【R15】愛なんてただの暴力だって歌って

阿部 梅吉

愛なんてただの暴力だって歌って

 ※性描写表現があります。15歳未満は閲覧を禁止しますのでご注意ください。





 イクときに浮かんでくる言葉がある。詳しい意味はわからない。昔あんたが言ってた。一番好きな文章だって。

「青々たる春の柳、家園に種ゆることなかれ」

 あ、もうすぐ「クル」な、ってのはこれでわかる。これが浮かんできたら、あとは跳んでしまうだけ。

「交わりは軽薄の人と結ぶことなかれ」

 声なんて出したくない。顔も見られたくない。できれば自分の存在を消してしまいたい。でもこのときに限って体は言うことを聞かない。いくら隠しても結局は見られてしまう。制御不可能。

 本当は怖くて仕方ないのだ。毎回慣れることなんか無い。いつも怖い。でもこの波に乗ってしまうと、もうあとは流れるしかない。

「ん・・・・・・」

 指を、肩を、タオルを、枕を噛む。それでも止められないし、止めさせてもくれない。何か言えば火に油を注ぐとわかっているのだが、いつも何かが限界に達して、これ以上は無理だと思ってしまう。

 記憶はいつも曖昧。輪郭はぼやける。自分が、あんたが、世界が、溶けて一つになってしまう。考えているように見えて実は全部反射。ただそこに反応があるだけ。

 私はただの、あんたの楽器。



  ※※※



 「まあた恋愛の歌、か」


 今回の注文はラストシーン前で主人公とヒロインがやっと結ばれる(と思われる)シーン。私は一年前からあるアニメ映画の楽曲作りに参加していて、候補曲が送られてくる。

 十代の時に「あいつ」に拾われて、歌手としてデビューした。その頃は自分でも曲を作っていたが、最近は全然。デビューした当時は結構反響だってあってテレビにも出てた。若かったし。髪だって染めていないで、メイクだって殆どしないで。

声が綺麗ってよく言われた。私の武器は声。透き通るような声。私の声がCMに使われたこともある。ただそれは、自分で作った曲ではなかった。

 それももう、過去の話。

 最近髪をグレーに染めた。忙しくないときは髪にビーズを通してもみる。爪をネイルで真っ黒にもするし、寝る前に一滴、手首に香水を垂らすようにもなった。

 ファンの反響は、まあ様々。

 昔の純朴そうな、いかにも「田舎から上京してきました」って感じの垢抜けない女の子像を私に抱いている人は、まあ、いる。それで離れていったファンもいる……と思う。染めた髪の写真をSNSにアップしたら、「なんか悲しい」ってコメントがついた。同じくらい、「綺麗」とか「かわいい」ってコメントもついたけど。みんなが考えることはよくわからない。全く会ったことのない私が髪を染めることがそんなに悲しいのだろうか?

 デビューしてから、八年。今は殆ど自分の曲を歌うことはない。趣味でちょっと曲を作っているけれど、殆どは誰かーー大抵は「あいつ」が作った曲を歌っている。

 数年前からアニメや映画の曲を作ることが多くなって、ボーカルをやるときもあれば作詞もする。ほんの時々楽曲を提供したりもするけど、あんまり使われることはない。みんなが求めているのは、私の声と詞。

私の声はちょうど物語を邪魔しないような、よく言えば透き通る、悪く言えば誰かが衝撃を受けて立ち止まる訳でもない、個性のない声。それが映画やドラマには丁度いいってわけ。


 深夜の一時にあいつから曲が届く。仕事場で一人、パソコンをにらんでいるあいつの顔が浮かぶ。あいつ、いつ寝ているんだろう。

 ファイルをクリックする。

 歌詞のついていないただのメロディ。別の添付ファイルに仮の歌詞がある。誰もいない暗いアパートで、ただパソコンとその周りの音楽機材以外ほとんど何もない部屋で、私は迷わずファイルを開く。


 君のために走りたい 夢だって感覚があれば 同じ

 どっちだっていい 逃げ出したい夜を 超えて


「はあ?」思わず声が出る。


 夢とか現実とか結局感じるのは自分なんだから 

 じゃあ同じ

 それなら君のとこへ


「何これ……」


 楽曲はたしかに最高だし、おそらく再度のシーンとシンクロするように作られているのだろう。一年前からアニメの概要を教えてもらい、つい先日もラストシーンのおおよそのカットと動いている絵を見たから、場面の状況は理解できている。しかし・・・・・・

「さすがにこれは、ない」 


 私は迷わずボイスチャットアプリを開き、あいつに繋ぐ。すぐには出ない。けど諦めない。二十回目のコールでようやく画面が変わる。


「・・・なに」


抑揚のない、いつもの低いゆっくりした声。今曲を作り終えて疲労困憊しているか、ここ数日寝ていないかのどちらかだ。しかしそんなこと、こちらには関係ない。


「いや、なにあの詞。最悪じゃない。薄っぺらくって。中学生が考えたの?」

「ああ・・・あれは仮」だるそうにあくび混じりであいつが言う。

「仮って言ってもあれはないでしょ。なんですかあれ。引用も抑揚もないし、ただ曲に会うように言葉つけただけじゃないですか」

「あーー……」長い溜息のような返事。わかってる。あんたが私のように、「曲と同時に歌詞が浮かぶタイプの作家」じゃないってことくらい。でもねえ。

「全然乗り気じゃないですね」

あんたの考えはわかっている。この曲に合う歌詞を私に作らせたいのだ。

「うーん、いまいち詞が思いつかないんだよ」

嘘だ。やろうと思えばこいつはいくらでも出来るはずだ。十代のアイドルにも楽曲提供しているんだから。中身は四十路のおっさんだけど。

「・・・・・・締め切りいつですか?」

「まだ一ヶ月以上先。これから微調整するけど」

「はあ……」今度は私が溜息をつく番だ。

「本当に思いつかないんですね?」

「そりゃー歌詞なんてポンポン思いつくわけ無いだろ」

そりゃそうだ。あんたの歌詞は計算されすぎている。どの音でどの場面でどの文字を組み込めば良いのか、全部考えられている。耳に残る、たまに話題になるようなドキッとする詞。いつも何か元ネタ、イメージの元になる何かテーマみたいなのがあるのに、教えてくれない。

「あの詞が嫌ならお前考えろよ」

「勿論そのつもりですけど。あんな薄っぺらい歌うのはごめんなんで。一週間以内に進捗生みますよ」

「楽しみにしてる」

嘘だ。本当に提出するつもりの詞を、予め別に用意しているはずだ。

 それでも私は、書いてしまう。まんまとこいつに操られて。


「そういえばお前、ちゃんと食べてるか?」声に少し抑揚が戻る。

「その言葉そっくりそのまま返しますけど。ちゃんとお風呂に入っているんですか? ずっと座りっぱなしじゃないですか?」

「いや・・・・・・わかんねえな・・・・・・多分入っていると思う。今日って何日? 今は朝だよな?」

「あのねえ」私はまた溜息をつく。

「いや、入っているよ。思い出した」

「普通の人はこういうときちゃんと即答できるんですよ」

「いや、本当に今『ぽ』っと記憶が抜けたんだよ。ここ数日の。お前も四十になればわかる」

「どうだか」

「わかるって」

「・・・」

「・・・」

 沈黙。本当はお互い「これから」に誘って良いのか探っている。むこうがどれくらい忙しいのかわからない。自分から言って良いのかわからない。深夜一時の攻防は平行線。お互い仕事だってある。そんな計算が一瞬のうちに無意識に働く。どちらが何をどう切り出すかによって、次の一手が決まってくる。

「ちゃんと風呂には入っているって……」

ため息交じりのさっきの話題。む。現状維持か。それとも私から切り出してほしいのか。

「あんたはちゃんと食べてるの?」

「食べてるよ、カット野菜」

こいつの主食である。いつもコンビニで売っているカット野菜を冷蔵庫に常備しており、皿に山盛りにしてドレッシングをかけて食べる。野菜さえ摂れば健康になれると信じているのだ。

「まったく」呆れるけど、笑えてくる。

「なんか作りに行こうか?」結局、また私から切り出した。


 私はタクシーを呼び出し走らせる。ぐんぐん上がるメーターを横目に私はじっと座ってる。どうせあいつが全部持ってくれる。まんまとあいつの戦略にハマっているのだろうか。それとも自分から進んでいったのだろうか。わからない。あいつと話すと自分自身がよくわからなくなる。

 夜の町には殆ど人がいない。信号機だけが点々と光っている。車から見ると、その光たちはぼんやりと浮かんでは消えてゆくように見える。きっと走るスピードが速いせいだ。今は夜だからほかの車もいない。快適な夜のドライブ。ラジオから流れる曲は一昔前の懐メロ。それさえもすべて「こと」の前の儀式みたいだ。

「……早いじゃん」

ドアが開いた瞬間、ジャージに無精髭姿のあんたが、玄関で強引に私を抱く。マンションのオートロックを二回乗り越えてやっと会える。久々に腰にあんたの手を、鼻にあんたの首筋を感じる。

「まあ・・・」

立ったまま抱き寄せられ、口に舌を入れられる。あ、この味、煙草吸っているな。たぶん。私は直近で歯を磨いた時間を思い出す。今が深夜の二時だから、四時間前。その間何も食べていない、はず。あんたはぐるっと私の口の中で舌を一周させ、二秒ほどあとで唇を離す。

「薬でも飲んでるのか?」

こういう「味」には聡いのだ。すぐに気づいてくる。曰く、薬によって私の味が変わるらしい。

「別に、ピル再開したから」

「ふうん?」

いつも通りの疲れた顔。いつも仕事に追われている。あんたが曲のことを考えない日なんてない。だから私はいつあんたのところに来て良いのかわからない。いつでも来て良いし、いつでも来てはいけない気がする。要はさじ加減、気の持ちようなのだ。いつだってきっかけを作るのは、この私。

「あれから何か食べた?」殆ど意味の無い質問。聞かなくても答えはわかる。

「だから、カット野菜……「以外に」

私が会話を遮ると、面倒くさそうに首を横に振る。

「トウコでも食べようかな」

家から持ってきた食材を冷蔵庫に仕舞おうとした瞬間、後ろからまた抱きしめられる。私の胸と腹の間に彼の腕がしがみき、青い血管が浮き出て見えた。わずかに彼の指が動く。

「これ家で炊いたお米、あ、」

タッパーに詰めたお米。家からわざわざ持ってきた。かつん、とプラスチックが床にこすれる音がする。缶詰とタッパーが落ちて冷蔵庫の前で散乱する。でももうだめなんだ。服の上からでもわかる、彼の指と爪の先の感触。強いのに優しくしようと精一杯我慢している。ゆっくり、でも正確に好きなとこに突いてくる。

「・・・・・・」

次の一手はどう動くべきなのか。わからないふりをしていても大体予想はついてしまう。抗えないのだ。なんせ七年もの付き合いなのだから。声を上げまいと決意してもさほど意味は無い。首元に、耳の後ろに彼の息がかかる。私の胸の膨らみのてっぺんで、彼の指が動いている。

