嘘つきのいるサウナ

八木平治

第1話



「ぼうず、どっからきた」


 狭いサウナ室で、腰を丸めた老人が汗をだらだらと流しながら俺に言った。

 俺は顔の汗を手拭いで拭きながら答えた。


「ニカラグアです」

「……にらか」

「ニカラグア」

「にかぐりゃ」

「ニカラグアです」


 俺は壁の12分計を盗み見た。

 頭がぼんやりしてきた。

 皮膚の上で、汗が玉のようになりいくつも並んでいく。

 鼻から吸い込む空気は焼けるようで、このサウナ室には湿度が足りていないことがわかった。


「どこだそれ」

 老人はくちゃくちゃと口を動かした。


「アメリカのほうです」

「……おめぇガイジンかぁ、日本人とおもった」

「母が日本人なんです」

「ほうか」


 俺は知りもしないニカラグアの土地を想像しながら言った。

 ニカラグアという国が本当にアメリカ大陸にあるのか、そもそも何語を話すのかすら知らないが、俺はそこで高級車のディーラーとして働いていて、結構な給料をもらっていて、現地に妻と子がいて、今回は日本への出張中でたまたまこのスーパー銭湯に顔を出したことになった。


「ほうか。いい仕事だなぁ」

「ええ、おかげさまで」


 俺はあいまいに笑い、サウナ室を後にした。


 熱気から解放され肺いっぱいに空気を吸い込み、体の汗を流してから水風呂に入った。

 体がこわばり、肌が痛みを感じる。

 喉の奥から冷たい空気が昇ってきたあたりで水風呂を出て、体を拭き、長椅子に座り、ぼんやりと天井を眺めた。

 全身が心臓になってしまったように振動している。

 暑さも寒さも感じない。

 何もかもが遠くなっているようで、心地よさだけが全身を包んでいて現実感がなかった。

 体の動きが鈍っていて、指一本動かしたくなかった。

 思考だけがクリアだ。

 さっきの会話がぐるぐると頭の中を駆け巡っていた。


 ……ニカラグア。

 ニカラグアて。

 待って、ニカラグアって国、本当にあるよな。

 なにかの料理の名前とかじゃないよな。

 ……まあいいか。

 今回は完全に言葉の響きだけで選んでいた。

 この前、俺はブラジルから来ていた。

 さらにその前、俺はフランスから来ていた。


 俺の話を聞いたときの、呆気にとられた老人の顔を思い出し、俺は一人ほくそえんでいた。






 俺が初めてそのボケた老人を見かけたのは、初めてこの銭湯に来た時だった。


 その日は土曜の昼だった。

 俺の頭の中には昨日の係長の赤ら顔があって、何をする気にもなれなかった。


 ――お前、自分のことがなんっにも見えてないんだよ。


 前日の金曜日、飲み会の席で、40才手前の係長は俺に唾を飛ばして説教した。

 顔を真っ赤にして、ビールと焼酎で膨れた腹を揺らし、酒臭い顔を近づけ、俺に熱く語ったのだ。

 仕事とは何か、人生とは何か。


 俺は「はぁ」とか「なるほど」とか言いながら、全然別のことを考えていた。

 俺を熱く説教する係長は、その上の課長から説教されている。

 そして係長を説教する課長は、さらにその上の部長に目をつけられている。


 上から下へ。

 高きより低きへ。

 水が流れるさまそのものだ。


 課長の言葉を思い出していた俺は、次第にむしゃくしゃしてきて、大手動画サイトの「動画投稿者爆笑シーン」と銘打たれた面白くもない動画の再生を止め、コンビニにいくつもりでアパートを出た。


 そうして俺は、コンビニまでの道の途中にあるスーパー銭湯の前で足を止めた。

 今のアパートに引っ越して3年経っていたというのに、俺は歩いて5分の場所にあるこの銭湯に行ったことがなかった。

 俺はそのままの足で銭湯に入った。


 それは、課長に「自分のことが見えていない」と言われたことに対する反抗のつもりだったのだろうか。

 そうだとしたら、なんともかわいいものだ、と自分のことながら思った。


 そのスーパー銭湯は大きかった。

 広い駐車場に、レストラン、土産物コーナーもあり、人がたくさんいた。

 若者が多く居たことに驚いた。

 てっきり、銭湯に通うのは老人ばかりかと思っていたのだ。


 俺は受付で手拭いを買い、すべてを忘れるつもりで一回風呂に入った。

 こうして公衆浴場に入るのはいつぶりだろう。

 小さいころに家族で行った記憶はあるが、それ以降は一切無い。

 俺は様々な年代の男の裸を眺めながら、天井から落ちてくる雫を額で受けた。


 風呂でゆっくりした後、俺は休憩所のベンチに座り、幼いころ好きだったイチゴ牛乳を買って飲んでいた。

 そこで売っていたイチゴ牛乳は、ものすごく甘くて、まるで喉に張り付くようだったが、俺は昔を思い出して気に入ってしまった。

 俺以外にイチゴ牛乳を買っている人は見かけなかった。

 人気はないようだ。


 そうして休んでいたところで、俺は例のボケ老人を見かけたのだ。 

 彼は腰を丸め、開いているのか開いていないのかわからない細い目で、銭湯のスタッフにトイレの場所を聞いていた。


「便所はどこだぁ」

「まっすぐ行って、角を右ですよ」

「ほうか」


 老人はそのままトイレへ向かっていった。


 俺の近くにいた客たちが、半笑いで話している声が聞こえてきた。

「あの爺さん、また聞いてるよ」

「自分の名前くらいは覚えてんのか?」

「暴れねぇだけマシだ」


 どうやらその老人は、毎日この銭湯に通っている常連で、ひどくボケてしまっているらしかった。

 彼は風呂を出ると、だれかれ構わず「おめぇ、どっからきた」と声をかけ、質問攻めにするようで、周囲からは面倒くさがられているようだった。


 老人はトイレから戻ると、自販機でコーヒー牛乳を買い、ベンチに座りふたを開けた。

 老人がベンチに座ると、隣に座っていたほかの客が、距離を開けるようにして去っていった。


 どこにでもいる寂しい老人の姿だった。




 翌週の休日の昼、俺は再び銭湯に向かっていた。

 銭湯にはサウナがついており、今日はサウナに入るつもりで向かっていた。


 俺がサウナに入ると、他にも数人の若い男がいた。

 何かを楽しそうに話している。


 そこへ、例のボケ老人が入ってきた。

 若い男たちはその老人の姿をみると、そそくさとサウナを出ていった。


 俺はサウナで、老人と二人きりになった。


「ぼうず、どっからきた」

 老人は俺にそう言った。


「あ、よ、横浜です」

 俺は有名人に声をかけられたかのように緊張してしまい、とっさに数年前まで住んでいた場所を言ってしまった。


 さっきの若い男たちが出ていった理由は、これだったのだ。

 俺も察して出ていくべきだった。


「ぼうず、仕事は」

「あ、あ、えっと」

「仕事は、あにしてんだ」

「えーっ、と――」

「『絵』? あんだ、ぼうず絵描きか。どんな絵描くんだ」


 俺は訂正しようとしたが、熱気でぼんやりした頭ではうまく考えられなくなっていた。

 老人は俺に身を乗り出してきて、言葉が喉の奥に滑り落ちるように引っ込んでしまった。


 そこから先はもう引っ込みがつかなくなり、適当な話を続けた。

 話しかけても返事をしてくれる人が少なかったのか、老人の目にはうれしそうな色が浮かんでいた。


 俺は個展を開いている油絵の画家ということになった。

 なってしまった。


 だが俺は、この時不思議な興奮を感じていた。

 俺の口から、俺も知らない俺が生み出されている。

 それは目の前の老人の頭の中だけで息づいていて、他のどこにもいない。


 こんなことに興奮する自分の一面に驚いていた。

 役者が役をやる喜びというものがあるとしたら、同じような気分なのかもしれない。




 翌週、俺はまた銭湯に足を運んでいた。


 老人がサウナに入ると、他の客は嫌そうな顔をして出ていく。

 簡単に二人きりになれてしまう。

 俺は老人がサウナに入るタイミングに合わせて、するりとサウナに入った。


「ぼうず、どっからきた」

 次にサウナで会ったとき、老人は再び俺にそう言った。


 老人は俺のことを完璧に忘れているようだった。

 俺は少しがっかりする反面、安堵感といたずら心を感じていた。


「……大阪です」

「ほうか。仕事は」

