紫眼の少年は走り続ける
マツモ草
第一章 少年編
第1話 空が燃えた夜
数多の国がひしめくとある世界。
その世界に存在するフロンタリア公国と呼ばれる小国の、山奥のそのまた奥に広がる森林に、エンビ村という公国の地図にも載っていない人口僅か二十人程の小さな村があった。
森の木々が色づく晩秋の夕暮れに、その村の畑で一人の少年が自分の身長ほどもある芋の蔓と格闘していた。
「おーーーい」
村の外から呼びかけてきた声に少年が顔を上げると、森の向こう側に沈みゆく夕日を背に三つの人影が手を振りながら歩いてくるのが目に入った。
朝から狩りに出ていた少年の父親達が帰ってきたのだ。
それを目にした少年は満面の笑みを浮かべると、今まで格闘していた芋の蔓を手放し、勢いよく走り出して三人に駆け寄った。
「兄さん、父さん、ハンスおじさん、お帰りなさい!」
少年に兄さんと呼ばれた、少年より頭一つ背の高い人物が少年の頭をガシガシと撫でながらニコッと笑った。
「ただいまアーベル、ちゃんと母さんの手伝いしてたか?」
「うん、ちゃんとお手伝いしたよ!お芋をいっぱい掘ったんだ!」
アーベルと呼ばれた少年はそう答えて、両手を突き出して泥だらけの手のひらを広げると、背の高いがっしりとした、少年が父さんと呼んだ黒髪の人物を見上げた。
「そうか、偉いなアーベル、じゃあ今日の夕飯はシチューにしてもらうか」
アーベルの父親はそう言って笑うと、手にぶら下げていた獲物をアーベルに突き出して見せた。
「わぁー、ウサギが三羽と鳩が六羽も!」
「ああ、しかもウサギは全部ケインが仕留めたんだぞ」
「すごーい!兄さん一人でウサギを三羽もだなんて、本当にすごいや!」
アーベルは憧れの兄が一人で挙げた成果を聞いて、自分の事のように嬉しく、そして誇らしく思い、感嘆の声をあげた。
「今日はたまたま運が良かっただけだよ」
ケインと呼ばれた少年は少し照れくさそうな笑顔を見せると、アーベルの頭をまたガシガシと撫でた。
「いや、ケインの弓の腕はかなりの物だ。弓に関してはすでに儂よりも上かもしれんぞ?」
そう言って豪快に笑ったのは小太りで口ひげを生やしたハンスと呼ばれた人物だ。
「いや、俺なんかまだまだです。飛ぶ鳥を射ることは父さんやハンスおじさんみたいにまだ上手くできませんし......」
「いや、その目であれだけできりゃ......って」
そこまで言ってから、ハンスは自分の失言に気づいたように少し慌てた顔を見せた。
兄であるケインの右目は生まれつき殆ど物が見えない。
母と同じ赤い瞳の左目は普通に見えるのだが、紫の瞳を持つ右目はうっすらとしか物を見ることが出来なかった。
弟であるアーベルは父と同じブルーの瞳である右目は普通に見えるが、紫の瞳を持つ左目が見えない。
「おじさん、気にしないでください。俺が、俺達が努力するように神様がこの目を与えてくれたと思ってますから」
ケインは同じ紫の瞳を持った弟のアーベルをチラッっと見てから、明るい声で答えた。
「あぁ、そうだな......悪かったなケイン」
そのやり取りを黙ってみていたアーベル達の父親はそっとケインの頭に手を置くと、空気を変えるように一層と明るい声を出す。
「ほら、二人とも!母さんが一人で大変だから手伝ってやれ」
アーベルとケインが背後の畑を振り返ると、二人の母親が芋がいっぱい入った重そうな籠を引きずるようにこちらに向かって歩いてくるのが目に入った。
「ホントだ、行こう、アーベル!」
「あっ、待ってよー」
ケインが母親の元に向かって走り出しすと、アーベルも兄を追いかけて慌てて走り出した。
「すまんな、アダン」
元気よく走っていく兄弟を見ながらハンスはバツが悪そうに呟いた。
「いや、いいんだ。お前に悪気が無いことは二人も分かってるし、ケインが目の事を前向きに考えようとしてることでアーベルも自然と前向きに捉えているようだしな」
「そうか、なら良いんだが......それにしても二人ともいい子に育ったな。」
「ああ、そうだな」
「じゃあわしは鳩を二羽とウサギを一羽貰っていくな。ケインにお礼を言っておいてくれ」
そういうと、ハンスは軽く手を挙げて自分の家に向かって歩いて行った。
「努力するように神様が与えてくれた。か」
妻の元に駆け寄った二人の息子が重そうな籠を協力して運ぶ姿を見つつ、ずっと胸に抱いているいずれ災いが訪れるかもしれない予感を振り払うようにそう呟いた。
♢♢♢
村に冬が訪れようとしていた。
世界から取り残されたようにひっそりと存在するエンビ村も白い雪に包まれていく。