 やっぱり、だめなのだ。結局あんたの部屋に入った瞬間からもう流れは決まっていたのだ。いつも抜け出せない。最初からーー。

 左手が優しく服の中に侵入してくる。夜、お風呂に入った後で着たTシャツ。さすがに心許ないからと、出かける前に慌てて着たブラとキャミソールが一体になった下着。服の中でもぞもぞと知らない虫みたいにあんたの手が動く。本当はもっと乱暴に出来るのに、わざとただ指先だけを這わせる。この流れは今までずっとーー七年も経験済みだからーーわかっているのに、無駄な抵抗をしたくなる。

「おかずはね・・・・・・缶詰と、家で作った野菜、ん!」

耳を舐められたみたいだった。服の下では乳輪の周りを、円を描くように指先が移動していた。だんだん何か物を掴む力を失ってゆく。自分がこれからどうなっていくのか、だいたいわかってしまう。それでもいつも全身に力を入れようとする。いつも。

 唇は、耳から首筋へと移動してゆく。暖かい息と冷たい舌先の感触が混じって、何か刺激があるたびに力が抜ける。

 右手は太ももに移動していた。手の甲で優しく触れるだけ。七年前まではそれこそちょっと痛いと思うような触り方をしてきたのに、今はすっかりそんなこともない。それはただあんたが私を知っているから。私が、この方が悦ぶことを知っているから。

 あんたの手が、優しいまま私の太ももの内側に侵入してくる。優しいまま、人差し指で乳輪の周りを擦る。

「ん……」そのまま膝が床につく体勢で座ってしまった。足の力がなくなって、立っているのがつらいのだ。私に合わせてあんたも座る。手はまだ太ももと胸にくっついたまま。流れは切れない。適当に着てきたショートパンツのボタンを外され、中に侵入してくる。

 いつも、そう。本当は……・・・

「濡れてる」

喋ると首筋に息がかかる。下着の上から触られてもわかるくらいには、毎回「こう」なってしまう。

「トウコ、好きだもんねこれ」指先がやっと胸のてっぺんに軽く触れる。とんとんと人差し指で突かれると、一気に体の力が抜ける。


 いつもそうだ。記憶なんてあるようでない。時間軸がぐちゃぐちゃになる。何かあったことだけはわかる。単純な話のはずだ。私とあんたは繋がった。キッチンの床で、冷蔵庫に頭をつけないように抱き合い、今も繋がっている。

 何をしたんだろう。ただ何かに向かって喘いでいただけ。よくわからない。苦しさと愉しさと怖さが毎回入り交じる。変な話だが、いくらやっても挿入する前は、ちょっと、怖い。

 どこから転げ落ちたのか。いつも最初から最後まで向こうのペースなのだ。何度か私が上になりたいと言ったこともあったが、いつも「なにもしなくていいから」とか、「任せてれば大丈夫」とか言って、ずるずるといつもあんたが、上。

 胸が冷たくてふわふわする。さっきまで吸われていたみたいだ。いつも気づいたら濡れている。一番愉しい時の記憶がないのはちょっともったいない気もする。

「はっ・・・」息を吐く音だけが響く。あんたはあんまり喋らない。音楽オタクのスイッチが入ったときは一時間でも二時間でも喋っていられるあんたでも、こういうときはあんまり喋らない。

 昔、「こういう」ときに私が何か全然別のことを喋ろうとしたら、口の中に舌を入れられて塞がれた。私はこのとき、流れに乗った際はあんまり喋らない方が良いことを学んだ。

 でもね、本当のことを言うと、繋がっているとき、全然別のことを考えたりもする。気持ちよくないとか、あんたが嫌いとか、そういうのじゃなくて。なんていうか、突然自分の中に新しい別の扉が開く感じ。

 例えば、・・・・・・走る少年。


 私はあんたに今入れられて、突かれている。突かれるたび、世界の輪郭が曖昧になって、気づいたら私は心の中に少年を住ませている。

 青空の下、白いTシャツを着た彼は、ただひたすらに好きな女の子の元へ走る。ただ、それだけの、こと。

 私も腰を浮かせて動かす。ただそれは私の意志じゃない。あんたが動くと、私も動いてしまう。ただ、それだけの、こと。

 少年はまだ走っている。好きな女の子に会いたい一心で、ただがむしゃらに走っている。何がそこまで彼をそうさせるのか、私にはわからない。彼には意志があるようにも感じる。

 本当に? 

 「あっ、」

 重い一突きだった。中で何か衝撃が走ったように思える。イかせようとしているんだろう。あんたはだんだん大きく突いてくる。そのせいで完全に全身の力を失った。ハンマーで頭を強打されたように、強い刺激と眠気が襲ってくる。

 「ん……」

 何もできなくなる。ブラックアウト、……オフ。


 目を開けたら、ふかふかのベッドの上だった。もう突かれるたび、頭を床に打ち付けないか考えなくて済むのだ。そんな打算が初めに頭に浮かぶ。キャミソールはめくれあがって両胸がまるまる露わになっているし、ショートパンツはボタンもチャックも外され、中のパンツもずらされていたが、太もものあたりで止まっていた。

