第2話
「お邪魔しまーす」
秋葉原駅から徒歩20分ほどのアパートの扉を開くと相変わらず無骨なブーツ一足とサンダルしか置いていない割に足の踏み場もない玄関。
傍らの狭いキッチンスペースにワンカップの空き瓶が無限に増殖を続けている様には思わず顔をしかめてしまう。
1Kの部屋をこの一週間足らずでどうしてここまで汚せるのか。紺はいつも不思議に思う。
だが、キッチンの流し台を見ると自分が用意したおかずが入っていたタッパーは空になっていた。綺麗に残さず食べている様子に軽く満足感を覚え、紺は自然と頬が緩むのを感じた。
緩んだ表情筋を両手で戻しながら居間の扉軽くノックしてから開くと、当の本人は寝息を立てながらベッドに仰向けに寝ていた。
その余りに無防備な様を見てため息をつく。日曜日には来ると分かっているのだからもう少しくらい意識してくれていてもいいように思った。紺は不満だった。
「…ひなたさーん?」
名前を呼び頬を軽く突くとううん…と不快そうに眉をしかめて毛繕いをするように顔をかいた。犬か猫みたいだ。
興が乗った紺はしばらくひなたの頬を突いたりつねったりしていた。その度にひなたはうーんうーんとうなり精一杯身体を捻ったりしていたが一向に起きる素振りはない。
「ひなたさん、どんな夢を見てるんですかー?」
くすくすと笑いながら悪戯を続けていたが唐突に紺はがしと手首辺りを掴まれ、ヒッ!?と喉の奥から悲鳴にならない声が上がった。肩から引っこ抜かれるような力でベッドの上に引っ張り上げられたかと思うとそのまま抱き着かれた。
「ひゃあっ!?」
ひなたは紺の胸の辺りに頭を埋めた。これでは完全に抱き枕だ。
「ちょっ…!?ひなたさん!?ひなたさん!!??」
「うーん」
ひなたに一向に起きる素振りはない。
「ひなたさ…うきゃあああ!?」
そうこうしているとシャツの合間から指を差し込まれた。こそばゆい、くすぐったい感触に背筋が震える。
この人本当に眠ってるの?!
いや、そういうことを全く期待していなかったといえばうそになるかも知れない…だ、だけど…っていやいやそういうことではないだろ!?
「お……起きろーーー!!!」
「へぶぅし!?」
紺はひなたの顔を力任せに押しのけるとその頬に全力のビンタをお見舞いした。
・ ・ ・
「…」
「…」
さっきから二人は狭い座卓に向かい合わせで黙々とご飯を食べていた。ひなたは紺の不機嫌さの理由が思い当たらず、せめてもの反省を示そうと先ほどから慣れない正座などをしていた。
「あの…なんでビンタされたの私?」
「いいから黙って食べてください!」
「う、うん…?」
ひなたは若干困惑しながらも黙々と箸を動かすのを再開した。
ひなたは普段から偏食だ。ろくな調理器具も揃えてないのに大きな塊肉を買ってきては味付けもしないで食べたり、何日も米と漬物だけで済ませようとしたり。自炊が面倒な時は晩酌とつまみだけで栄養を摂取したつもりでいたりもする。
紺がちらりと観察すると、ちゃんと副菜や汁物にもバランスよく箸を運んでいるようで一先ずよし、と思う。
そんな朝餉の沈黙の最中、突然玄関のチャイムが鳴った。
誰だろう?そう思い紺は席を立とうとしたがひなたに「あ、いいからいいから」と手で制された。
ひなたが廊下を歩いてゆき玄関を開けるとそこに居たのは背の小さい女だった。
「御機嫌よう、ひなた様」
折り目正しい和服におかっぱ頭は一見して成長した座敷童のようであり、このアパートには驚くほどミスマッチだった。
「玉ちゃん?今日は随分早かったね」
「ええ、あらあら?ひなた様の部屋に先客がいらっしゃるとは珍しいですね。お邪魔でしたか?」
紺はその座敷童の言葉に若干のマウンティングの気配を感じ、むっとした。
「ああ?近くの神社の神主さんの女子高校生の娘さんの稲荷紺ちゃん。最近よくご飯作りに来てくれてるんだ」
「あらあら…そんな年端もいかない可愛らしいJKを自宅で侍らせているなんて…ひなた様も隅に置けませんわ?」
「もうちょっとマシな言い方ないかな?!」
その時紺は玉と呼ばれた女が部屋を覗き込んできた目と視線が合った。その口元に浮かべられた笑みがまるで勝ち誇っているように見えて紺は嫌な印象を感じた。
座敷童は紺に目を見やりながらそっとひなたの耳に口を近づける。
「ちょっ…!?何してるんですか…!?」
女はなにかをひなたに耳打ちしているようだった。しかしひなたはそんな風にされても特に嫌がる素振りも見せない。その様子を見て益々紺は苛立ちを感じた。