「えっ!本当に?」
アーベルは父親のアダンの言葉を聞いて食事中にも関わらず大声をあげて腰を浮かした。
「ああ、アーベルも春になったら11歳だろう?そろそろ狩りに連れて行っても良い年齢だからな」
「僕も、狩りに......」
三歳年上の兄は優しくて何でもできる。アーベルの憧れだ。
そんな兄や父と一緒に狩りに出ることは、アーベルがずっと待ち望んでいた夢だった。
いつかは兄さんと二人で狩りができるようになって、父さんと母さんが二人でゆっくり過ごせる時間を作ってあげたい。
その為に小さいころから毎日、弓やナイフの練習をしてきたのだ。
「良かったなアーベル。俺も一からしっかり教えてやるからな」
隣に座っていた兄のケインがアーベルの背中をポンポンと叩いて席に着くように促しながら祝福してくれる。
「良かったわね、アーベル。でも父さんやケインの言うことをちゃんと守って危ないことはしないでね」
向かいに座っている母のエウハは少し心配そうな色を浮かべつつも、まだまだ小さい子供だと思っていたアーベルの成長を祝福した。
いつか来ると期待していたその時がとうとう訪れた事を知らされたアーベルは、喜びと興奮で食事どころではなくなり、今すぐに弓の練習をしたくなってまた席を立とうとする。
「アーベル、嬉しいのは分かるが少しは落ち着け。春まではまだ時間があるし、それまでは俺と弓やナイフの練習を続けよう」
弟の喜び様にケインは苦笑しつつも、その喜びを自分の事のように感じたのか、また優しくアーベルの背中を叩いた。
「その前にアーベル、明日はケインと一緒に薪割りを頼んだぞ」
喜び浮かれるアーベルに、落ち着けと言わんばかりに父アダンが薪割りを告げる。
「え~っ!」
一日中斧を振るう薪割りは体の小さいアーベルにとって苦手な作業だ。
さっきまでの喜び様はどこへやら、急にしょんぼりしたアーベルを見て、家族全員が笑った。
時々厳しいけれどしっかりした父、心配性だが優しくていつも笑顔の母、そしてアーベルにとって憧れであり目標でもある兄。
そんな家族に囲まれて、子供のアーベルにはこの幸せがいつまでも続くと信じて疑うこともなかった。
♢♢♢
翌日、朝から薪割りをしていたケインとアーベルだったが、冬の太陽が足早に森の向こう側に隠れようとする頃、急に斧を振るう手を止めてしばらく東の空を睨んでいたケインが口を開いた。
「アーベル、何か感じないか?」
一日中斧を振るっては薪を運んで、を繰り返していたアーベルは、疲れ切った顔を上げてケインを見た。
「何か?何かって何?」
「ほら、左目に意識を集中してあっちをよく見てみろ」
そう言ってケインが東の空に向かって指を指した。
アーベルはケインの言っていることが分からないまま、言われた通りに右目を瞑って左目だけに意識を集中して東の空を見つめた。
紫の瞳に映る光景。
それは数年前に兄のカインが教えてくれた不思議な世界だった。
殆ど見えない紫の瞳だけを開き意識を集中すると、徐々にモノクロームの世界が見えてくるのだ。
暫く左目に意識を集中しながら東の空を眺めていると、いつものように薄っすらとモノクロームの景色が浮かんできた。
アーベルが紫の瞳にさらに意識を集中すると、そのモノクロームの世界に白い光の粒が流れているのが徐々に浮かんでくる。
それは夜空いっぱいに星々が集まり、うねり、川の流れのように蛇行したり渦を巻いたりして流れていくような錯覚に囚われる程に幻想的な景色だ。
「なんかおかしくないか?」
アーベルと同じように紫の瞳で東の空をじっと見つめているカインは誰ともなく呟いた。
そう言われてみると、アーベルにもいつもと違うように感じてくる。
普段見る光の川はモノクロームの世界を埋め尽くすように広がりつつも、規則性もなくゆったりと流れているのだけど、今日は光の川が東の空に向かってゆっくりと吸い寄せられるように流れていた。
初めて目にする光景にアーベルは少し胸騒ぎがした。
「うん......光の川が東に向かって集まってる?ような気がする」
アーベルの言葉を聞いて暫く考えるように東の空を見ていたカインは両目を開いた。
「アーベル、薪割りは終わりだ。一応父さんと母さんに伝えておこう」
♢♢♢
その晩の夕食後、子供たちが寝室に入った後にアダンは書棚の奥にしまっていた一本の剣を取り出す。そして埃をかぶった鞘をゆっくり引き抜くと、ランプの明かりを反射して鈍く光る青白い刀身を見つめた。
いずれこんな日が来るかも知れないとは思っていたが......
