第12回

 公家たちは、「ただの料理」ではなく、もう一つ条件を付けていた。

 それは「卵料理」である。

 最初に近藤が“たまごふわふわ”と言った以上、それを上回る、同じく卵料理を要求したのだ。

「卵って高いんですね」

 賄い場にて、卵の入った籠を前に、泉と土方がいる。

「おう、普段食いはできねぇな。贈り物でもらった時や、病気の時に精をつけるため食うのが普通だ」

 卵は物価の優等生――などと、よく評される。

 しかしそれは、卵はいつの時代も安く手に入るものだった、という意味ではない。

 むしろ、時代によってはその逆である。

 卵の価格は、現代ではおおよそ一つ二〇円くらいであろう。

 その価格が、一〇年、二〇年、三〇年も前もほぼ同じなのだ。

 したがって、この時代の卵は、大変高級な食材になる。

 基本的に、物価というのは、徐々に上昇するものである。

 物価の優等生とは、価格がどの時代も変わらないという意味なのだ。

 ちなみに、この時代よりもさらに後の明治大正の頃までは、卵は布のクッションの上に置かれ、一つ一つ木箱に入れて陳列されていた。

「とはいえ、近藤さんの命には替えられねぇ。ついえのことは気にすんな」

「はいはい」

 さっそく、試しとばかりに「公家たちを納得させる」卵料理の制作に入る。

 材料は、砂糖と卵、そして牛乳。

「まず砂糖を小鍋に入れ、少量の水とともに煮立たせ」

 飴状になったそれを湯呑み茶碗程度の器に入れる。

「次に、卵と砂糖をよく混ぜ、温めた牛乳と混ぜる」

 この際、泡立てないようにするのがポイントである。

「そして、し器を使ってなめらかにしつつ、器の中に入れる」

 最後に、蒸し器の中に入れて、一〇分程蒸す。

「あとは、よく冷やす」

 幸い時期が冬なので、冷水には事欠かない。

「冷めたら器から出して、できあがりです」

「意外と……単純な作りなんだな」

「卵料理は、卵の味を活かさなきゃいけません。卵自体の味わいは淡白なんで、あれこれ加えないほうがいいんですよ」

「なるほどな、小手先を弄ずるより、持ち味を活かす……か。たしかに、弱いやつほど小技に逃げるもんだ」

「そういう感想にもっていくんですね」

 土方らしい返しに、泉は苦笑いしつつ続ける。

「出来上がったら試食してください。多分これで大丈夫ですよ」

「そうか………」

 冷えるまでの間、微妙に、時間を持て余す二人。

 厨房には、他に人はいない。

「オマエの言っていることも、わかる」

 そんな場だからだろうか、土方が、自身の感情を吐露し始める。

「オレが言い返さず、あのまま近藤さんが笑いモンになってたら、多分、それで済んだのかもしれねぇ」

 互いに体面がある、と言っても、方や京の都の公家衆、方や百姓上がりに田舎侍である。

「田舎侍が公家にからかわれた」――その程度で済む話だったかも知れない。

「でもなぁ……やっぱ、見てらんなかったんだよ。オレたちの大将が、バカにされんのをよ」

 土方は武家の生まれではない。

 豪農とは言え、百姓の生まれであり、彼自身、泉くらいの年頃の時分は薬売りの行商をしていた。

 日々剣の修業に励み、やりあったならばそこらの侍など蹴散らせる力をもっていても、当時の彼はただ、なにもできない日々を生きていた。

「あの人が、オレたちを……オレをサムライにしてくれたんだ。その人を、ほっとけなかった」

 そこまで言うと、土方は無言になる。

 泉もなにも言わない。

 再び静寂が支配する。


「そろそろ、いいかな」

 冷水に付けて冷やしていた、「卵料理」を、泉は取り出す。

 竹串を使って端に隙間を作り、それを皿に盛る。

「最初っから、そう言ってくれればいいのに」

「ん?」

「大切な友だちのために、力貸してくれって……そういうことでしょ?」

 そして、それを土方に突き出す。

「まぁ……そういうことかな」

 一瞬、気の抜けたような顔になると、土方は苦笑いをする。

 新選組だの局長だの副長だの、武士の体面だの幕府がどうの、そんな“些細なこと”ではない。

 至極単純に、“友だちを助けたかった”のだ。

「で……これが、公家どもを驚かせる、卵料理か?」

「はい、“プリン”です」

「ぷりん?」

 皿の上に盛られたのは、上にカラメルソースが載った、卵色をしたプリンであった。

「どうぞ、匙ですくって食べてください」

「ふむ……」

 言われたとおり、ふるふると揺れるプリンを、土方はひとすくいし、口に入れる。

 直後――――

「くっはぁっ!!」

 ひと吠えし、その場に膝をつく。

「そのリアクション、久々に見たなぁ」

 予想通りの反応を示してくれたことを、泉はちょっとおもしろがっていた。

「な、なんだこりゃあ……口の中でとろけやがったぞ!」

「満足いただけたようでなによりです」

「いやぁ……舌触りもそうだが、のどごしもたまらねぇ、しかもこの妙なる味わい、公家どももこんなモノは食ったことねぇだろ」

 プリン――正確にはプディング。

 その誕生は、一六世紀の大航海時代の頃と言われている。

材料が制限される船上において編み出され、そのため本来は、肉や野菜を卵で固めた蒸し料理のことを指す。

「あとは、これを公家の人たちのところに、作りに行けばいいんですね」

「ああ、三日後だ」

 これで問題は解決、その場にいる隊士の誰もがそう思ったことだろう。

(ま、これでいいだろ……)

