現代病床雨月物語 第四十六話 「民とマリア観音(その七)(後編)」
秋山 雪舟
第四十六話 マリア信仰なきキリスト教(後編)
一六一五年(慶長二〇年)「大坂夏の陣」で豊臣家を滅ぼした徳川家康は、翌年(一六一六年・元和二年)七十五歳でこの世を去りました。家康と同盟を結んだ新教徒・プロテスタントのカルヴァン派は旧教徒・カトリックとの闘いに勝ったわけではありませんでした。徳川幕府は、「大坂夏の陣」以前の一六一二年と一六一三年の二度にわたりキリスト教の禁教令を出していました。始めは徳川直轄領で出し、続いて全国にも禁教令を出して弾圧を強めて行きました。しかし「大坂夏の陣」の後でさえ多くのカトリック教徒が存在したのです。民衆に受け入れられた信仰とは「戦の一勝一敗」で直ちに変わることなどないのです。のちの世の明治政府が一八六八年(慶応四年)に「神仏判然令」で神道を仏教から独立させました。全国では一時的に廃仏棄釈が吹き荒れましたが今も仏教が存在していることからもうかがい知ることが出来ます。カトリック教徒は、徳川幕府の弾圧が強化される中においても信仰を表向きは棄教に見せかけ巧みに仏教的にカモフラージュさせて多くの寺を建立しました。
現在私たちがよく知っているザビエル像(神戸市立博物館所蔵)は、一九二〇年に大阪府茨木市千提寺の民家で発見されたのです。千提寺は忍頂寺に隣接した地域であります。どちらも地名の最後に「寺」がついています。またJR西日本の学研都市線の住道(すみのどう)駅の由来のひとつとして「住道(すみのどう)」はこの地区の「角(隅)にキリスト教の建物」があったことから仏教的に角(隅)のお堂になり「住道(すみのどう)」という名前が付けられたと言われています。(諸説ありますが)この様に徳川幕府の弾圧をかわすために仏教的にカモフラージュしたのです。
「大坂夏の陣」一六一五から「島原の乱」一六三八年までの欧州の状況は一六一八年に「三十年戦争」が始まり一六四八年のウェストファリア条約により終結します。ですが「島原の乱」一六三八年ではまだ決着がつかない戦争状態の真只中であります。【「三十年戦争」とは、宗教改革後、独のプロテスタント・カトリック両教徒の争いに諸国が干渉して起こった戦争。末期はハプスブルク家・ブルボン朝その他の諸国の権力闘争に転移した。ボヘミアのプロテスタントの反乱を契機に勃発。デンマーク(クリスティアン4世)・スウェーデン(グスタフ=アドルフ)・仏がプロテスタント側に、スペインがカトリック側に味方してそれぞれ侵入、独は窮地に立った。ウェストファリア条約によって終結。オランダとスイスは独立。独のプロテスタント・カトリック両教徒はともに同一の権利を得た。独の国土を荒廃させ、その近代化をさまたげた。(新制版・世界史事典より)】
一六一五から一六三八年までの欧州・プロテスタント・カトリック両教徒の海戦は、一六二四年ポルトガルはインド洋の海洋覇権の奪回に努力を傾けはじめた。これを知った英国とオランダは共同して対抗することになった。こうしてペルシャ湾とアラビア海で決着がつかない海上戦が断続的に起きることになる。一方フランスは一六二六年に西アフリカのセネガル河口に海軍基地サンルイを建設し、さらに東アフリカのマダガスカルにも基地を造る。これに対して一六三一年、ポルトガルはベンガルの海賊を支援し、ポルトガル船を除くあらゆる国の船舶を襲撃するように奨励した。国内騒乱を持ち込むポルトガルに対してムガール帝国は戦争をはじめ、ガンジス河とブラーマプトラ河の中にあるポルトガルの要塞を攻略し、翌年ポルトガル兵士全員を処刑した。【「三千年の海戦史(上)・松村劭(つとむ)(中央公論新社・2010年初版)より】このように欧州は混沌とした戦いを続けていました。
「大坂夏の陣」から約二十年後の一六三八年の「島原の乱」は徳川幕府によるキリシタン弾圧の象徴的な出来事でした。現在では「乱」ではなく「一揆」であったことが判明されています。島原は松倉藩の領地でした。松倉藩の過重なる年貢の徴収が一揆の引き金になりました。年貢の負担に耐えかねた領民たちが代官を殺し、一揆の火の手が上がりました。
戦いは一六三七年から始まり徳川幕府軍の総司令官の板倉重昌が総攻撃中に討ち死にしたため一六三八年から「知恵伊豆」として有名な老中の松平伊豆守信綱が徳川幕府軍の指揮を取りました。徳川家の威信にかけて絶対に負けられない幕府軍はオランダ(蘭)と中国の明に協力を依頼して海上から原城に向け艦砲射撃をさせなんとか二月末に勝利することが出来ました。天草四郎ほか四千人の首が長崎に運ばれ晒し首にされました。この戦いで動員された幕府軍は十二万人余りであり、死傷者は一万二千人であり、これほどの死傷者数は明治維新までありません。
「島原の乱」以降、幕府のキリシタンは秩序を乱す邪教というイメージを強力に民衆に刷り込んでいくのです。これは時が違えども戦時中の民主派を「赤」、「国賊・非国民」と呼んだ軍部と同じであり、戦後GHQによって戦犯を減刑されて日本の指導的な政治勢力となった政治家たちが学生運動を「赤・過激派」と呼んで民衆を黙らせ民主主義の停滞・後退をさせた手法と根は同じだと思っています。
また忘れてはならないのが、この幕府の方針を支えたのがその当時、多くの信者がキリシタンに改宗された既存の仏教勢力でした。彼らは幕府や藩に協力して幕藩体制を強固にしていくのです。これも戦前・戦中の日本と同じです。
この「島原一揆(島原の乱)」から約二百三十年後の一八六三年にオランダ(蘭)は再び幕末の長州藩に米・仏・英との四ヶ国連合艦隊を組んで下関(当時は馬関)を砲撃します。しかしその時の砲撃は結果的には幕府の終焉を早める事になりました。歴史とは不思議な因果で彩られているように感じて仕方がありません。現在全世界的なコロナ禍でありますが再び歴史的な不思議な因果が現れるのでしょうか。
現代病床雨月物語 第四十六話 「民とマリア観音(その七)(後編)」 秋山 雪舟 @kaku2018
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます