アイスプリンセス
クララ
第1話 旅立ちは雨だった
『搭乗十五分前です。お客様は各ブースゲート前にご集合ください』
生憎の雨模様。しばし見納めとなる風景は水滴が滝のように流れるガラスの向こうに滲むばかりだ。と言ってそれほど思い入れがあるわけではない。感傷的になる必要などなかった。いつものことと言えばいつものこと。自分の居場所などあってないようなものなのだから。それなのに……、なんだか今日は調子が狂う。新たな任務のせいだろうか。
基本、一人で向き合って淡々と任務を遂行する私には、人の機微を感じる繊細さはない。自分の気持ちにさえ興味がないのだから仕方がないけれど、そんな私の胸の内にさえ、今回の任務は言いようのない陰りを落としていた。
「想う人がいるって素敵なことなんじゃなかったの?」
思わずこぼれた独り言は巨大な銀河ポートの高い天井に吸い込まれていった。ガラス張りの全面が、ますます激しくなる雨の様子をつぶさに映し出していたけれど、空調が効いて快適な空間には一切の音も湿度も届かない。よくできたBGVのようだ。その現実味のなさが、心に広がる虚しさをさらに広げていく。
「まあ、泣いてくれる人もいない私には、到底計り知れないことなのかもね」
抱き合う人、口づける人、手を振り合う人、涙を流す人。そこかしこでドラマチックな別離のシーンが繰り広げられていた。そんな光景を見るともなく見やれば、私の脳裏にはいつだってポーカーフェイスを崩さないボスが浮かび上がってくる。
「……ボス。アイスプリンセスなんて返上しないとですね。なんでしょう、この気持ち。おまけに土砂降り。別れを惜しんで星が泣いてくれてるってことにでもしておきますか?」
部隊に入ってもう十数年。ボスの秘蔵っ子と呼ばれて久しい。どんな時もポーカーフェイス装備の私には、アイスプリンセスなんていうありがたくない二つ名がある。無表情で反応が薄過ぎて取りつく島もない、というやつだろうけれど、私だってそこそこ義理堅いし、人情だってあるつもりだ。人並みに怒ったり泣いたりしているとも思う。
もっと言えば、そんな無関心さは強くて冷徹だからではない、人と触れ合うのが苦手だからだ。心の中に踏み込むのも踏み込まれるのも無理な話。それなのに、今日に限って何かを執拗に求める自分がいるような気がしてならない。
けれどそれを認めたくなくて、ようやく微妙なお年頃になったのかなどとくだらない冗談を声に出してみる。寒い、寒すぎる。さすがに乾いた笑いの一つも出ようというものだ。
その時、「お一人ですか?」と後ろから声がかかった。こんなところでナンパ? なんともありがちな一言ではないか。歪んだ笑みを引っ込め、少し構えながら振り返る。
本来なら全力で無視するべきだろう。けれどできなかった。なぜならその声がとてつもなく好みだったからだ。
何を隠そう、かなりの声フェチである。曜日ごと、シチュエーション別、これでもかのコレクションを誇る。ひとり寝のお供に推しボイスの「おやすみ」は欠かせない。そんな私が、骨抜きにされそうな美声を無視できるはずがなかった。
だからと言って不用意に微笑みかけるわけにもいかない。ここはそれなりの演技が必要だろうと、不信感をかすかに漂わせて相手を見上げつつ、小首を傾げてみせた私は次の瞬間、ぐっと踏ん張ることになった。
柔らかな癖っ毛はアッシュブラウン、顔の造形は綺麗すぎて一見酷薄そうだけれど、笑うと目尻が大きく下がって印象が変わる。さらに、何かスポーツでもしているのだろうか、一流アスリートばりの肉体を仕立てのいいスーツに包んでいた。
そしてそれは……私が思い描く理想の声の具現化だった。あまりの衝撃に喉が詰まる。珍しく感傷的になってずいぶんと内側にのめり込んでしまい、癒しを求めてついに幻でも見たかと思ったほどだ。
しかし、そんなときでも鉄壁のポーカーフェイスが崩れることはなく、初対面の相手に間抜け面をさらすことだけは免れた。まさかしばし茫然自失だったとは思うまい。
「ああ、ごめんなさい。そのバッジ、総督府の方だと思ったのでつい」
その男前は申し訳なさそうに眉を寄せて続けた。私が困惑しているとでも思ったのだろう。しかし当の私は、さらなる美声攻撃にただただ悶絶していた。ああ、本当にいい声だ。体の芯がふにゃりと溶けそうなくらいに好みだった。