 軽く上半身を起こすと、あんたはまたパソコンに向かって何やら考え込んでいた。もう「流れ」に乗るのは飽きたのだろうか。

「今何時?」

「三時くらい?」私の方を一切見ずにぼんやりと答える。言葉だけが宙に浮かんで、コーヒーの湯気みたいにどこかへ消えてゆく。

「寝ようよ。昨日いつ寝たの?」

「わかんない・・・けど、」私はベッドから出て、中途半端な服を気にすることもなく、あんたの首の後ろに口をつける。

「本当に寝た方が良いよ。もういい年なんだし」ゆっくりと椅子ごと回転させ、私に向き合う。

「トウコ、まだ足りない? 誘ってる?」今度はあんたが溜息をつく番みたいだ。

「は? なんで・・・」と言いかけたが、ないし、自分の今の格好を改めて見る。

そのまま抱き寄せられ、仕事用デスクの椅子の上でもう一度私たちは愛し合った。


 今度こそ本当に記憶を失った。睡眠とは記憶を定着させるためにあると聞いたことがあるが、私の場合は定かではない。いつもその前後が曖昧になる。もう一度起きたとき、私は何も身につけていなかった。携帯は朝の八時を示している。股の間に何かしらふわふわした感触がある。胸は昨晩何かに濡れたように冷たい。ざっと自分の体を確認する。鎖骨の胸の間に赤い痣が複数ある。隣を見るとあんたはまだ寝ているようだった。一度寝るとなかなか起きない。というより、殆ど起こすことは不可能だ。叩いたり氷を目にのっけたり音楽を聴かせたり、とにかくいろんなことを試したことがあるが、一度寝てしまうと次に自然に目覚めるまで絶対に起きない。そこまでの深い眠りに入れるのは羨ましい。一度集中してしまえば二日くらいぶっ続けで仕事をするし、緊張の糸が切れれば一日中寝ていることもある。


 私はあんたの唇と頬の境目に唇をつけ、布団の下の体を点検する。痣は何もない。背中に何か跡をつけていないか確認したかったが、熟睡しているので諦める。赤ちゃんのようにぐっすり眠っているその横顔を見て、なんだかなあと思う。最近私は溜息ばかりついている。

 あんたが寝ているとき、私は大抵あんたで遊ぶ。人差し指で全身をゆっくりなぞり、くすぐるように乳首を触ってみる。うっすら生えた顎髭を撫で、胸と腹の間のちょっとした毛の流れを観察する。おへその周りを弄り、陰毛に優しく触れる。太ももから徐々に生えるすね毛を触り、足の青い血管の走行を確認し、股の間に口で痣をつけようとちょっと吸ってみる。でも全然出来ない。ちょっと唾液で濡れるだけだ。

 私は意識のないあんたの手を取り、指を舐める。起きてこないことを確認し、その指を一本とって、自分の胸にあてる。あんたの中指の第一関節が、私の胸の赤い痣を撫で、その下の薄茶色の部分に触れる。触れられた方の乳首は、そうじゃないやつよりぴんと張っている。試しにもう片方の乳首にも触れさせるが、そっちもだんだん固くなる。

 あんたの口を開けさせたらどうなるだろう。

 一瞬そんな考えがよぎる。

 さすがに起きるかもしれない。疲れてるみたいだし、起こしちゃだめだ。とはわかっているものの、好奇心が抑えられない。

 そっと、下唇を下げるように、人差し指で軽くあんたの口を開く。ゆっくり、ゆっくり気づかれないように指の第一関節まで、少し前歯にあたりながら、奥へ奥へと侵入してゆく。上唇と下唇の間に隙間を空け、そのわずかな間に乳首を押し込むように、自分の胸を当てた。

 ずるいよ、いっつも。

 切ないような泣きたいような、そんな気分。

 いっつも一番いいとこで、途切れちゃうんだから。

 冷たい舌先の感覚を、乳首の先に、まだ愛し合い方を知らない十代のキスみたいに、ぎこちなく焦点を合わせる。

 本当は今、今記憶のあるうちに、触って、舐めて、吸ってほしい。そのまんま全部・・・全部記憶していたい。

 ずるいから、ずるい女だから、私は何も知らないあんたに胸を押しつける。あんたの股の間に座るように上にのっかり、ゆっくり腰を動かす。ずるい女だから。


 そのままあんたは起きなかった。私は五分くらい遊んだらすぐに飽きてあんたの上から降り、添い寝するようにちょうど真横に寝た。乳首はぴんと立ったままだったが、なんの感覚も残っていなかった。だんだん退屈になってきて、次第に私の興味はあんたの音楽機材の裏に隠れたちょっとした本棚に移った。

 あんたは確か大学では文学部だった。たしか日本文学を専攻していて、たまにいろんな本について教えてくれることがある。

 本棚の中でもちょっと薄くて読みやすそうなもの、ベッドでもすぐに読めるものがないかと探してみる。

 私は川端康成の『眠れる美女』を取り出す。あんたは川端が好きだったはずだ。卒論にも書いていたって、何かで読んだ。私はいそいそとそれをベッドに持ち込み、寝転んだままあんたが起きるまで読みふけった。


 結局その日あんたは昼近くに起きてきてカット野菜とお米と缶詰を食べ、歯を軽く磨いたらまた私を誘った。夕方まで私たちは抱き合っていて、帰り際に聞いたら今日私は三十回以上イッたとのことだった。世の女性たちが一日にどれくらい「イク」のかはわからないが、なんとなくそれは多い気もした。それでも最中の記憶は殆ど無いわけで、私には確かめようもないのだから、あんたの言うことを信じるしかない。私にとってはそれはただの数字だけど、あんたから見ればちょっとしたゲームのスコアみたいなものなのだろう。多ければいいわけでも無いと思うが、少ないよりはいい。

 夕方、乳首に冷たさを、足にあたたかさとちょっとした麻痺の感覚を残しながら、私はタクシーで家まで帰った。

 帰り際、鞄の中に『眠れる美女』が入ったままなことに気づいたが、疲れていたので家に着くまでずっと寝ていた。


 次の日、パソコンと辞書と辞典と図書館で借りた本を机に並べ、何度も歌詞のついていない曲を聴いた。

 すでにあらかたできあがっているアニメのワンシーンと絵コンテを何度も見る。ラストシーンに近い、一番盛り上がる前のシーンでの挿入歌。主人公は、走っている。誰かに向かって。

