窓越しの世界

青蒔

こわいつき

「おつきさまがこわいの」

 妹は泣いた。

 姉は「あら、わたしは太陽の方が怖いのよ」と笑う。「紫外線は女の敵だもの」

 姉妹二人の部屋は真っ暗だった。今日は月が出ていない。二つ並べた布団にそれぞれが横になっている。窓は開いていて、網戸越しに涼しい夜風が入ってきていた。それでもなお、夏のムッとした湿度の高い暑さが緩慢に泳ぐ。ぐぉうぐぉうぐぉうぐぉう。遠くにヒキガエルの声が響いている。おおかた家の裏手の雑木林だろう。

「そうじゃないよ」

 妹は姉の布団に潜り込む。姉は肌のふれあうジットリした不快感を感じつつも、妹を胸に抱きしめてやった。

「おつきさまはね、ごほんにのってたの」

「あのお月様が落っこちてくる絵本ね? 大丈夫よ。お月様は地球の周りをぐるぐる回っているだけよ」

「ちがうよ、おねえちゃんのごほんにのってたの」

 姉は自分の机を見る。新本格推理小説や大人気SF映画のノベライズ、野草図鑑や爬虫類・両生類のすべてを謳う図説、安っぽい小学生のころに買ったホラー漫画などが並ぶなかに天体の図鑑を認めた。

「わたしの本はまだ難しかったんじゃない?」

 姉は妹の頭を撫でる。汗で湿っていた。涼しい風に乗って、ヒキガエルの鳴き声が部屋に入ってくる。

「ちがうよ。おつきさまがくるよ。おねえちゃん、はやくにげないと、たべられちゃう」

「お月様は私たちと違ってごはんは食べないのよ」

 妹は泣きべそをかいて、涙や鼻水で姉の寝衣を濡らす。姉はいよいよ暑さに耐えかねて、妹を離し、布団を退けた。

 ぐぉう。ヒキガエルの鳴き声が一際近くで聞こえた。庭先にでも迷い込んだのかもしれない。

 網戸の外に白い光が反射したのが見えた。濡れた光が揺れている。

「おねえちゃん、おつきさまがきたよ」

 妹はいつの間にか泣き止んでいた。立ち上がり、窓の方へ歩いていく。

「なにを言っているの。今日は新月よ。お月様は来ないわ。早く寝ましょ」

 姉は眠い目を擦る。立ち上がって、妹を布団に戻そうとする。妹が窓の外を指さした。

「あれがおつきさまだよ」

 ぐぉうぐぉう。ヒキガエルが鳴く。窓の外を覗き込む姉。

「だから今日は月なんて出てないんだって」

 姉は網戸を開ける。月は見えない。そのかわり、ぬるりとした白い光がぐぉうぐぉうと蠢く。窓の外には、何十、何百にも及ぶ大量の音がひしめいていた。

「ひっ……なにこれ……」

 姉は窓の外を凝視し続ける。脚がすくんで動けないようだった。

「おつきさまたちがおねえちゃんをたべにきたんだよ」

 妹は平坦な声で答える。ぐぉうぐぉうぐぉうぐぉう。ヒキガエルの声で妹の声が遠くなる。

「おね──ゃん、おおきべりあおごみむし──るよね」

 姉はヒュッと息を呑む。

「おねえち────らすではひきが──のおたまじゃ──かってた──よね」

 姉は耳を塞いで蹲る。

「おねえちゃ────いそうにおおきべりあおごみむ──れたんだよね」

 姉は床にへたり込む。

「おねえちゃんはおたまじゃくしをころしたんだもんね」

 ぐぉうぐぉうぐぉうぐぉう。

 ヒキガエルがひしめき、鳴き、家が揺れる。姉はガクガクと震えている。

「おつきさまはね、おねえちゃんにおこってるんだよ」

 窓の方からの音が変わった。

 ボタボタ、ボタボタ。湿った柔らかな物体がぶつかり合うような音だ。

 ヒキガエルが跳んでいる。そして家の壁にぶつかり、落ちて、下のカエルに弾かれているのだ。

 ぼたぼたぼたぼたぼたぼた。徐々に音の密度は高くなっていく。轟音が家を震えさせる。

「いやよ、わたし、わるいことなんか」

「おねえちゃんはおつきさまのこどもをころしたんだよ? しかたないよね、いんがおーほーっていうんだよね。おねえちゃん」

 妹はうっそりと微笑む。

「おつきさまをこのへやによんできてあげるね」

 ひたひたと素足で妹は部屋を出て行った。

 ぐぉうぐぉうぐぉうぐぉう。

 べたべたべたべたべた。

 ぼたぼたぼたぼたぼた。

 カエルの鳴き声が、足音が、近づいてくる。部屋のドアのすぐそこにいる。

「おねえちゃん、あけるね」

ぐぉうぐぉうぐぉうぐぉう。

つきが鳴いている。

 

 

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