だけど惚けている場合ではない。この地味なバッジを見て私の立場を判断できるとなると、それは紛れもなく関係者。失礼に当たらないように対応するのが良策だろう。私はポーカーフェイスをうっすらと微笑みに変えて口を開いた。
「すいません、就任したばかりで、まだどなたも存じあげなくて」
「いえ、いいんです。こちらこそ気安くすいません。僕もなんというか、関係者のようなそうでないような……あ、そうだ。これ、こういう者です」
そう言って差し出された名刺を見れば、肩書きは建築家。総督府の人間ではないようだけれど、いつだって多くの才能ある人物が共に仕事をしているわけだから、彼もまた近いうちに始まるプロジェクトの一員なのだろう。
「ウィルフレッド・アーチャー・ハモンドです。新たに作られるオペラハウスの建築チーム所属になります。任期は半年から長くて一年半かな。緑のバッジということは、建設部の方ですよね。ご一緒できる機会があるかもしれませんね」
「ええ、そうかもしれませんね。シャーロット・オーウェンです。すいません、まだ名刺は受け取っていなくて。でも大した身分ではないです、しがない公園管理事務所勤めですから」
『ゲート開きました。順番にお進みください』
アナウンスの声に顔を上げれば、ウィルフレッドが慌てて口を開いた。
「オーウェンさんは、あっ、やっぱり特別ブース、ですよね……」
私が肯定の意味を込めて微笑めば、彼はさらに早口で付け足した。
「来週の人事異動の挨拶の時にまた会えますよね」
「ええ、多分」
「よかった、じゃあまた」
ウィルフレッドはそう言うと、ぱあっと弾けるように笑った。軽く頭を下げ、少し先に集まっている男性たちの輪の中へと駆け戻っていく。
「……危なかった……」
私は大きく息を吐き出した。危うく仮面が剥がれるところだった。あの笑顔を見てのけぞらなかった自分を褒めてやりたい。動く理想像おそるべし。ゆるゆると頭を振り、足元に置いてあったスーツケースのハンドルを伸ばして、人もまばらな特別ブースゲートへと歩き始める。
IDをかざして待つこともなくゲートを抜ける。何も金持ちだというわけではない。総督府勤務特典だ。確かに一般的な公務員よりは多少高給取りかもしれないけれど、私の役職はチーフ補佐。もらえる金額など知れている。しかしここではそんな私も恩恵に預かれるのだ。半個室の特別ブースは、人との接触を極力減らしたい私にはうってつけ、利用しない手はない。
『カスターグナー発シベランス銀河第三惑星スロランスフォード行き。まもなく搭乗時間が締め切られます。ご搭乗予定のお客様は各ゲートへお急ぎください』
巨大チューブのような連絡通路からは雨降る外界の様子は見えなかった。無機質な空間を艦船へと進む。とりとめもない考えが再び脳内を駆け巡り始めた。
そう言えば、もうずっと泣いていない。最後に泣いたのはいつだっただろう。それさえも思い出せない自分に苦笑する。
けれど、そんな私があの日は泣きたいと思った。泣けない人の代わりに泣きたいと初めて思ったのだ。それほどまでに、聞かされた任務の内容は異常だった。想いの歪さが胸に刺さった。人と人。それをつなぐもの。私の最も苦手とするものがそこにはあった。それでもやり遂げたいと思ったのだ。やるべきだと、自分を叱咤した。
「私のために泣いてくれる人にも、いつか出会えるかしらね……」
独りごちて数歩進めばもうそこは入り口で、にこやかな出迎えを受けた後、私はホテル並みの豪華さを誇る艦内へと足を踏み入れた。
その間もぐるぐると思考は回り続ける。誰かを想って、誰かに想われて、そうしたら何かが変わっていくのだろうか。予想もできない任務の先に、その答えがあるような気がしてならなかった。
しかしそんな漠然とした問いに、すぐに答えが出せるわけもない。指定席に座った私は諦めて目を瞑る。今はただ、着任先で無事新しい自分を作り上げること。一日も早い事態打開に向けて、自分の能力を駆使するだけだ。煩わしいとしか思ってこなかった力が大切な人の役に立つ。切なすぎる作戦の中で、それがせめてもの救いだった。
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