「ウェディングプランナーです」

「……あんだ、それ」

「お客様の要望に合わせて、結婚式をプロデュースするお仕事ですよ」

「ぷろ、ぷろでん――」

「プロデュースです」


 就職活動をしていたころ、少しだけ興味を持って調べた職業だった。

 俺は本当にプランナーになった気分でぺらぺらとしゃべり、老人は圧倒されたように「ほうか、ほうか」とうなづいていた。


 それ以降、俺はサウナでその老人に話しかけられるたびに、嘘をつくようになった。


「ぼうず、どっからきた」

「北海道です」

「ほうか。仕事は」

「牧場を経営しています」


「ぼうず、どっからきた」

「名古屋です」

「ほうか。仕事は」

「焼き鳥屋です」


「ぼうず、どっからきた」

「ウィスコンシン州です」

「ういす……あんだって?」


 俺は、老人の頭の中を借りて、ミュージシャンになった。

 気象予報士になり、不動産王になった。

 百人切りのナンパ男になり、新聞記者になり、陶芸家になった。

 パティシエになり、薬剤師になり、石油採掘業者になり、児童相談員になり、宇宙飛行士になった。


 俺は、老人の頭の中なら、なりたいものになることができた。






 老人とサウナで話をするようになって1年ほど経った、ある日のこと。


 俺が銭湯に来て靴をロッカーにしまっていると、老人の送り迎えをしていた老婆が、銭湯のスタッフと話をしている姿が見えた。


「これまで本当にお世話になりました」

「いえいえ。どちらへ行かれるんです?」

「はい、息子夫婦が九州に住んでいまして、そちらに」

「まあ九州。いいですねぇ」


 どうやら、老人は引っ越すことになったようだ。

 会えるのは今日が最後なのかもしれない。


 そう考えた瞬間、俺の背中に冷たいものが走っていった。

 自分がしていることが、とんでもなく恐ろしいことに思えてきたのだ。

 ボケた老人をからかって遊ぶ自分は、一体何なのだろう。

 水風呂に頭まで浸かった気分になり、地面が揺れる錯覚を覚えながら、俺はふらふらと浴場に向かった。


 老人はいつもと変わりない時間にサウナに入った。

 老人を嫌がる他の客がサウナから出てくるのを見計らい、俺はいつものようにサウナに吸い込まれていった。


「ぼうず、どっからきた」

 老人はいつも通り俺に聞いてきた。


 俺は老人の顔を見つめ、口をぱくぱくと動かした。


「ぼうず、どこからきた?」

「……すぐそこです。歩いて5分の、アパート」


 風船がしぼむようにして、俺は答えた。

 夢からさめたようだった。


「ほうか。仕事は」

「会計やってます。小さい工場、あ、機械の、金型工場の、です」

「ほうか。カイケイって、あにやってんだ」

「入ってきた金と、出ていった金を計算して、まあ、それだけです」

「ほうか。いい仕事だ」

「そうですか」

「おれぁねじ作ってた。わかるか、ちいせぇねじだ。ウン十年、ねじだけ作ってたんだ」


 老人の話を聞くのは初めてだった。

 仕事の話以外にも、彼は野球が好きだといって、肩をぐるぐる回してみせた。


 俺はつられて、正直に身の上を語った。

 音楽関係の仕事をしたい、と高校卒業とともに地元を飛び出して専門学校に入ったはいいものの、遊びやバイトに夢中になり途中で学校をやめ、結局地元に帰ってきて、入れそうな会社に入った。

 興奮もない、感動もない、普通でみじめでつまらない話だった。


「ほうか。ほうか」

 老人はそんな俺のつまらない話に、いちいち耳を傾けてくれた。


 話が途切れたあたりで、俺は老人に一礼し、サウナを出て、浴場を出て、休憩所のベンチに座った。


 まったく馬鹿なことをしていたものだ。

 罪悪感がちくちくと胃を刺激してくる。

 最後の最後で正直になったんだからぎりぎりセーフだ、と自分を慰めようとしたが、どうにもうまくいかない。

 しばらく引きずりそうだった。


 やがて、老人が浴場から出てきた。

 そして自販機で牛乳を買うと、俺の姿を見つけ、近づいてきた。


 俺は、立ち上がり、すべてを告白するつもりで老人に駆け寄った。 

「……あの、実は――」


「やる」

「……え、いいですよ。いりません」

「いいから。やるわ」


 老人は俺に牛乳瓶を押し付けると、腰を曲げて去っていった。


 俺は老人の小さな背中を見送り、それから手元を見た。

 老人からもらったのは、イチゴ牛乳だった。



<嘘つきのサウナ おしまい>

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嘘つきのいるサウナ 八木平治 @emura15

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