 その日は一日中ああでもないこうでもないとパソコンの前で格闘し、五パターンくらいの似たような歌詞を作った。

 夕方には雨が降るとのことだったので、洗濯物を取り込んでいたら、ベランダに光る大きな・・・黒く光・・・素早く走る・・・あれ・・・

 その・・・たぶん・・・まちがい、ない・・・



 「奴が、きた」

「いつも急ですね」そうは言っても三回目のコールで出てくれるあたりが頼もしい。

「だって・・・・・・いや、初めてだよ。たぶん」

「そうですね。ゴキブリは初めてです」

玉置(たまき)は高校の頃の後輩(といっても三つ下だから学年はかぶっていないんだけど)で、昼は古本屋、夜はジャズバーでサックスを吹いている。金土日の夜は忙しいみたいだが、平日の午前中は割と繋がりやすい。

「まあ、もう風邪だとか二日酔いだとかで呼び出されるの、もう慣れたんでいいですよ。それで、スプレーはあるんです?」玉置は溜息をつく。

「ない。コンビニにもない」柄にもなく泣きそうだった。上京して、一人暮らししてから六年。今まで見たことのない得体の知れない例の虫に会わないようにと、せっせと部屋を掃除してきたのに。よりによって今日、今。この瞬間。

「どこにもない。もうスプレー見つかるまでネットカフェ泊まる」

「薬局にないです?」

「近くの薬局に今来てて・・・・・・、ないみたい・・・・・・」

「そうですか。じゃあスプレーを見つけるところからですね」

「ホームセンターにあるって言われた。けどホームセンターなんてないよ」

「先輩の家の近くにドンキホーテあるじゃないですか。そこ行きました?」

「あ、まだ」

「じゃあそこ行ってみてください。俺今から向かうんで」

「ごめん。今日ってバイトだった?」

「今日は休みでした。眼科に行こうと思ってたんですけど」

「ごめんほんと」

「いいですよ。じゃあドンキ集合で」

 三十分後、所狭しとものが並んで目が回る店内で、ようやく殺虫スプレーを見つけた。なんだかすごい武器のように思えて、一瞬光り輝いて見える。ダッシュでレジに向かい、会計を済ませると外に玉置の姿があった。髪はセットされていなくぺたんこで、白い無地のTシャツに黒のスキニーを履いていた。いつもはコンタクトレンズだが、今日は丸い銀縁の眼鏡をかけている。身長が高くて細いからシンプルな服でも割と似合う。

「先輩。買えました?」

「買えた。来てくれてありがとう。あ」急いで出てきたので、このとき初めて今日ほぼ日焼け止めしかメイクをしていないことに気づいた。

「どうしました?」幸いマスクをしていたので、気持ち上にずらし、目の下のクマを隠す。

「なんでもない。ごめん、急に呼び出して」

「ほんとですよ。でも、慣れましたから」玉置は私が買ったスプレーの表示をまじまじと読む。

「じゃあ、行きますか」

「うん。ごめんね」

 玉置は何度か私の家に来たことがある。もうかれこれ三回目。一回目は風邪を引いたときで、二回目は二日酔いだったとき。どっちのときもコンビニで食料品を買ってきてくれて、玄関の取っ手に袋を下げてくれた。部屋の中までは入ったことはない。

 本当のこと言うと、迷っていた。本当に玉置を部屋に入れて良いのだろうか。事前に何か言うべきなのだろうか。

 もう小学生じゃないんだし、男の子をほいほい気軽に入れて良いわけじゃないことも知っている。玉置は優しいから、きっと私が行ったとおりにしてくれるんだろうな。って考えている時点で、かなり私は「卑怯」なわけで。あとは流れに任せちゃおうか、なんてもう通用しない。

 でも。あれは無理。加えて近くに今来てくれる人はいない。ゴキブリなんて見たことないし。

 結局私はずるい人間なんだ。全部自分のせいなのに、決めているのは自分なのに、いつも覚悟は中途半端。

 だからあいつの部屋にすぐ行ってしまうのかな。

 「・・・・・・先輩、こわいんすか? 虫」玉置の声にハッとする。

「ま、まあ、見たことないし」

「え」

「え?」

「ゴキブリ見たことないんですか?」

「ないよ」

「まじですか」

「うん。普通に」

「それまじすごいっすよ」

 こんな緊急事態でもあいつのこと、考えてしまう。本当はあんなふうに走り出したくないんだけど、いつも気づいたら向かってる。

 最低だな、わたし。


 家に着くと、なぜか跡形もなくゴキブリは消えていた。

「たしかにいたの、ベランダに」私は玉置に訴えた。

「絶対見た」

「信じますよ、あいつらすぐ隠れるから」玉置は意外に冷静だ。

「え? 隠れ・・・」

「隠れてますよ。夜移動しますし、ゴキブリは」

「え、じゃあまだ、いるってこと?」

「なくはないですね。まあ移動したかもしれないですけど」

「うそ」

「可能性の話ですよ」

「寝れないじゃん」

「いたらスプレーかければいいんですよ。おびき寄せる方法もありますけど、ほかのゴキブリも寄ってくる可能性があるんです」

「じゃあ、なおさら寝れない」

「だから、いたらスプレーをかければいんですよ」

「でもさ、いないことってどう証明すれば良いの? わかった、もう家中探そうよ」

「また難しいこと言いますね。あいつら全然わかんないとこに隠れるんですよ」

「うそ、例えば?」

「全然予期しないところです」

「じゃあわかんないってこと?」

「まあ」

「でも、何もしないよりましだよね? 私探す」

「じゃあスプレー持ってください。先輩はタンスの中、俺は冷蔵庫の裏を探します。餌が豊富なところにいる可能性があるんで」

「なんか頼もしいね玉置」

「先輩が頼りないんですよ」

 言えていた。玉置は年下だし、同じ音楽をやっている身としてお互い尊敬し合っているところはあるけど、私生活となると私はてんで玉置にだめなところばかり見せてきた。酒を飲んで吐いたところを見られたこともあるし、家の鍵をなくしたときにパニックになって電話したこともある。結局それは鞄の奥で見つかったのだが。

