吐息のお茶菓子
カミレ
志賀宮りさのお茶菓子
なんてことのない、変わりない日常。
レースカーテン越しに斜陽が差し込み、影を濃くする。
ぱた、とスリッパが乾いた音を立てる。
ベッドの上にスマートフォンを投げ置き、足元に落ちていた髪ゴムを拾う。
ずいぶんと散らかった部屋を眺めながら髪を後ろにまとめて結っていると、ふと、冷蔵庫の上の見慣れない箱に気がついた。
箱の上に指先を置くと、さらりとした包装紙の材質を感じられる。
今の今まで失念していたこの箱は、ついこの前会社で受け取ったものだ。
上目遣いで手招く後輩が、手に下げていた紙袋の中身。それが、これだった。
姉が和菓子屋の店舗で働いているのだと、これに飽きているのがよくわかる表情で教えてくれた。ひとりで食べるには量が多いかもしれないと紙袋の大きさから感じ取ったが、後輩のあまりの必死さに、「ありがとう」と微笑みを向けて、それでーー、
順調に記憶を辿っていた私は、どこかひっかかりを覚え、眉を寄せた。
……あのとき、なにか念を押すように言われた気がする。
眉間のシワをそのままに考えこみ、数秒後、短く悲鳴を上げる。
焦りに吹き出した汗が首元を冷やす。
素早く箱を回転させながら目を通し、数字が今日を示していることを確認して、そして、胸を撫で下ろした。
かさついた手先がじわじわと温まる。湯気の立つマグカップを傾けて、一口分すする。想像通りの苦さに顔をしかめた。
以前、出張先のビジネスホテルからいただいてきた、粉末タイプの煎茶だ。小袋のためか賞味期限が見当たらなかったけれど、大丈夫だろう。
香りも色もおかしくないのだし、と心の中で付け足して、先ほどすすった一口分を飲み込んだ。
包装紙を破り、箱を開けると、説明書を支えるように五つの袋が縦に並べられていた。気のせいかもしれないが、もうすでに微かに甘い匂いを感じる。
ひとつを持ち上げて手のひらに乗せてみると、餡の重さがずしりと伝わってくる。袋の透明な部分を見てみると、やわらかなきつね色の生地がのぞいていた。
とても美味しそうなのに、この袋を開ける気になれない。
箱の数字を思う。数字は、今日を示していた。ただ、年を表す二桁の数字が、どうもしっくりこない。たったひとつ繰り上げられただけなのに、それだけなのに、どうしてこんなにも違和感があるのか。
短い振動音と同時にスマートフォンの画面が点いて天井を青白く照らす。
手のひらの上の袋と二桁の数字を視界に入れたまま、片手を頬に添え、ため息を漏らした。ふわりと水蒸気が揺れて、視界がぼやける。
頬から手を離し、目の前に漂う水の粒を撫でようとしてーー私の手は惜しくも空を切った。
驚きに声も出ないとは、こういうことなのかと数回瞬く。気を取り直してもう一度、水の粒に手を伸ばしてみる。すると、やはりというべきか。つい先程と同じように、この、ため息だったものは、嫌がるように私の手を避けた。
思考を止め、薄く、苦い笑みを浮かべる。
ため息だったものは、だんだんと境界線がくっきりしてきて、一人でに動き出した。
どうして動くのかはわからないし、なぜ白いままなのかもよくわからないが、とりあえず、この「ふわふわ」は愛らしいと思えるような姿形になった。
「ふわふわ」が、うろうろと彷徨うように動く。しばらくはそうしていて、急に動きを止めた。
何かに気づいたようだ。手のひらに近づいてくる。
私は求められるままに手のひらの上の袋を開けてやると、「ふわふわ」が喜んでちょこまか食べていく。
白いモヤの中に生地が消えていく様子は、まるで魔法のようだった。どういう仕組みなのかはわからないが、タネも仕掛けもないのは確かで、でも不思議と怖くはなかった。
生地の間に挟まれた餡が姿を見せて、だんだんとその面積を減らしていく。やがて餡がなくなって、生地が三日月型になり、少しずつ欠けていって、すべて無くなった。
食べ終えた「ふわふわ」は満足げにふうと一息つき、喜びを表すようにくるくるとつむじ風のように回転して、そして、私の目の前で掻き消えた。
夢見心地のまま、空の袋と脱酸素剤を指でつまんで持ち上げる。口の中はまだ苦い。最初の一口しか、お茶を飲んでいない。口の中は、全く甘くない。だから、この袋の中身を私は口にしていないわけで。
ーーため息が動き出して、お菓子を食べるなんて。
「……へんなの」
そのへんな「ふわふわ」を、私はかわいいと思った。
力が抜けてしまって、どうしようもなくて、笑う。乾いた笑い声が、わんわんと響く。音が、自分からしか発されていない。むなしい。一人でこんなことして、バカみたいだ。何をやっているのだろう。
急速に現実に引き戻される。口元を引き結んで、指でつまんでいたものをゴミ箱に入れて、ベッドの上のスマートフォンに手を伸ばす。
パッと画面に表示されたのは、個性のあるスタンプと、あたたかな文字たち。
乾いていたものが潤み、喉がひくりとする。
気づいたときには、スマートフォンを耳元に当てていた。ほとんど無意識のうちにそうしていた。
コール音を聞きながら、あれこれと考える。でも、どれも違う気がした。唐突にコール音が止む。そして、相手の「もしもし?」に私の声をかぶせた。
「……ひとりは、さみしいよぅ」
するりと口から出てきた言葉が妙に湿っぽくて、自分のことなのに、やっと気づく。わたしはずっと、さみしかったのだ。
堰を切ったようあふれだす感情を抑えようという気すら起きず、ただ思いを全て口から垂れ流す。もしかしたら、途中で恥ずかしいことを口走っていたかもしれない。でも、それに気を回す余裕がなかった。
それほどに、わたしは。
湯気の立たないマグカップと、またもや忘れられた袋四つが身を寄せ合っていることに、私はまだ気づかない。
志賀宮りさ《さみしがりや》のお茶菓子
吐息のお茶菓子 カミレ @kamile_cha
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