 泉自身も、そう心の中で思った。

 ――その瞬間、例の声が頭の中に聞こえてきた。


「俺は今まで、多くのヤツを見てきた。高い才能と、高度な技術と、稀有な能力を持つヤツら……そんな連中が、腐る時は、どいつも同じ言葉を口にした」


「それはな……“これでいい”だ。自分の仕事に限界を設けて、それ以上己を高めることを忘れちまったヤツは、みんな同じ言葉を口にした」


「そうなったヤツの仕事は、そこで終わる。後は腐り、地に落ちるだけだ」


「……………⁉」

 それは、思い出すだけで腹の立つ、しかし常にムカつくほどに正鵠を射る、父の声であった。

「土方さん……公家の人たちって、普段どんな暮らしをしているんでしょう……?」

「あン、そうだな……書だの絵画だの、唄だの踊りだの、そういう雅な日々を過ごしているんだろうよ」

「他には?」

「ああ……小唄だとか、長唄だとか、俳句に短歌に、あとは……華道や茶道に、そうそう……香道こうどうなんてのもあるな」

「香道!」

 香道とは、香木と呼ばれるものを焚き、その香りを楽しむ芸道である。

 高貴なる者たちにおいて「香り」は重要な文化であり、特に蘭奢待(ルビらんじゃたい)と呼ばれる香木は、宝物庫である正倉院に保管され、時の権力者たちに愛されてきた。

 千年以上に渡り洗練されてきた香道の文化は、精神性の追求にまで高められ、王朝文化の根幹に根付いている。

「そうだ……これじゃダメだ。このプリンじゃ足らない」

「なにが……足らねぇんだよ」

 真っ青になる泉に、さしもの土方も、わずかにうろたえる。

「こいつは立派なモンだろ。味は最高、口当たりものどごしもいい。文句のつけようがねぇぞ」

 味覚、触覚も十分。

「足りないんですよ、香りが」

 だが、嗅覚を刺激する要素が足りなかった。

 卵は、その淡白な味わい故に、香りが弱い。

 公家の文化において、「香り」は重要な要素を占める。

 卵料理で公家たちを圧倒するには、その「香り」が足りないのだ。

「香り付けか……どうすりゃいいんだ……?」

「それは……アレがあればいいんですが……」

 泉の頭に浮かんだ材料があった。

 アレを用いたならば、この事態を打破できる。

 しかし――

「ないんです……日本中探したって、絶対にない」

 その材料の調達は、たとえ現代であっても一筋縄でいくものではない。

 あったとしても、使用に適した形に加工する必要があり、それを作るには時間がかかりすぎる。 

 三日では不可能だ。

「いいから、言え」

 頭を抱える泉に、土方は強い声で言った。

「だから……この国にはないんですよ……」

「わからねぇだろ」

「でも……」

「日本中回って探したわけでもあるめぇ、探す前からあきらめんな」

「だけど……!」

 それでも、心が折れかけ、さらには膝まで突きかける泉を、土方は無理やり立たせる。

「いいから、言え」

 そしてもう一度、同じ言葉を告げる。



 一方その頃、京の市中の一角にある、貴族の邸宅――

「まったく、あの山ザルどもめ……これやから武家は嫌いなんですわ」

 先の話に出てきた宴にて、近藤を散々嘲笑した公家の一人である。

「まぁまぁまぁ……おかげで、思うた以上にオモロイ展開になりましたわ」

「岩倉卿……」

 公家の男の前にいたのは、岩倉具視であった。

「すんまへんなぁ、私の代わりに、いろいろやってもうて」

 この時期、岩倉は朝廷政治の中心から離れ、己の所領である、岩倉村に引きこもっていた。

