第21話 森への道は驚くほどに険しかった
何が発動したから図書館裏で事故が起こったのか、わからないまま夏は過ぎていく。ウィルと会えない寂しさや成果の上がらない調査への焦り、私はいつになく疲れを覚えていた。続く事故がないことだけが救いだった。
一人の午後、空調が効いた部屋で紅茶を飲む。相変わらず食欲はなかったけれど、だからと言って世間のお嬢さんたちのように青息吐息だというわけではない。しばしの絶食に耐えられるだけの体力はある。と言うか全然問題ない。体が資本の仕事。見かけは繊細そうなチーフ補佐だけど、実はそんなことで倒れるようなタイプではないのだ。
「そういう女の子は可愛いくていいよね。こんな化け物みたいな体力、普通の人なら間違いなく引くわね」
乾いた笑いがこみ上げる。ボスにあんなことを言われて一時は舞い上がってしまったけれど、誰かに守ってもらうどころか、私が守りましょうかの強靭さ。人に甘えるだなんて考えたことも実践したこともない。果たしてそんなものが必要なのかさえも怪しい……。
それでもウィルの前では素直になりたかったし、心から笑いたいと思った。それが人を想うことの始まりなのだとしたら……。たとえこの先それがどんな風に変化しようと、どんな結果になろうと、こんな気持ちがあることを教えてくれたウィルには感謝しかない。
一緒に見たシェリルベルを思い出して深呼吸した後、私は蛾についての膨大な資料を読み始めた。読み込まなくても、疑問があればいくらでもチームは答えてくれるだろう。けれどできる限り目を通したかった、自分の知識にしたかったのだ。もちろんその第一目的は任務の遂行だ。しかし同時に、そんなあれこれをウィルに教えてあげたいと思ってしまう自分がいた。新しい発見に目を輝かす彼の笑顔が浮かんでは消えていく。
「……どうもウィルが絡むと調子が狂うわね」
一人ごちながらページをめくる。ふと次の数行に目が止まった。
「気温によっては大発生……」
年間気温の推移グラフが添えられている。やってくる観光客のために、ここ数年、徐々に平均温度が引き上げられていた。人々の行動範囲や時間が増えれば、そこから得られるものは大きいからだ。
しかし、その気温の上昇がどうやら生態系に影響を与えているらしい。ほんの数度、自分たちにとっては微妙な違いにしか過ぎないと思っていたものが、変化に乏しい中では立派な引き金になるのだと気づかされる。
思わず報告書を握る手に力がこもった。これは学術的な発表の一つだ。銀河のどこからでもアクセスできる。中尉が見たことも十分に考えられる。だとしたら……コントロールはできないとしても、明らかに確率が上がるこの条件を見逃すはずはない。
「大発生って一体どれくらい……」
私はすぐに昆虫チームに連絡を取った。資料に目を通していて興味深いことを見つけたと切り出せば、ちょうど季節だから見に行こうと誘われた。
翌日、ウィルとの外出に買い揃えたものの、もうずいぶんと出番のないトレーニングウェアを着て出勤した私は、昆虫チームと玄関ホールで待ち合わせた。そして、さあ出発しようと回転ドアを押した時、向こうからやってくるウィルの姿が見えた。私に気づいた彼は外で立ち止まる。
「ハモンドさん、こんにちは。外回りですか?」
「お疲れ様です、オーウェンチーフ補佐。いえ、ちょっと買い物に出ただけです。補佐たちはどちらへ?」
「森に。少々調べたいことがありまして」
距離感を保って外向けの挨拶を交わしていると、昆虫チームのリーダーであるジョンソン博士が興味深げに声をかけてきた。
「オーウェンさん、そちらの方は?」
「ああ、失礼しました。博士、こちらオペラハウスプロジェクチームのウィルフレッド・ハモンドさんです。ハモンドさん、この方は生態系調査チームの昆虫部門を担当してくださっているジョンソン博士です」
私の声に博士が破顔した。
「ああ、あなたが。噂には聞いていますよ。鳥類や昆虫に気を使った素材を導入しようとしてくれていると、うちのラボでもみなが大いにわいていました。ハモンドさん、こんなところで会えるとは思ってもみなかった、嬉しいですね。何か必要なことがあったらいつでも連絡してください」