「…ふふ…それではひなた様、御機嫌よう」
玉と呼ばれた女はそう言うと軽く会釈をして玄関の扉をそっと閉じた。
「ごめんごめん紺ちゃん、ご飯冷めちゃったかな」
「ふーん…上手いこと修羅場回避…ですか…?」
ひなたが見るとすでにご飯を食べ終わった紺は流し場に食器を片付けながら、へー、ふーん、どうせ私なんてライバルですら…などぶつぶつと呟いているのが聞こえた。
「…な、何言ってるの…紺ちゃん?」
「神崎さんはああいう人が好みなんですね?」
「一体何を言ってるの!?」
・ ・ ・
「はい」
そう淡泊に言うと紺がばらりと机の上に並べたのは、就職情報誌の数々だった。
「いや……はい、って………」
「今日こそはまともな職探しをしてもらいますよ」
「職…?」
見る見るうちにひなたの顔色が青く強張っていく。
「い、いやほら…だ、だって最近は近所の子に剣道道場だってやってるし充分に“社会”やれてるし…Twitterとネトゲだってやってるから人とのコミュニケーションはちゃんととれてるし…」
「ひなたさん、高校生である私が聞いて居たたまれなくなる類の言い訳はやめましょうか?」
「…ウ゛ッッッッ…」
ひなたはそう言うと口に手を当てた。
「なんですかそれ?そうやって『吐血』とか言いたいんですか?そんな
「ぎ、ギャアーー!!!?て、手心ーーー!?」
ひなたは正座のまま頭を抱えた。
「ひなたさん、ひなたさんのやってる子供たちとの剣道道場だって私は反対なんかしてませんよ?でもそれって仕事じゃなくてただの“ボランティア活動”ですよね?」
「…ボラ…ン…ティア…ちが…あれは…立派な地域…かつ…ど…ゼエゼエゼエゼエ…」
ひなたの顔色が徐々に紫色になり、過呼吸症候群の兆候が見られたが、紺は気にせず続けた。
「ボランティア活動、いいと思いますよ?でもそれを適当な自己正当化の手段にし始めるのは社会不適合者フェーズでいうとレベル8です」
「な、なにその社会不適合者フェーズって…?」
「6でやや手遅れになり、10で完全な社会的“死”を迎えます」
「そんなに崖っぷちなの私!?」
「自分で分かってなかったんですか!?自覚なしということは…もうプラス1せざるを…」
「フェーズ9ってもはや臨死じゃん!?無理ゲーじゃん!?」
「そうですよ!無理ゲーですよ!第一女子高生に介護されてる時点でもう既に色々とアレなことを自覚してくださいよ!?」
「介護だったの!?これ介護なの!?でも言われてみれば確かにそうだな!!!!?」
と、スマートフォンの呼び出し音が鳴った。ひなたは無言でそれに出る。
「はい…もしもし」
ボソボソとした通話音。簡潔な言葉のやりとりだけで内容は分からなかったが、背中越しでも表情が変わったのが紺には分かった。ものの15秒ほどで通話は終わり、ひなたはまるで紺から隠すようにスマートフォンのディスプレイを手早くオフした。
「…誰からですか?」
「ごめん…ちょっと用事ができちゃった…すぐに行かないと」
ああ…まただ…
また壁を張られる。
振り返ったひなたの表情を見て紺は胸の奥に得体の知れない切なさと不安が否応なしに広がるのを感じた。
「…またですか」
「…」
「はぁ…どうせまた何を言っても“話せない”って言うんですよね?」
「…ごめん」
「いいですよ……別に……勝手にしてください」
ひなたは申し訳なさそうな笑みを浮かべ、紺の頭をそっとすれ違いざまに一撫ですると、壁に掛けられている黒く細長いバッグを肩に担いだ。
「…ひなたさんっ…!」
その時、言おうとした言葉は…“行かないで”?
違う…でもせめて今度こそ説明だけでもして欲しい。そうしなければ、あの背中はどんどん遠くなって消えてしまうんじゃないか。そんな不穏なものを、紺は何故だかいつも感じるのだった。
ひなたは思い詰め黙りこくる紺を不思議そうな顔で見つめたあと、ふっと大切な何かを愛おしむように微笑んで見せた。
こんな時にそんな表情を見せるなんて…この人は…本当に…。
「…紺ちゃん、鍵はポストに入れてといていいから!遅くなると親御さん心配するから早く帰るんだよ!」
ひなたは急ぎ足で玄関のブーツに足を突っ込むとさっさと扉から出て行ってしまった。
「…また…子供扱いして…」
紺は急にひなたがいなくなった部屋の心細さに不意に涙を零しそうになったが、奥歯を噛み締めてぐっとこらえた。
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