 公武合体政策の支持者であり、皇室と将軍家の婚姻を推し進めた彼は、「幕府の飼い犬」と揶揄され、朝廷内の権力争いに敗れたのだ。

 ――というのが、歴史上の話。

 こうなるであろうことは、岩倉はとっくに予測していた。

 その上で、その状況を利用した。

 表舞台から離れ、裏側から手を回し、幕府以外の有力外様大名たちと秘密裏に接触を図る。

 そこには、西郷の薩摩や、多くの攘夷浪士を擁する長州、さらには土佐や加賀、肥前など、多岐にわたる。

「公武合体なんて言うてもな……結局は、幕府が帝の権威を利用しようとしとるだけや。そらアカン、あくまで、決定権を握るのはワテら朝廷でなかったらアカン」

 朝廷……公家勢力は、公武合体を支持しながらも、幕府の味方とは言い難かった。

 彼らは、黒船来航から始まった日本史上類を見ない混乱を利用し、武家勢力を適度に弱め、朝廷が政治的中心にならんと図っていたのだ。

「せやけど岩倉卿……あないなサルどもの群れにちょっかいかけて、幕府がゆらぎますやろか?」

 公家の男が、当時としては至極まっとうな疑問を口にした。

「そこにあるモン、食いなはれ」

 その疑問への返答として、岩倉は机の上を示す。

 そこにあったのは、湯飲み茶碗程度の器に入った、なにかであった。

「匙を使こうて、すくって食べなはれや」

「は、はぁ……?」

 言われたとおり、公家の男がそれを口に入れる。途端――

「こ、これは……なんという妙なる味わい……!?」

「それな、アンタさんが、サルども言うた連中が、三日後に出す予定であろうモンですわ」

「なんと!?」

 岩倉が供したのは、ほぼ同時刻に、泉が作っていたのと全く同じ、プリンであった。

「連中は、少なくともワテら公家を驚かせる程度の力は持ってますんや……まずいでっしゃろ、この都で、連中に大きな顔をされては」

「………………」

 公家の男は言葉を失う。

 岩倉の、たとえ相手が何者であろうとも警戒を緩めぬ姿勢だけではない。

 全てがこうなると見透かし、さらには公家衆ですら知らぬ料理をも、用意できるコネクションを有している。

 あらためて、妖怪とまで言われし男――その恐ろしさに、ふるえていた。

「アンタさんに食べさせたんは、わかっといてもらうためですわ」

 岩倉はほくそ笑みながら言う。

「どんなごちそうでも、同じモン出されたら、興ざめやからねぇ」

 それは、タネのバレた手品を見るようなもの。

 彼らが自信満々で挑んできたその鼻っ柱を、これでもかとへし折れる機会である。

「なぁ、サムライ言うんは……元はどういう意味か、知ってまっか?」

 岩倉の計画がうまく行けば、新選組はその面目を大いに潰す。

 さすがにケジメのためとしての近藤の切腹は、免れようとするだろう。

 それに付け込めば、彼らの大きな弱味を握ることができる。

 上手く行けば、その背後にいる会津中将松平容保にすら、付け入ることができるかも知れない。

「さぶらう……元は、公家の邸宅の警備を行うモンちゅう意味ですわ……連中には、自分たちがその程度のモンやいう、分をわきまえてもらいまひょ」

 言って、岩倉はケラケラと笑う。

 それは、底知れぬ沼のような笑顔であった。



 翌日――新選組は、通常任務にかかる者以外は総出で、泉の求めるアレの探索に走った。

「ダメっす、京の名のある商家へ総当りしましたが、そんなモン聞いたこともないそうです」

「洋人向けに商いしている連中にも聞き込みましたが、ダメでしたね」

 しかし、土方の部屋にて鍬次郎と沖田から受けた報告は、どれも暗いものだった。