 私は玉置にずっと甘えている。きっと私が多少わがままを言ったところで、仕事上で、音楽で尊敬できるところがあれば関係は「切れるわけじゃない」と、どこかで私は安心している。元々同じ学校で、同じ趣味で、同じ曲が好きで、同じジャズミュージシャンが好きで、お互いの曲を見てきて。

 私たちはお互い、音楽について歯に衣着せぬ物言いができた。バーで玉置が即興ソロをやったとき、私は跡で休符の使い方が短すぎると怒ったこともある。曲の背景やリズムやほかの楽器との兼ね合い、いろいろなことを普段から私たちは話し合っていた。そんな話が出来るのは私にとって、あいつ以外には玉置しかいなかった。

 だからどんな風になっても、音楽があれば、と思うことも、ある。でも、それはただの甘えでしかない。私の、エゴなんだろう。

 それでも玉置はこうやって文句の一つも言わずに家に来て、冷蔵庫の裏を見てくれる。配線を外し、冷蔵庫を移動さえ、壁との隙間にある埃を掃除機で吸い取ってくれる。

 わたしはクローゼットの中の棚を全部開けながら、自分がいかにずるい人間かを考えていた。

 そういえば玉置には好きな人がいるんだろうか。たまに甘いような曲を書くからーー玉置は趣味でジャズの曲を書くのだ。コード遊びの延長のようなものだがーー案外いなくもないのだろう。外見だって悪くないし若いんだし。それでも平日の昼間から私の家に来てくれる。

「最低だな」思わず声に出ていた。

「何か言いました?」玉置の額に汗がはりついていた。

「ううん」私はエアコンの温度を下げた。

「ごめんね」

「何がです?」

「今日、予定つぶしちゃった」

「いや、急ぎの用事じゃないんで大丈夫ですけど。ってかいませんね、ゴキブリ」

「うん、いない」

「あとは風呂も確認すると良いですよ。そっち終わったら見てきてください。俺はベランダを見るんで」

「うん」玉置は、やさしすぎる。

 


「先輩、」何もない風呂場でじっと垢のある鏡を見ていたら、玉置に呼ばれた。

「なに?」

「いないです」

「うん」もう気づいたら夕方になっていた。だんだん空がオレンジになって、小学生が一斉に帰りだしていた。

「あの、先輩、ほんと悪いんですけど」

「な、なに?」

「ベランダで煙草吸って良いですか? 窓閉めるんで」なんだそんなことか。

「いいよ全然」

「キッチンの棚も見た方が良いですよ」

「うん」

 玉置がベランダの柵に両肘をついて煙草を吸っている間、ほとんど何も入っていないキッチンの棚を開けたけど、相変わらず何もなかった。

「いない」私は床に座った。

「どこいったんだろう」冷蔵庫から麦茶を取り出し、口をつけないようにしてピッチャーの注ぎ口から直接飲んだ。

「どこいったんだろう」

 いないかもしれないけれど、いるかもしれない。

 私は玉置の言葉を思い出す。可能性の話ですよ、と玉置は言った。しかし実際には、本当にそれがいないことの証明はとても難しい。

「今日は諦めましょうよ」と玉置が部屋に戻ってきて言った。

「いたときにまた対処すれば良いんですから」

「スプレーも買ったしね」

「そうですよ」

「玉置、今日は私、夕飯おごるよ。なんならリードでも買ってあげるよ」

「あ、本当ですか?」

「本当」わざわざ貴重な休日を潰してまで付き合ってくれたのだ。それくらいさせてほしい。

「本当に買ってくれます?」

「買うよ。大丸まで行こうよ。キクヤ楽器がある」

「別に無理しなくてもいいですけど」

「無理してない!! お金、あるもん!!」

「本当ですか? 去年映画の依頼来るまで貯金崩してたじゃないですか」それは本当だった。それに私が作った曲は全然採用されないから、ほとんど歌だけの報酬になる。完成すればどかんとお金が入ってくる一方、それまでは厳しい生活を余儀なくされることも多い。

「まだ不足していないし。いま作ってるんだから」

「へえ?」

「あ、曲はまだ聞かせられないし詳しいことは言えないんだけどね、今、歌詞を作ってるの」

「どんなやつです?」

「一途な恋愛系」

「あははっ」玉置は珍しく声を出して笑った。他人の笑い声を聞いたのは久々な気がした。

「なに? なにかおかしい?」玉置は笑いすぎて若干むせていた。

「おかしいっすよ。先輩、ピュアな恋愛が一番嫌いじゃないですか。昔から」

 けほけほ言いながら、実にかわいくないことを言いのける。やっぱり、こいつは私をわかっている。

「まあ先輩の声を考えたら、そういうの歌った方がマッチしている感じもありますけどね」

 その通りなのだ。神秘的で透明感が持ち味の私の声は本来恋愛系の歌とマッチしやすいのだろう。ただ今までは、特に十代の頃は卒業ソングだとか、夢だとか憧れだとか孤独だとか、そういうのをテーマに曲を作ることが多く、恋愛に関して書いた曲は実はあまりない。

