第30話 きらめく湖のほとりで4

 青い湖は空の色だった。人工湖は藻も少なくそれほど深いわけではない。透明な水底には白い砂地が広がっていて、それが光を反射してこの美しい色を作っているのだ。

 激しい水しぶきととんでもない衝撃のあと、私の世界は無音で穏やかな青一色になった。心地よく、美しく、あの日のシェリルベルのようだ。私の新しいシェリルベルの思い出。甘い甘い甘い蜂蜜みたいな時間。目の前に、全銀河の憧れを詰め込んだような笑顔が広がった。


「ウィル」


 言葉にした途端、猛烈な勢いで水が体内に侵入してきた。そうだった、ここは水中だ。弾き飛ばされたんだった。ようやく頭が回転し始める。けれど痺れきった体には力が入らない。それでも固く握ったままの手が解けることはなかったようだ。私は燃えるように熱い自分の左手を見た。それだけは届けたい。

 と、目の前に真っ赤な流れが広がり始めた。私の血だ。けれど私はそんな光景に腹をたてる。


(綺麗な青の中になんてこと。情緒がないわ、無粋なことこの上ない!)


 こんな綺麗な色に、ウィルの瞳みたいな色の中に……と怒りが沸騰したのは一瞬で、急速に意識も体も気怠くなっていく。ぶくぶくと立ち昇る泡が命の危機を伝えていたけれど、不思議と怖さも苦しさもなかった。私は自分が突き飛ばしたウィルのことを想った。


(きっと大丈夫ね。ちょっと押されたくらいでどうにかなるような人じゃない。それでもどこかしら打ち付けたでしょうね。ごめんね、腰かしらお尻かしら。痛くて涙目になったかしら?)


 自分のくだらない発想がおかしくて、私は笑った。ゴボゴボとまた水が侵入してくる。胸が押しつぶされるようだ。気が遠くなっていく。これはずいぶんと厄介なことになったみたいだと、人ごとのように思う。

 そんな私を綺麗な青が慰め続ける。私はまたとりとめもなく思った。


(ボス、だから言ったのに……訓練がもっと必要だって。いざという時にはこれじゃあダメなんだから。帰ったら、絶対にコース登録しますからね!)


 水温がまた一段下がったような気がした。深くないと言ってもそれなりではある。上空の青が小さくなれば、さすがに心細くなった。そんな悠長なことを言っている場合ではないのだろうけれど、どこかでこれも運命なら仕方がないのだと思う自分がいた。


(嫌だ、私ったらそんなに運命論者だったかしら?)


 ついに意識は混濁し、ひどく眠くなってきた。それでも目の前には弾けるような、輝くような笑顔がちらついて離れない。顔面高偏差値を放棄して無邪気に笑っているというのに、さらなるときめきを誘発させてしまうひどく罪作りな人。


「ウィル」


 愛しいその名前を口にすれば、ついに青が見えなくなった。ぐっと体が重くなり、深く深く奥へと引きずり込まれていくようだ。


(ウィル、ウィル……。もう一度、あの笑顔が見たかったなあ。いや、あの声で呼ばれたかった。甘く甘くとろけるような、耳をくすぐるあの心地よい低音で)


 そう思った時、誰かに呼ばれたような気がして意識が浮上する。反射的にかっと目を見開いた。……そこには嘘みたいな光景が広がっていた。

 夢を見ているのだろうか。真っ青な空を背景に、青い無数の泡をまとって、都会的なスーツを着たウィルがいた。磨き上げられた革靴もそのままに、湖の中でも一分の隙もない男前。アッシュブラウンの髪も、シェリルベルみたいな瞳も、ゆらゆらと溶け込む青を映して例えようもなく綺麗だ。

 

(ねえ、そんないいスーツ、濡らしちゃって大丈夫なの?)


 どうでもいい疑問が浮かび上がった直後、私は急に心配になった。


(ねえ、どうしてあなたがここにいるの? 泳げないって、水中じゃ体が動かないって言ったよね? だから水は避けてるって。なのにどうして?)


 言いたいことは山のようにあるのに、体が重くてどうにもならない。それでも無意識にウィルに向かって手を伸ばした。動いたかどうかは定かではない。けれど、伸びてきたウィルの手が私を掴み、硬いものに額をぶつけたかと思ったら、眩しい光の下に放り出された。


 本能で空気を吸い込んだ。吸ってむせて吐いて、吸ってむせて吐いて、激しく咳き込んで……、自分の心臓の音だろうか、耳の中にどくどくと大きな音がして何も聞こえない。けれど、私の腰に回されているのは紛れもなく血の通った肉体で、力強く私を抱きしめて前進していく。

 思ったよりも岸から離れていなかったようだ。いや、相当あったのに、ウィルが使ったこともない潜在能力で泳ぎきり、連れて戻ってくれたのか。どちらにせよ、私たちは無事岸辺にたどり着き、濡れた体を夏草の生える地面へと引き上げた。

 眩しくて目が開けられない。今まで感じていなかった痛みがどっと押し寄せてきて口もきけない。ただ、水から解放された耳は、ようやく世界の音を拾えるようになっていた。まぶたの裏の血管のせいなのだろうか、まだ強い日差しのせいなのだろうか、とにかく世界は真っ赤なままだったけれど、鳥のさえずりも、遠く救急隊のサイレンも、梢を揺らす風の音も聞こえた。そして何よりも、冷たい水の中でずっと求めていたものも。


「ロティ、ロティ!」


 大好きな声を聞いた時、世界はゆっくりと褪色し始めた。押しボイスの「おやすみ」は安眠には欠かせないものだったけれど、今耳元で紡がれる「ロティ」は比べ物にならないほど絶品なのだと、閉ざされていく感覚の中で改めて思った。

 流れ出す血で花はもう何色かもわからないだろう。それでも私の左手が解かれることはなかった。これはボスへのお土産だ。絶対に離さない。

 そして私の右手も。あんなに力が入らないと思っていたのに、それはしっかりとウィルの上着を握っていた。そこに骨ばった大きな手が添えられる。その手はまだ冷たいままだったけれど、私たちがこの世界に戻って来たのだと教えてくれるには十分だった。その安心感に、今度こそ私は意識を手放した。


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