「そうですか……」

 沈痛な表情の泉。

 自分で頼んでおいてなんだったが、幕末の京都で……いや、日本で手に入るものではないことは、彼女が一番分かっていた。

「あきらめんじゃねぇ! もう一度調べ直せ!」

 しかし、土方はなおもげきを飛ばす。

「とはいえ……どこを探せばいいかも、皆目見当がつかぬでゴザルよ」

 天井裏から現れた山崎。

 カレー騒動の時には大活躍した彼だが、その彼をもってしても“アレ”は知らなかった。

「なら、どこ探せばいいかの手がかりを探すところから始めやがれ!!」

「「「無茶苦茶だ⁉」」」

 土方に怒鳴りつけられ、三人揃って逃げるように退室した。

「すいません……その……」

「んなツラすんな」

 落ち込む泉に、土方はぶっきらぼうに言う。

「テメェはそんな柄じゃねぇだろ。気合い入れろ」

「はい……」

 それが、土方なりの励ましなのだろうと分かるものの、それでもやはり、気落ちせざるをえなかった。

「ボクも……探しに行ってきます。もしかして、代用品があるかもしれませんから」

 言うと、泉も部屋を出ていった。

「ふぅ……まいったなこりゃ」

「まいりましたね」

 誰もいないと思った部屋に、さらにもう一人の声が響く。

「斎藤か……帰ってたのか?」

「はいな」

 隠密任務から帰参した、斎藤一であった。

「なんだか、騒ぎが起こっていますね。大体の事情は聞きましたが」

「なら、テメェも手ェ貸してくれ」

 斎藤は、都の暗部に潜入しての情報収集を行っている。

 店には並んでいなくとも、一部貴族や大商人などが、個人で有している可能性もゼロではないからだ。

 彼女にとって、そういった類の調査は慣れたものであった。

「かまいませんが……そうなると、別の調査任務が後回しになりますね」

「事態が事態だ、やむを得ん」

「泉さんの入浴時間の調査という大切な任務だったんですが……」

「そんな任務は与えてねぇ⁉」

 この事態においてもマイペース極まりない斎藤に、土方はツッコむ。

「オマエなぁ……この状況でふざけて――」

「……………」

「なんで真剣な目ができんだよ……」

 濁ることない斎藤の誠心の眼を前に、土方は脱力する。

「とはいえ、新選組と近藤局長、さらには泉さんの一大事ですからね。私もできるだけのことはしましょう」

「頼む」

 やっとまじめな会話を終え、その場を去ろうとする斎藤。

 しかしふと、なにかを思い出したのか土方の方へ振り返る。

「ああ、中島さんから手紙が来てましたよ、ハイ」

 そう呟くと、小さな包をよこしてきた。

「あのオッサンか……悪いが今は、そっちにかかずらっているヒマはねぇな」

「今はどこにいるのやら」

「さぁ……ったく、なんかまた色々送りつけてきたな」

 手紙だけでなく、なにやら入っている包を、土方はそのまま棚の上に置いた。



そして、約束当日――前回と同じ邸宅にて、新選組は「公家たちを満足させる卵料理」を振る舞うこととなった。

「さて、どうしたもんですやろな」

 ほくそ笑む公家たち。

 彼らはすでに、岩倉より提供されたプリンを食した後である。

 この後、自慢気に新選組がプリンを持ってきたところで、大笑いする。

 そこまでのシナリオは組み上がっていた。

「お待たせいたしました」

 襖が開き、近藤と土方が現れる。

「こちらが、本日皆様にお出しする一品でございます」

 そして、膳に載せられた料理が、公家たちの前に並ぶ。

「ふふん、やはりか……」

 そこにあったのは、予想通り、プリンであった。