「博士、ありがとうございます。こちらこそ、お会いできて光栄です。御高名はかねてから伺っております。今回の建築資材、素人の浅知恵かもしれませんが、森の中にあるからこそ、できる限りこだわりたいと思ったんです。今後、お話を伺う機会があるかと思いますが、どうぞよろしくお願いいたします」
ウィルの言葉にうんうんと頷く博士。ウィルやボスが言っていた「ちょっともめている案件」というのはそのことなのだろうかと私は仮説を立てる。過去に実績がないものを採用することの難しさと、新たなものを見出して未来へつなげたいという希望は、なかなか折り合いがつかないのかもしれない。それでも専門家たちが喜んでいるのなら、ぜひとも採用されてほしいものだ。
「それで博士、森へ行かれるとは……何かあったのですか?」
「いや、見学にね。オーウェンチーフ補佐が蛾に興味を持ってくださってね。今年はその発生率が例年にないものになりそうだから」
「へえ、それは気になりますね。ご一緒しても?」
私は驚いてウィルを見上げた。都会のオフィスにふさわしい洒落たスーツ姿。まさかその格好で? 暑いだけではない、汚れたらどうするのだと口を開きかけた私にウィルが微笑みかけた。
「オーウェンさん、生態系に関しての情報は僕としてもありがたいんです。色や形や、今の案件を確固としたものにするためにも必要で」
「……そうですか。でも……、ちょっと暑いのでは?」
「大丈夫です。こうやって上着を脱いで、腕もまくって……」
手際よくネクタイを解いてポケットに突っ込み、襟元をくつろげるウィル。男らしい喉仏が見えて、私は思わず視線を外した。
(……暑い。熱い? いや暑い。夏の暑さは半端ない……)
立ち話も何ですからとみなを促して歩き出す。プロジェクトチームのために用意しているトレーラーに乗り込めば、ひんやりとした車内にほっとする。フィールドワーク中に発見があって、急遽実験などが必要になるときもあるだろうと、ボスが発注した特別車だ。生態系チームのみなさんには、そんなボスの心使いは高く評価されていて、私としても鼻が高い。
前もって積み込んでいたクーラーボックスを指して、ミネラルウォーターを用意していることを伝えれば、じゃあお言葉に甘えて、とウィルがまずは一本手に取った。
窓際の席で、私はそんな彼の様子を密かに観察する。ごくごくと動く喉仏を見つめれば、実に様々なことが思い出される。トレッキングコースで抱え込まれた時の背中に感じた熱、繋いだ手の思ったよりも大きく節くれだった感触。そして、貯水池広場で押し倒した時の胸板の厚さ……。
こんな時に何を! 邪念を振り払うべく、ブンブンと私は頭を振った。しかし、どうでもいいことは駆け巡り続ける。
(確かに、ウィルが自分にとって大切な人かどうかなんてまだわかりませんとは言った。だけど、まずは肉体の素晴らしさに着目するとか呆れるわね。痴女でもあるまいし……。いや、待って。もし私が動物だったら、強いオスを選ぶのは正しいことよね。それこそが嘘偽りない真の姿であって、恥ずべきことではないはず。いやいやいや、そうじゃないでしょ。違う違う。ああ、もう。そうよ、蛾のせいよ。全部蛾が悪い。生殖だ、繁殖だ、誕生だ、そんなことばっかり考えてたから……。誓って私は痴女ではない! ハレンチでもむっつりでも野生の動物でもない。私は、私は……)
「ロティ、ラッキーでした」
いつの間にか隣の席に移動していたウィルに耳元で囁かれて飛び上がる。最高潮に上昇していた血圧がさらに沸騰して倒れそうだ。数日間の絶食よりも、猛暑の行軍よりも凶悪な一撃。それは妄想の果ての推しの声。久しぶりにその威力が発揮され、もう息も絶え絶えだ。
「ロティ、大丈夫ですか? あれ、顔がずいぶん赤いですけど、暑いですか? ちゃんと食べてますか?」
(ああ、お願いだから、もうこれ以上耳元で囁かないで……)
他の人に聞こえないようにという配慮は嬉しいけれど、これでは私が持ちそうにない。知らず涙目でウィルを見上げ、懇願するかのように弱々しく首を振れば、事態はさらに悪化した。心配したウィルが、みなに見えないようにさりげなく私の腰に手を回し、自分の方へと引き寄せたのだ。
(終わった……)
体温が、匂いが、吐息が。私は思考を放棄し、無になって数を数える。森の入り口へはすぐのはずだが、それは途方もない試練の時となった。
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