
あらゆる感情の色を瞳に浮かべている彼らを掻き分け、その人は僕の前に現れる。
「うーん? あらーなるほどね。先頭はこんなことになってたのか」
宝石のような紅色の瞳が僕の姿を捉えた。
少し蒼みがかった銀色の髪。芸術品のように整った顔立ち。芯が通っているのではないかと思えるほどにピンと伸びた背筋。そして、自信に満ちた太陽のような表情。
「大丈夫? 立てるかな?」
へたり込んだままの僕に差し伸べられる手。
その瞳には、哀れみも、好奇心も、苛立ちもない。ただ純粋な笑顔だけが浮かんでいた。
僕の手が嘔吐物で汚れていることなんてお構いなし。相手が誰だろうと、優しく引っ張り上げようとする。
ああ、間違いない。視線の先にいるのは、本物の ──
「べル、お姉さん」
ぽつり、と。思わず口から漏れ出してしまった声。呼び慣れた名前。
それを耳で拾った正面の人物は目を大きく見開く。そして「その呼び方は」と零しながらこちらを観察すると、
「もしかして、アイルちゃん?」
驚いた様子で、僕の名前を呼んだ。
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