春に遺した花

よる子

春に遺した花

 春、彼女は死んだ。

 警察は自殺の線で捜査しますと言った。遺書など何もなかったからであろうが、彼女の同居人である私からすれば彼女のその死は自殺以外に考えられなかった。彼女の死が私にもたらすのは警察の取り調べだけ。邪魔くさいなぁとか、なんで私がとか、そういったことを思うことはなかった。だって彼女はきっと遺書なんて野暮ったいもの書かないと思っていたし、そうなれば警察は必ず同居人である私のもとへ情報収集にくる。まあそのうちくるだろうとふわふわ思っていた、水が流れることよりもごくごく自然な出来事だった。同居人が死んだことについてなにか心当たりなどありませんか。近頃の同居人はどういった様子でしたか。いつから同居しているんですか。当たり障りのない答えを適当に返すと、警察はなにか相談があればいつでも電話してくださいと突然同居人を亡くした人間に会釈をした。私は、そういえば家賃が折半じゃなくなるなあと少し渋い顔をしてその場をあとにした。

 彼女は五年前に大学で出会ったときから死にたがりだった。死にたい、死んだらどうなるんだろう、口を開けばそんなことをぼやいていた。彼女はこの世界に絶望していたし、死に希望を抱いていた。彼女の言う”死にたい”は、キラキラした女の子がカフェで口遊むように言う”そろそろ美容室へ行きたい”と同じ温度なのだ。死んだらどうなるんだろうと独り言ちるその目は幼い少年のようなきらめきを持っていた。私がそんな彼女に同居の話を持ち掛けたのは単に家賃を折半したかったから、ただそれだけだった。彼女は学部も違う、数回しか話したことのない私の正直な申し出を黙って聞いて、それから左手の親指と人差し指の先をくっつけて「オッケー」とはにかんだ。長い黒髪は、生ぬるい春風に揺られて踊っていたように思う。

 小説投稿サイトに自作の物語を載せることが趣味だった彼女は、家のあちこちでプロット用のメモを広げていた。思いつたことを書きなぐったポストイットは、玄関、トイレ、浴室、台所、居間、寝室、その他家の中のどこにでも貼り付けてあり、白が基調の内装は気づけばやたらとカラフルになっていた。書き終わったものに取り入れられたポストイットは剝がされてしまうが、それでもまたひとつ、ふたつと彼女は新たに貼り付けていく。また次が貼られる勢いには追い付けないから、ついに今日までポストイットが減ることはなかった。毎日眺めていた彼女の頭の中。こんな景色が広がっているんだなあと、死を夢見る彼女を見ていた。

 歩くと汗をかくくらいの暑さだった外から帰ってきた家の中は、昼間なのに薄暗くて冷たい空気があった。壁は相変わらずカラフルで、うるさい。まだ、ここに彼女がいるみたいだった。廊下の壁に貼られたやさしい黄色のポストイットに手を伸ばしてみる。彼女の、乱暴な文字を指でなぞる。

「……”花をみて踊るのは私だったかもしれない”」

 ぺりと音を立ててそれは剥がれた。私と彼女がつくる生活音のひとつだった気がする。一歩、一歩、足に触れる床の冷たい感覚が心地よくてそのまま居間まで足を滑らせた。半分開いたカーテンから射し込む陽が小さなローテーブルの隅をあたためているのを見て、私はそこに黄色のポストイットをそっと置いた。粘着面を表からぎゅっと押す。カサ、と左手にこそばゆい感覚があって反射で見やるとどうやらローテーブルの足に貼られていたポストイットらしかった。それも手に取って、黄色の隣に添える。

「”蛇口はきちんと閉めないと、零れ落ちてしまうもの”」

 そう書かれた薄いピンク色は光に照らされてそこだけ桜が散っているようだった。彼女の頭の中をじっと見つめた。それが彼女が遺したもののなかで唯一遺書と呼ぶに相応しく感じて、私は立ち上がり家の中から適当に目についたポストイットを3枚手にして戻ってきた。合計5枚、ローテーブルの一角は色とりどりにきらめいた。

 ひとつひとつに目を通して、滑らせて、短いその文章を何度も何度も熟読した。床に放置していた彼女のノートパソコンを開いて起動させる。面倒くさがりの彼女は鍵なんてかけない。いつも見ていた執筆サイトをブックマークから探して彼女のページに入る。彼女が書き続けた山のような短編小説をスクロールで流していって、新規作成をクリックした。

 物語なんて書いたこともない私は拙い文章で、いつかの彼女に思いを馳せながら一心不乱にキーボードを叩いた。


遺書を、完成させようと思った。




 彼女の遺書をしたため続けていったいどれくらいが経っただろう。用済みのポストイットは彼女に倣って燃やした。ノートパソコンの隣で輝く色彩は家の中から無造作に集めた彼女の頭の中、それを横目に新規作成の文字にカーソルを合わせて、次の遺書を書く。寝食を忘れて没頭した。私を突き動かしているのは使命感とかそんな大それたものではなかった。ただ、この世に自分は存在していなかったとでも言いたげに身の回りのものすべてを片して逝った彼女が気に食わなかった。そんななかでわざとらしく家の中にお花畑のようにカラフルな景色とノートパソコンだけを遺していったことも。彼女の声が、聞こえる気がするのだ。

「…………忘れないよ」

 だから私はこうして遺書を代筆する。たくさんの、たくさんの物語の皮をかぶった遺書が完成した。いつだって彼女が発する言葉には薄い紙が一枚重なっていた。それを思えば私が完成させたいくつもの遺書は、じゅうぶんだと感じた。彼女が言いたかったこと、遺したかったこと、そんなことがわかるわけではない。もとより彼女の思考など理解できたためしがない。死にすべての望みをかける彼女は、常に心ここにあらずであった。けれど、この空間でだけは、彼女は心を見せてくれていたように思う。両手で大事に包み込むようにして、儚げに光る胸の内をあらわにしていた。そう思わずにいられないのは、傲慢だろうか。

 一人家にこもり彼女の死と向き合っているあいだに、外は風薫る五月が到来していた。きちんと外の空気を吸ったのは何か月ぶりだろう。ついに家の中に満ちていた彼女の香りは初夏の風に吹かれて空に舞っていった。少し汗ばむ季節に、時の進みをひしひしと感じた私はふと空っぽの家を振り返る。部屋に残ったノートパソコンだけが、静かに彼女の存在を物語っていた。

 春は、終わっていた。


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