 何度か恋愛のようにも解釈できる曲を書いているが、本当は上京したときの気持ちだとか、不安とか、友達と離ればなれになってしまったこととか、そういうことについてしか書いていない。

「だよね・・・」

 また溜息をつきたくなる。チャーリーブラウン並みの溜息の多さに自分でもうんざりする。

「書けるんですか?」

「わかんないよ、とにかくやってみるけどさ」

「どんな感じにしたいんですか?」

「とにかく、意味とか理屈とかを超えて好きって感じ?」

「あはははは」玉置はまた声を出して笑った。

「なによ」

「先輩って、ほんと、自分を知らないんですね」屈託のない笑顔が、夕日に照らされて、目に焼き付く。

 ほ ん と に ね 。



 私たちはそのあと、駅前の中華料理屋でラーメンを食べた。

「本当にこれでいいの?」

「いいですよ」玉置は遠慮しているというわけでもなく、ただ自然に目の前に座っていた。

「もっと高いものじゃなくてよかった?」

「いいですよ、別に。それより先輩の曲が早く聴きたいですね」

「もう曲は決まってるんだよ、時間があるからさ」

「先輩の恋愛の詞、早く聴きたいですね」

「やめて、そんな風に言わないで」

「事実じゃないですか」

「玉置はその、恋愛の曲とか書ける?」

「俺も苦手ですよ」

「そうだよね」なんとなく安心するが、こっちは仕事なのでうかうかできない。そういえば、玉置には好きな人がいるんだろうか。聞いてみたい気もするが、きっといないって言うだろう。

「出来たら、教えてくださいね」

「そりゃあね」

「・・・・・・」

 沈黙が流れる。店の中では有線放送がかかっていて、夏にぴったりのソフトクリームをパーソナリティが紹介していた。

「「あの」」

 声がかぶる。思わず笑う。

「・・・なに?」

「曲作ったのって、恵比寿ですか?」

 玉置の口からあんたの名前が出てくるとは思わなかった。

 私はあの感覚を、昔初めて、人類が脈々と受け継いできた不思議な、それでいて隠された技術を知ったあの日のことを思い出した。

「そうだけど」


 初めての時は怖くなかったか? と聞かれたら。

 怖かったが、わけのわからないうちに終わっていたから、正直それほどでもなかった。想像していたよりは痛くなかった。血も出なかった。自分の元々も構造がよかったのか、あんたが頑張ってくれたのか、夢うつつの間に過ぎ去ってしまったからか、それはわからない。そのすべてなのだろう。気づいたら私は流れに乗っていて、気づいたら終わっていた。ああこんなもんなのか、と思う安心感、それでも全てを見せてしまうことの恥じらいは消えず、私は微かに震えていた。

 力はなかった。全ての力は消えてしまった。意志による力は消え、私がまとうのは重力だけ。そこに意志はない。はず。

 流れに乗ってからはそうだ。でも、その前は? 

 私の意志だ。

 必ず、流れに乗る前は、ちょっとだけ自分から力を加えなきゃいけない。ちょっとしたことだ。でもそれがすごく大事なのだ。自分からほんの勇気を出すこと。相手を許すと、受け入れたと「決める」こと。あるいは受け入れると覚悟すること。


 本当は私があんたの弱みにつけ込んだんだ。


 当時からよく知っていた。一時期は元アイドルと付き合っていたこともあるあんたのことだ。あんたに気に入られれば仕事運が上がるって、あんたの周りの女の子はみんな知っていた。本当はこんなことをするつもりもなかった。ハマりたくなかった。そんなことせずに、自分の力で歩いて行きたかった。

 どうしてこうなったんだろう。意志とは関係なく、私の足は動く。言い訳はしない。自分から誘ったことだから。あんたは私を拒否した。だめになった才能のある、それでいて綺麗になった花たちを、あんたはたくさん見てきていた。もううんざりだったみたいだ。世界のスピードについていくことにも、もう限界が来ていた。ずっと咲いている花なら良いが、悲しいことに大抵それはあまりにも早く摘み取らねばならなかった。仕事だからと割り切っているようにも思えた。実際にそうしてきたのだろう。しかし今まで手塩にかけて育てた調教場が骨折し、殺処分を余儀なくされた調教師のように、もうすでに出会った頃には酸いも甘いも経験していた。

 本当はあんたは、もう誰にも愛されたくなかった。一人で生きて死んでいくつもりだったのだろう。今だってそうだ。未だに私に、いい男が出来れば良いな、なんて平気で言ってくる。あるいはそれはただの強がりなのか。実際にそうできる力もある。

 あんたも私も、本当はわかっていなかった。気づかないふりをした。言葉に、自分の気持ちに蓋をした。

 どうしようもなく落ちてしまった流れに、まるで予期していなかった展開に、どうしようもない袋小路の中に、私は自ら入っていった。

 どうしようもないのだ。あんたは誰の手も借りずに一人で生きようとしている。私だってそう生きたいと、自分の足で歩きたいと強がっている。全部委ねられたら、全部預けられたらどれだけ心地よいだろうか。

 でも、それはできなかった。そうするべきじゃなかったし、私たちは一人一人で生きていくことを選んだ。ずるい私たちは、私の気持ちに蓋をした。

 わからないよと私は言った。泣きはしなかった。

「ただ、寝たいの」

 率直な気持ちだった。ほんとうにどうこうしたいとか、そんなわけじゃなかった。酷いことを言っている自覚はあった。あんたを傷つけるってこともわかっていた。

「あんたの側で」

「そっか」とだけ、あんたは言った。

「私の意志だから」

「そっか」

 優しく甘い声でささやき、強くて太い腕の中で抱かれた。抱かれてるとき、あんたの血管の走行を私はじっと見ていた。この人は生きているのか、と思った。

 今まで何気なく聞いていた曲を作った人が、今目の前で生きて、私を抱いていた。それは夢と現実が交差するような、不思議な気分だった。ずっと遠くから眺めるだけで触れなかった宝石が、いっきに目の前に転がり落ちてきたようだった。


