2 酒々井鏡
白昼堂々、いったい何をしているんだろう、僕は。
大学図書館前の広場には、水たまりが拡大したような規模の池がある。ぼうっとした表情の鯉が数匹泳いでいるが、昔は理学部の飼っていた亀が放し飼いにされていた、というような噂が流れていた。しかしそれが本当のことなのかどうか、その理学部の学生である彼にもわからない。もしかすると、今も鯉に紛れて、亀がのんびりと生活しているのかもしれない。
しかし彼の目当ては、亀ではなかった。彼が人気のない朝の時間帯に、池の近くでしゃがみこんでいるのにはわけがある。
カミソリを一度地面に置いて、酒々井は左腕の袖を捲くった。痛々しい、無数の赤く細い線。そして、それがふさがったものの、ぷくりと膨れあがっている傷跡。本数を数えなくても、彼は自分で腕を切った回数を覚えていた。
腕を池に突っ込む。深さはそれほどない。万が一落ちても、容易に脚がつくだろう。溺れるよりはむしろ、池が浅すぎて頭を底に打ちつける可能性の方が高そうだ。しかし池の周囲には、ロープなどで囲いが作られているわけでもない。夏休みになると、この池の上で手持ち花火をする学生が、一定数いる。おかげで、休み明けの後期の講義が始まる頃には、池が花火のゴミで埋まっているのが常だった。
そうでなくとも、広場の砂なり学生の出したゴミなりでいつも汚れているその池が、この日は透き通った色をしている。その理由を、酒々井は知っていた。そして彼は、これから汚れるだろう池のために、既に手を回している。
右手にカミソリを握り直して、鏡は息を吸い込む。目を瞑る。うっかり、命を落としてはならない。生きようという強い意志はなかったが、積極的に死のうとも思えなかった。
しかし彼の【悪癖】は、突如聞こえてきた間抜けな歌によって妨げられる。
むかし~むかし~浦島は~♪
助けた亀に連れられて~♪
竜宮城へ来てみれば~♪
友達100人できるかな~♪
音程がうまく取れていない。彼はところどころで――まるでバラエティ番組に出演する芸能人のようにずっこけた。
明るい歌声。まるで、小学校の低学年が歌っているかのような、軽快さ。目に映るもの全てを新鮮に感じる時代を生きる者。自分にもそんな時代があったことを、酒々井は思い出せなかった。
大学には、附属の小学校がある。そこに通う幼女が歌ったものだろうかと、酒々井は疑った。しかし、これだけ朝早い時間に小学生がウロウロしているのは、危険じゃなかろうか。そんなことも、同時に思う。
酒々井は、声のする方を振り向いた。霞がかった空気の向こう。ぼんやりとしていた輪郭が、だんだんとハッキリしてくる。
見えたのは、小学生と呼ぶにはやや大きな――しかし、幼さを残した、女性の姿だった。酒々井はすぐに、彼女が女子大生であろうことに気づく。見たことがないことから考えるに、理学部の学生ではなさそうだ。
女は彼に気づいていないようで「何か違う気がする……」などと、ぶつぶつ呟いていた。小さく唸りながら首を捻る。その動きに合わせて、黄色に近い金髪のくせ毛が揺れた。
「――違くない?」
酒々井は、ぼそりと呟く。その声に、女の方も気づいた。
「え?」
女は、突然霞みの向こうから現れた男に、驚いている。そして、彼女の歌が聞かれていたことにも気づき、赤面した。
「浦島は別に、友達欲しがってなくない?」
しかし酒々井の言葉で、彼女は自分の歌の欠陥にも気づくことができたので、ぱあっとその顔が明るく光る。太陽みたいだなと、彼は思った。
「そうだった! ありがとう! あ、はじめまして!」
立て続けに言葉を放つ女に、酒々井は少し圧倒される。自分が何をしにきたのかさえ、忘れかけていた。
「ああ、はじめまして……」
挨拶されたので、ぼんやりとしながら彼は挨拶を返す。やや奇天烈な彼女に対する驚きのせいもあったが、その不思議さに心奪われている側面の方が強かった。
「何をしているの?」
女の問いに、酒々井はやや視線を逸らしてから答える。
「……ご覧の通り」
「ご覧の通り?」
反復する女に、彼は右手のカミソリを少し持ち上げて見せた。それが何かわかった女は、驚いた顔をして駆け寄ろうとする。
しかし、酒々井の右手のカミソリは、彼の左腕の上を滑っていく。
「わあああああああ!?」
より足を速める女を尻目に、酒々井の腕からは鮮血が滴り、それが池の水を赤く染めていく。
「池が! 池が汚れちゃう!」
「そうだね」
慌てる女をよそに、冷静な表情で酒々井は血の池を眺める。
「そうだね、じゃないよぉ! 大学の敷地内で、よく白昼堂々リストカットできたね!」
女は、持っていたハンカチを彼の傷に当てて止血を試みるが、カミソリを持ったままの右手に遮られた。
「――きれいだと思わないかい?」
「え?」
彼の言葉に、女は困惑する。
「見てごらんよ。僕の体の中を流れる血を……」
絵の具を垂らしたように、血液の輪郭は池の中でぼやけていく。赤いリボンがほどけていくようにも見えるなと、女は感じた。
だが、しかし。
「えっ」
女は痛々しい光景を目の当たりにしたためか、ふっと気を失ってしまった。
「噓でしょ。どうしたの?」
女は返事をせず、地面に横たわっている。
「……えっと、僕のせい、かな。だよね、うん」
酒々井鏡は、自分に言い聞かせるようにそう言うと、さすがに女子大生が地面に寝転がっているのは問題だろうなと思った。どこか地面ではないところに横たえるべく、彼女の体を抱きかかえようとして、誰かに目撃されないかと不安になる。それからの彼は、しばらくそわそわと落ち着きのない様子であった。
(つづく)
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