苗字のないラキオス
(やっと…)
果てしないと思っていた洗濯作業に、ようやく終わりが見えてきた。
なんだかんだと子供たちも手伝ってくれて、ここに始めてきたころに比べ、みんなもずいぶん成長しているのだな、とマリベルは嬉しく思う。
(ここにいる皆は、どういう大人になったのかしら…)
前の時間軸のマリベルは、学校に入学するころから、ここの孤児院を避け始めた。
そのころはスラム街のボランティアに力を入れていたからだ。
ここの皆も大きくなってきていたし、自分の面倒は自分で見れるようになっていたから、心配も少なくなってきていたということもあるが、何よりも、このとうてい『聖人』とは思われないであろう姿を見せてしまっていたこの孤児院を、なんとなくではあるが避けるようになったのだ。
…どうしても避けることのできなかった人物、若干2名を除いて…。
「…仕事、手伝おうか…?」
そのうち、一名はこの少年。
目の下に深いクマを作り、寝ぐせをぴょこぴょこさせた、細長い少年、ラキオス。
今は苗字がない、ただの『ラキオス』
ゆくゆくは養子に入り、『ラキオス・ゴーヴィッシュ』となり、シャルルの義兄になる人物である。
「…もう終わるからいいわ。」
マリベルはそう断ったはずだが、ラキオスは隣に座り、洗濯物を洗い始めた。
「…アニー、よく寝てるね…。」
(相変わらず人の話聞かないわね…)
本当に幼いころから、何を考えているのかさっぱりわからない人物だ。
「メアリーが憔悴してたわよ。貴方が書斎に閉じこもって何も手伝わないから。」
「一週間くらい前に…君、広場を爆走してたの見たんだけど…何かあったの…?」
「べ、別に何もないけど?ねぇ、私と会話する気ある?」
「…あるよ。その本何?」
会話とはキャッチボールである。という言葉を教える前に、キャッチボールという言葉そのものを教えなければならない。
「…お父様がまた押し売りで買わされた本よ。私は読んだから、書斎にでも置こうかと思って。」
手伝う、と言っていたラキオスは、わずか一枚のシャツをも洗いきることなく、さっさかと手を拭いて本を手にした。
(本当、本好きよねぇ…)
いつもは無気力なラキオスだが、本に向かい合うときだけは目を輝かせる。
「…神獣、か、興味深いね…。」
「神獣、しってる?」
「うん、他の本で読んだよ。」
これまで世界で確認されている神獣は4体。
黒亀、赤鳥、白猫、青狼。
黒亀は、フィルドール王国建国時に、当時の王に力を貸したといわれる『平和の神』
今も代々のフィルドール王と契約し、王を守っている。
青狼、赤鳥、白猫は、黒亀のようにどこかの一族と契約を結んではいない。
100~200年に一度くらいの割合で、気に入った人間と、たまに契約を結び、その存在が確認されている程度である。
「自由の神赤鳥、美の神白猫、戦いの神青狼は、ここ100年は目撃されてないから、誰とも契約していないんだろうって話だよね。」
いつになくきびきびとしゃべるラキオスの話は、実にわかりやすく、おおむね正しい。
(青狼に関しては、これから13年後に目撃されることになるんだけどね…)
鋭い牙が、のどに食い込むあの感覚。
思い出すだけでぞっとする。
(どうして、私が…)
どうして神獣に殺されなければならなかったのか。
そもそも神獣そのものに恨みを買った覚えはない。
考えられることはただ一つ。青狼と契約した人間が、マリベルを殺すよう命じたから、だ。
しかし、前の世界戦でマリベルは『聖人』とまで言われた女性だ。
殺されるほどの恨みを買った覚えはない。
そう、たった一人、シャルル・ゴーヴィッシュを除けば。
自分の事を殺したいと思うほどに恨んでいる人物といえば、どう考えても断罪を言い渡した、『シャルル・ゴーヴィッシュ』しか思い浮かばない。
もしくは、その周辺。
シャルルのためになら何でもやらかす、アラン・ミルディや、シャルルの家族くらいだろう。
シャルル本人か、もしくはその周辺かが神獣青狼と契約を結び、マリベルを殺したのだ。
(家族、か…)
夢中になり本を読み進める、ラキオス。
彼もまた、もうすぐ養子になり、シャルルの『家族』になる。
(だからといって…私を殺すようなことはないわよね…?)
好かれてはなかったにせよ、殺されるほどまで嫌われてはいなかったはずだ。
「…何?」
視線に気づいたラキオスが、珍しく本から目を離す。
細めの鋭い目に、高い鼻筋。
ぼさぼさの頭と目の下のクマをどうにかすれば間違いなくイケメンなのだろうが、あまりにも自身の見た目を気にしなさすぎるせいで、貴族学園に入ってもまるでモテていなかった。
実にもったいない男である。
「ラキオスって…私の事、嫌いじゃないわよね?」
ド直球で聞いてみた。
「嫌いじゃないよ。むしろ好きだよ。」
ド直球で帰ってきた。
「好きなの!?」
「うん、好きだよ。」
「へぇー…」
(それは知らなかった)
貴族学園では、あの婚約破棄イベントまでまるで絡みはなく、マリベルがシャルルに虐められていても、助けてもくれなかった。
養子に入ってからはマリベルへの興味を失ったのだろうが、子供の頃は好かれていたらしい。少し嬉しい。
「いやいや、へぇって。」
マリベルの返答にラキオスは不満げにつぶやく。
「マリベル」
ラキオスの手が伸びて、マリベルの頬に触れる。
「泡、ついてる。」
たかがそれだけのこと。
たかがそれだけのことで、マリベルの胸は大きく跳ね上がった。
(子供の体だから、なのかしら…)
こんな些細なことに動揺する自分が信じられない。
「ねぇ、マリベル。俺さ、」
にゃああああああああ
そもそも小さなラキオスの声は大きな猫の鳴き声に打ち消される。
庭を散歩していたらしい白猫が、二人のそばで大きくあくびをすると、ぷいっと振り返って塀のそばの大きな木に飛び移っていった。
「白猫かぁ…」
「神獣かもね。」
「そんなわけないでしょ。」
ラキオスの言葉にふふん、と鼻で笑う。
神獣があれくらいの物ならば。青狼もあれくらいの物ならば。マリベルは死ぬことはなかった。
「で、何?ラキオス。」
「ん?」
「さっきの話、何?」
マリベルの問いに、ラキオスは視線を外へと向ける。
「…木登りしたいなぁって、思っただけ。」
「なにそれ。」
ラキオスの言葉に、白猫の登った大きな木がざざっとわずかに揺れた。
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