アダンがそんな思いに耽っていると、お茶を入れて戻ってきたエウハがアダンの前にお茶を置き、テーブルの向かいに座る。
「やっぱり、そういう事なのかしら......」
アダンはポツリと呟いたエウハに目をやった。
少し俯いた彼女の白磁のような白い胸元を金色の長い髪がサラサラと流れ、まだ二十代前半程に見える整った顔立ちを彩るルビーのような深紅の両目は、不安を隠せないままに憂いを帯びていた
「......いや、まだ分からん。こちらの場所が知られているとは限らないし、仮に知られていても二十年近く前の話だ、今更用があるとは思えないがな」
アダンもエウハも子供たちが見えるという光の川を見たことがないが、それが何を意味するのかを朧気ながら理解していた。
だから子供達が見たと言う、その光の川の異常に不吉な予感を覚えていたが、そんな不吉な予感を振り払うようにアダンは勢いよく剣を鞘に納め立ち上がった。
「とにかく用心するに越したことはないだろう。俺は今からハンスの所に行ってくる。エウハは子供たちを見ていてくれないか?」
「ええ、分かったわ。」
「......所でアレはまだ使えるのか?」
「余り自信はないけど、大丈夫だと思うわ」
「じゃあ、いざというときは子供達だけは」
「分かってるわ、ごめんなさい、私のせいで今更こんな事に......」
そう言ったエウハの目から光るものが零れだした。
そんなエウハをアダンは優しく抱きしめる。
「君のせいじゃないさ、俺達みんなが決めたことだろう?それにまだそう決まった訳じゃ―――」
アダンがそう言いかけたとき、耳をつんざく様な轟音とともに真っ暗だった窓の外が真っ赤に染まった。
「くっ、エウハッ!子供たちを頼む!」
悪い予感が当たったと思いながらも子供達の事をエウハに託して、アダンは剣を握りしめて部屋から飛び出した。
♢♢♢
突然起こった轟音に薪割りで疲れ果てて眠っていた兄も弟も目を覚ました。
いったい何の音だろう......
