第66話

「お父様…」


しまったと思ったのは父を呼んでからだった。

誤魔化して逃げれば良かったのに。


「やっぱりエルなんだな…」


驚く父は私だと確信が持てるとすぐ泣きそうな顔をした。

それに比べて私はどうだろうか。

情けない事に身体の震えが止まらない。

あんなにも安心できた父に対して恐怖を抱き、全身が拒絶しているのだ。


「エル、久しぶりだな…」

「お久しぶりです」


声まで震える。

ゆっくりと近づいてくる父から反射的に距離を取ってしまうのは仕方のないことだ。

父だって距離を取られる理由を理解しているのだろう。眉を下げるだけで何も言わなかった。


「エル、私は…」

「やめてください!」


よろよろと手を伸ばしてくる父の言葉を遮り、叫ぶように言った。

どうせ謝罪の言葉だ。それくらい分かる。でも、それを聞かされたところで父を許す事は出来ない。

ふと甦るのは父に殴られた記憶だった。一度だけじゃない何度も何度も殴れたのだ。腫れ上がった頬は魔法で治す事ができた。それでも心の傷は消えない。

された事をなかった事にするのはできないのだ。


「エル、私の話を…」

「やめてくださいと言いました。私には貴方と話すことはありません」


自分の身を抱き、父を睨み付ける。

罰の悪そうな顔を向けられたところで私の気持ちは変わらない。


「わ、私はエルに戻っ…」


次に父の言葉を遮ったのはすぐ近くに落ちた雷の音だった。二人して驚いた表情を作ったのは今の雷が人為的に、魔法で起こされたものだったから。

一体誰がこんな事を…。


「エル!」


父とは別の人が私の名前を呼ぶ。

この数週間ですっかり聞き慣れた声だった。


「ジェド…」


焦ったように走ってきた人物の名前を呼ぶ。

ジェドの姿を見て安心してしまったのは彼が私の断罪に関わっていない人だったからだろう。


「エル、大丈夫か?」

「私は…」


大丈夫です、と言いたかった。でも言えなかった。

私の様子のおかしさに気が付いたのだろうジェドは私を庇うように立って父を睨み付けた。

その瞬間、雨が降り始める。


「君は誰だ?」

「貴方には関係ない事だ」


尋ねる父に対して冷たく突き離すジェド。父が怪訝な表情を浮かべたのは娘が見知らぬ男性に庇われたからだろう。

逃げたい。早く父から離れたい。

震える身体をさらに強く抱き締めた。


「エル、逃げるぞ」

「えっ?」


振り返ったジェドは私の腕を引いて走り始める。

おぼつかない足取りのせいかすぐに転びそうになってしまう。支えてくれたのはジェドだった。


「すまない、早かったか?」

「い、いえ…」


違う。足が震えて上手く動かないだけだ。


「……嫌だと思うが少しだけ我慢してくれ。文句なら後で聞くから」

「え、きゃっ…!」


それだけ言うとジェドは私を横抱きにして走り始めた。下ろして貰おうと思ったのに彼の向こう側には走ってくる父の姿が見えて身体が竦む。


「エル、待ちなさい!頼む!待ってくれ!」


もう父の姿を見たくない。声も聞きたくない。

何かに縋りたくて私を抱っこするジェドにしがみ付いた。

次第に遠くなっていく父の声に安堵した。

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