HAP72

吉川 卓志

父は、64歳と言う微妙な年齢の記念といって私を食事に呼んだ

父は、64歳と言う微妙な年齢の記念といって私を食事に呼んだ。微妙とは本人の談だ。それはまた、誕生日の日付が数日違いの私の記念としても意味が有るとの事。

私は仕事の後、待ち合わせ場所の日本橋木屋に行った。


父には色々と奇妙な趣味が有り、時々包丁を買う事もそれだと思う。一人暮らしの一般家庭に10本以上、それも形も大きさも大体同じくらいの物ばかり有るのはどう考えても変だ。

しかし、今日は私にも一本買ってくれると言うのでそれは嬉しかったからのこのこ買い物に付き合いに出てきた。


 父は、店の中にいて、並んだ商品を眺めていた。しばらく背中を見ていたけれど、ほとんど動かない。買う物はもう決まっているようだった。

「ねえ、この辺りはマスプロダクションでしょう?  あっちの、手作りので無くていいの?」

私は久しぶりに会った挨拶より先に、そこにいた父に尋ねた。

「やあシヨ、それはちょっと説明が難しい質問だね。

答えは凄く複雑でどこから話せばいいのかなあ。

後で話すから、今は選ばせてくれる?」


結局その、見ていた包丁を買った。

この店はサービスで、買ったその場で刃を研いでもらえる。私たちはその砥石の上を緩やかに撫でる儀式めいた研ぎの実演を眺めた後、プレゼントと言う事で包んでもらって店を出た。



 予約のレストランに来ると、壁際にある二人掛けの小さなテーブルに通された。

父は奥まった場所は落ち着くと言ったが、厨房が近く従業員がよく通るそこは実際は落ち着かないように思えた。

しかし、そう言ったらその分オーダーは出しやすいと返された。人が通る事は無視できるし、それに必要な時に必要な事がかなえられる方が落ち着くだろう?と。


この席からは店内が一望できる。あそこに大勢固まっているお婆さんは何のグループだろう? 人の会話と食器が出す音、そして厨房の中での会話が少し聴こえる。



 料理をオーダーするとすぐ、父は話し始めた

「覚えているかな、僕が料理をし始めた頃。

あのころは料理がほぼ初めてだったので、勝手が分からなかった。包丁は家に有るママが使っていた物を、研いでは見たけれど全然切れなくて、今思うと悪い事をしていたね。


それで近所のホームセンターで買って来たのは貝印のやつで、今でも覚えている。なかなかいいと思ったよ。

でも、これがこの位なら、他はどんなのかな、と気になり始めてね。京セラのセラミックとか、ヘンケルの安いのとかグローバルとか、次々に買ってみたんだよな。


新しいのを手に入れた時は、最初はちょっと興奮したよ。素晴らしい切れ味、とか、グリップのデザインが使いやすいとか。

でも、また別の物が欲しくなる。


欲しくなるというのかな、新しいのを手に入れるとそこで、自分がもう一人分分裂したようになってね、そのもう一人の自分がまた新たな世界を求め始めるんだ。

今度は自分が未知のメーカーの包丁で、もっと凄い料理を作るぞ、と。


最後はショウケースに入っていた関のやつかな。結局1年間くらいでその店のほとんどの包丁を買ったね。砥石もその店のは全部買って揃えたよ」



前菜が届いた。私は口をはさんだ。

「でも、物欲は収まらなかった訳ね?

アマチュアゴルファーが次々に、あの、あれ、あれを欲しがるみたいに」

私は両手でこぶしを作ってひゅっひゅっと、回した。名前が出てこない。


「うんまあ、そうかもしれないし、違うかもしれない。要らない包丁はどんどん人に上げていたから、物が欲しいと言う訳でも無かったかもね。

尤も、新しい物を次々欲しがるのが物欲と言うのならそうかもしれないなぁ。


それでね、さっきの手作り包丁の話だけれど、単純にそれが良いとは言えないんだけれど、今でも昔の鍛冶屋みたいにこう、ハンマーで叩いて作っている人がいる。

でね、やっぱりそういうのが一本欲しくなって、今は無くなってしまったけど、その時は有った渋谷の包丁専門店に行った。

値段は、打ち物だと凄く高いと思っていたのだけれど、実は思ったほどでも無くて、いや高いのは本当に高いよ。でも、普通のは普通に買えた。お店の人の勧めで買ったのはハイス鋼の手頃な牛刀で、別段どうと言う事の無い物だった。


でもこれが、何というか、普通ってこういう物の事を言うんだと初めて分かった感じの普通さでね。あれほど、気が狂うかと思うほど思っていた包丁の事を、忘れさせてくれた。台所に立っていて、まるで分裂していた自分が一つに纏まったように感じた。初めて、ごく普通の作業として、料理を作ることに集中する事が出来たんだ。


その包丁は3年くらい使って、その間は他には何も買わなかったな。でも柄がなんか錆びて来てしまって、同じのが欲しいと思ったけれどもう作ってないって言われた。

でも、その時にはもう拘りは無くて、全く同じものが欲しいと言う訳でも無かったんだ。今度は似た物、正確には今度はちょっとイイやつを買って、それでまた随分長い事満足に使っていた。


ねえシヨ、満足って言うのは面白いものでね、高級品を持つ喜びや興奮では無いんだ。

しかし妥協でも、我慢でもない。

満足はやはり、満足以外の何物でも無い。


まあ、満足行く物は結果的に高級品になるのだけど。

今日買ったのもHAP72という最新のハイス鋼でね、良いと思うよ多分」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

HAP72 吉川 卓志 @Lolomo

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