まだ完全には眠りから覚めていないアーベルがそんなことを考えていると、隣のベットからケインの声が聞こえた。
「アーベル、起きて靴を履いておくんだ!」
隣を見ると、ケインはすでに靴を履き終わろうとしている。
アーベルも慌てて靴を履こうと起き上がったとき、部屋の扉が勢いよく開いてエウハが飛び込んできた。
「二人とも無事ね!すぐに靴を履いて―――」
その時、再び窓の外が真っ赤に染まった後に先程以上の轟音が連続して鳴り響いた。
「アーベルっ!早く靴を!」
今まで聞いたことのない声色のケインに急かされたアーベルが慌てて靴を履き終わったその時、開け放してあったドアの向こうから焦げ臭い煙の臭いが部屋に立ち込めた。
ケインが部屋の入り口を見ると、廊下にはすでに薄っすらと煙が広がっているのが見える。
「母さん火だっ!」
外がどうなっているかは分からないが、このまま家の中に居るのは危ないと判断したケインは、エウハとアーベルの手を取ると煙の立ち込める廊下を急いで突っ切り、二人を連れて玄関から勢いよく飛び出した。
外に飛び出した三人が目にしたものは、漆黒の夜空を埋め尽くすように広がる赤い流星が雨のように降り注ぎ、地面や村の家々に落ちては轟音を立て、炎の柱を噴き上げている光景だった。
だが炎の流星は村の中だけに落ちているようで、村の外周を囲む森には火の手が上がっていなかった。
それを見たエウハは迷った。今アレを使うべきかを。
だけど無事に森に逃げ込めればアレを使わなくても子供達だけは無事に逃げられるかもしれない。と。
そう判断したエウハは二人に森に逃げるよう言うと、ケインが握りしめている手をそっと放した。
「母さんは?!母さんも一緒にっ!」
「母さんも父さんを探してからすぐに行くから心配しないで」
「じゃあ俺が父さんを探して―――」
エウハはゆっくりと
「ケイン、アーベル......」
「母さん......いったい?父さんは?」
ほんの数秒、そうして二人を抱きしめていたエウハはケインとアーベルの顔を交互に見つめると、二人の手を取って握らせた。
「あなたはお兄ちゃんでしょ?......だからアーベルの手を離さないで。ケインはアーベルを守ってあげて。アーベルはケインを助けてあげて。約束よ」
「母さん?」
「......母さん」
エウハはゆっくりと二人から離れると、二人の背中をそっと押した。
いつもと同じ笑顔のまま。いつもと同じ優しい深紅の瞳から涙を零しながら。
「走りなさいケインっ!走りなさいアーベル!」
母の様子に押されて、ケインはアーベルの手を引いてゆっくりと走り出した。
もう二度と父さんにも母さんにも会えないかもしれないという予感に胸を圧し潰されそうになりながらも、今アーベルを守るのは自分しかいないという想いがケインの身体を少しづつ前に進めた。
エウハが少しずつ離れていく子供達の背中を瞳に焼き付けるように見つめていたその時、ひと際大きな爆発音が響き渡り、エウハが背後を振り向くと炎の壁の向こうから二つの人影が吹き飛ばされて人形のように転がるのが目に入った。
一人は焼け焦げて原型を留めていない大盾を持ったハンスで、すでにこと切れているのか、大きく見開いた瞳は力なく空を見上げたまま微動だにしない。
そしてもう一人はアダンだった。
アダンはよろけながらもゆっくりと立ち上がるが、左腕は焼け焦げて肘から先は欠損し、右手に握った剣は半ばから折れていた。
そして、アダンの先、炎の壁の向こうから五体の黒い影が滑るようにゆっくりと姿を現した。
「あなた!」
その声にゆっくりと振り返ったアダンの目に、涙を流すエウハと遠ざかっていく子供達の小さな背中が映った。
アダンはエウハに向かって微笑み返しながらゆっくりと頷くと、再び黒い影に向き直ってゆっくりと歩み始める。
エウハは再び遠ざかってゆく子供達の方に向き直った。
十数秒あればアレを使える。その十数秒は必ずアダンが何とかしてくれるだろう。
そしてエウハはゆっくりと右手を伸ばした。
♢♢♢
兄に引っ張られながら走り出したアーベルは、自分達に何が起こっているのか理解できなかった。
ただ、ギュっと握りしめられた手の熱さに、雪に足を取られながらも懸命に前に進もうとしていると、背後でひと際大きな爆発音がして二人の背中を明るく照らした。
アーベルが思わず振り返ると、こちらを向いて立つ母の姿と折れた剣を持つ父の後ろ姿、そして炎の前に立ついくつかの黒い影が浮かび上がった。
「母さん!父さん!」
その時、母がこちらに向かって突き出していた右手に淡いブルーの光が灯り始め、それを見たアーベルは思わず立ち止まろうとして速度を緩めてしまったことで足がもつれた。
「あっ!」
その瞬間、固く握りしめていたケインとアーベルの手が離れていき、二人は炎の光でオレンジ色に染まった雪の上に転がるように倒れこんだ。
「アーベルっ!!」
自分を呼ぶ兄の声を聴いて顔を上げたアーベルの視界に、転んだままアーベルに向かって手を伸ばすケインの姿が映る。
「兄さん!」
アーベルが兄の手を取ろうと手を伸ばしたその時、淡いブルーの光がアーベルを包み込み、アーベルの意識はそこで途絶えた。
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