「どうぞ、お召し上がりください」

 公家たちは、まだ嘲りを顔に出さない。

 彼らのシナリオではこうだ。

 出されたプリンを口にし、それを褒め称える。

 近藤と土方が自慢げな顔をしたところで、「美味しいですなぁこのプリン」と言い放つ。

 自分たちが出したものが、既知のシロモノであったと分かり、彼らは絶望する――

「では、いただきまひょか」

 そのシナリオに則り、公家たちは膳に供されたプリンに匙を入れ、口に運ぶ。

 予想通りの味、予想通りの食感であった。

 美味くはあるが、二度目では驚きはない。

「美味しいですなぁ、この――」

 全てシナリオ通りに進んだ……と思ったその時、公家たちの顔に、戦慄が走った。

「ん――――!?」

 それは、口の中のプリンがほろほろと崩れた瞬間であった。

(なん………だっ!?)

 口内にあふれる、芳醇な香り――それが膨れ上がり、鼻腔に到り、鼻から抜けていく。

 その言いようもない心地よさは、天上の調べというにふさわしかった。

「は……は……は………」

 言葉を失う公家たち。

 彼らは、日の本の芸能文化を司る者を自負し、様々な芸事を修めている。

 書であり、絵画であり、和歌であり、短歌であり、楽器や歌、茶の湯に花、そして香りの「道」である、香道も修めている。

 だからこそわかる。

 わかってしまう。

 それが「とてつもなく高貴なる香り」だと。

「これは……たまらん………!」

 ついに耐えきれず、脱力した顔で、得も言われぬ快感に公家たちは言葉を漏らす。

 もはやシナリオは瓦解した。

 彼らは完全に、目の前のプリンに屈服したのだ。

「一体……これはなんなんや……こんな美しい“香り”、未だもって嗅いだことあれへん!」

 意地や体面すら放棄して、公家たちはこの謎の香りに魅了されていた。

「ええっと、ですな……ウチの賄い方が言うことにゃ」

 問われ、土方が説明する。

「それは、“ばにら”とやらの香りだそうです」

「ばにら?」

 バニラ――ラン科の花の一種。この場合、そこから抽出された香料のことを指す。

 現代においてはありふれたもの、と思われがちだが、さにあらず。

 バニラは大変希少な植物であり、そこから取れる香料の量も限られる。

 それは現代でも変わらず、市場にある「バニラ」と呼ばれるものの九九・九パーセント以上が、他の材料を用いて作られた「合成バニラ」なのだ。

 それすらも、製法が確立したのは、二〇世紀以降。

 この時代のバニラは、一部の国によって独占されており、欧米の国々でもなんとか手に入るというレベルで、それゆえに「日本では絶対に手に入らない」だったのだ。

「世界の海を支配したという、えげれすの女王すら愛好した香料だそうです。公家の皆様におかれましても、十分にご満足いただけるものかと」

「う、うう……」

 もはや、反論は不可能であった。 

 西洋の女王でさえも愛するという権威。

 なにより公家たち自身がその優美さに魅了されてしまったという事実。

 この二つの前に、もはや公家たちは、自らの立場を認めざるを得ない状態であった。

「ご満足いただけたようで、なにより!」

 土方の一言は、まさにこの戦の、勝どきに等しかった。


 その頃、邸宅の賄い場にて――

「いやぁ、ホント、世の中なにが起こるかわからない」

 目の前にある割れた小瓶を見つめながら、泉はつぶやく。

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