 私は私の意志で抱かれた。逃げも隠れもしない。言い訳もしない。後悔もしない。自分の本心なんて認めたくない。本当は甘えたくなかった。甘えずに生きれたらもっと、もっと楽だった。

 一人で生きていければ楽だ。もう傷つくこともない。誰かを壊すことも、これから失うこともない。自分の愛が結局某量だったってことに、気づかなくて済む。誰だって傷つきたくない。傷つかないならその方が良い。もっと賢く生きる方法なんていくらでもあった。

 それでも私は、飛び込んでしまった。

 あんたの血管を見ながら、出したこともない声を出しながら、喜怒哀楽のどれにも当てはまらないカオスが押し寄せてくる中、私は自分の意志で流されに行った。これからどうしようとか、そんな打算はなかった。あんたは三十三歳で、人生で一番人が輝く時期にさしかかろうとしていた。

「もし痛かったらちゃんと言えば良い」とあんたは言った。

「怖かったら、好きな言葉を心の中でつぶやけば良い」

「例えば?」

「青々たる春の柳、家園に種ゆることなかれ」

「なに? もう一回、ん、」

「交わりは軽薄の人と結ぶことなかれ」


 そのとき結局あんたが言った言葉を私は覚えられなかった。抱かれているときには何も考えられなかったし、自分の体の感覚が通常よりもずっと鋭敏になっていて、何かを唱える暇はなかった。薄い暗闇の中で浮き出た血管を見ながら、私はあんたがアイドルのために作った曲を思い出した。

 


 恋するアトリエ

 描きかけの下絵 淡いも濃いも

 そのままにしてたのも再び取り出して

 はじめの計画が狂っても

 自分の心が来いというなら

 ずっと素敵に生まれ変わるから




 ・・・・・変な詞。




「恵比寿さんとは会っているんですか?」目の前の玉置が私をじっと見る。

「まあ・・・たまに」

昨日会っていても、一ヶ月ぶりの再開なら、「たまに」。

「恵比寿さんが作詞しないんですか?」

「最終的に判断するのはあの人だよ」

「そうなんですか」

「・・・」

「・・・」

 お互いに私たちは聞きたがっている。お互いの感情を。それでも、答えはお互い目に見えている。

 だから、聞かない。もう玉置と私は、相手が何を考えているのかわかる。それゆえに、口にしてしまって、元に戻れなくなるのが怖い。

 何もかも面倒だなと思うことも、ある。兄弟でもない男女が二人いれば、それは友達か恋人か夫婦か、に分類される。そうやって分類するならば、私たちは「友達」の部類に入る。

 でも本当は、そんなことどうでもいい。私たちはただお互いの音楽を尊敬していれば、それだけで幸せ。そんなことを考えているのは私だけなのだろうか。そんな幸せを望むのは罪なのだろうか。私の音楽を理解してくれて、語り合える相手のことを、私はなんと形容すれば良いのだろう。それでもやっぱり、私は誰かに玉置を紹介するとき、「友人」として、後輩として扱うのだろう。

「楽器のリード、買ってあげようか?」

「じゃあお言葉に甘えて」

 

 

 一週間後、私はなんとか詞を作り、あんたに提出した。私なりに頑張ったつもりだ。けれどこの世界では努力などあてにならない。あんたが良いと言えば良いし、だめだと言えばだめだ。

 その日のうちにあんたから返信は来なかった。

 夕方からは玉置の勤めているバーに顔を出した。半年ぶりに一人で顔を出した。『眠れる美女』の続きを読みながら、私は一人で玉置の演奏を聴いた。

 即興のソロの休符は長かった。でもそれは曲と合っていた。初めは音程を抑えていたが、やがてソロの終わりに近づくにつれ高音域を出し、どんどんと大きさも増していった。

 そういえば高校の頃から、玉置は間奏のアドリブソロで悩むタイプだった。

 「自由にしろって言われたら、」

 まだ制服を着て、首からアルトサックスを提げた玉置が言う。当時から髪がさらさらしていて、その爽やかさが清涼飲料水のCMみたいだと思った。

「なんか逆に悩みません?」

 それはそうだ。でもだからこそ、楽しいのだ。




 ふと携帯を見るとあんたからメールが来ていた。

「何カ所か直すところはある」と書いてあった。最初から全て合格したとは思っていない。徐々に修正すれば良いのだと思う。それこそが私たち、曲を作る者の仕事なのだから。

 そうだ。最初からすべてを目指す必要はない。悩んで悩んで、悩んで最適な物を作り上げる。それが私たち、プロだから。

 あんたはプロだから、ここから先はよろしく。

 私は箇条書きで書いてある修正点に一つ一つ目を通す。


 私はプロだ。だからこそわかる。あんたが必要だ。私はあんたを利用する。

 打算。我儘。甘え。共生と依存。でもそんなの本当は恋愛の基本でしょ?

 

 わかってて進む。ずるい女だ。私はあんたナシじゃ生きられない。

 でもね、必ずいい物は作るよ。だってプロだから。だって、あんたの曲だから。


 窓を開けると夜風が冷たい。夜はこれから。あんたはきっと起きている。

 木々に止まっているカラスたちは常に何かを狙っている。でも彼らには自由がある。

 精いっぱいあんたの曲で、啼いてやるのだ。



(了)


 

 

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【R15】愛なんてただの暴力だって歌って 阿部 梅吉 @abeumekichi

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