GAMBLE

しおり

第1話 つま先、手首、カーテン

 ルイスは、内羽根のストレートチップから解放された足を長椅子の上に引き寄せ、子供のように靴下を脱ぎ棄てる。つま先の、親指の向きと他の四本が重なり合うように曲がった形は、ハイヒールを履き続けた女の足に似ている。白い甲の皮膚は薄く、青い血管が葉脈のように透けてみえた。その親指の関節に、熟れた苺の潰れたような鮮烈な靴擦れがある。指の間をティシュで拭い、頬骨の高い横顔は疲れの所為か憮然として見え、唐草もようの部屋着ローブ・ド・シャンブルを羽織ってサッと湯舟のほうへいってしまった。

 今晩は、パアティの間──その後も──足が痛いのを堪えていた反動が自分にかえってくるのだろうと思ってオリーは暗澹たる気持ちにさせられた。

 胸元に圧しつけられたタキシードの襟の石竹の花が潰れている。どこに捨てようと思ってひとまずポケットに入れると、香水が匂った。人工の香りが躙った花びらが、指先と布地の隙間で湿ってよじれた。

 ルイスの鏡を置いた台の上に、残りの減ったロジェ・ギャレの香水があり、この壜が己の角で叩き割られる前に、何番かを確認しておかなければならないと脳内にメモをとった。

 とにかく衣裳を片付けなければならないので、急ぎタキシードを腕に抱えて部屋を出ると、燈の消えた廊下に青と薄荷色のつめたい月光が注いで光溜まりをつくっていた。

 玄関のある方から、廊下を歩いてくる小さな足音がした。絨氈じゅうたんに吸われた靴音にもふしぎと漂う鷹揚さは、オリーにもなじみの音で、しかし手に入らないものであった。顔をあわせるのが難しく、ダイヤモンド格子の扉を押し開けて、棕櫚の木が影を滴らせる三階のヴェランダへ出た。

 足音の主は、明層窓あかりまどの赤や橙の光のなかを泳いで、また暗がりの中へ沈む。それを繰り返して、栗のように茶金に輝く靴先が、硝子を隔ててオリーのすぐ近くを通り過ぎた。

 窓辺の竜舌蘭の影で息をつくと、見計らっていたようにだしぬけに隣の格子窓があけられ、オリーは声も出せずに飛び上がりそうになった。

 ストロベリィ・ブロンドを牛乳ミルク色の秀でた額に垂らして、バロック趣味らしい葡萄の模様を浮彫のように裏から打ちだした絹のジャケットを羽織った、あるじの兄が、煙草を吸いながらヴェランダへ掛けに来た。オリーの、慢性的に疲れていつでも靄がかっているような脳裏に、鮮やかに届く甘い匂いが鼻腔から、獣の血を伝って届いた。慌ててさがって一礼する。

「も、申し訳ありません。おかえりなさいませ、ロビン様…」

「ああ、オリー。今日も大変だったね」

 何気ない風に声をかける頬の、肉厚の白桃色の薔薇のような瑞々しい色艶をみられず、オリーは煙草の赤い火を見つめていた。

 移り変わる火影の舌にねぶられて、ロビンの襟元の釦孔ボタンホールに、しおれた芍薬のつぼみが項垂れていた。情事のあとの処女おとめの肉体のように、ぐったりとしてなお馥郁たる新鮮な香を漂わしているのだった。

「まあ、そう急かずに…そこにでも掛けて、俺の話を聞いておくれよ。それともルイスが煩いかな」

 主人の名を出された途端、ぎくりと首筋を強張らせてしまったのを見逃して欲しくて、つい口を滑らせた。「ルイス様はシャワーを…長くお使いになられますので……」

ああルイスも別な招待を受けていたのか。どこだろう、当ててみせようか…」視線をさ迷わして、ふと悪趣味だと思ったのかそれきり口を噤んでしまった。うつむき加減の横顔に落ちかかる前髪の、疎らな毛先が火花の金に透けて、弟と同じ骨格の美貌を彩っていた。堪らなくなって握りしめた指の間に汗が滲んできた。

「…わ、私もロビン様のパアティ会場を当ててみてようございますか。その……ノートン様の御屋敷でしょう」差し出がましいと知りながら、わざと口を出した。ロビンは口角を緩ませ、なにもかも解っている人の落ち着きで、上手にその助け船にのる。

「ああ、そうだ。ジョシュアのところさ。オリーに先を越されてしまったよ。今日のパアティでは、演劇に凝っている連中の私演会も兼ねていたのだけれど、いやはや中々……それぞれの思惑の交差が透けて見えて……虚栄の市ってところだね」

「ノートン様は演劇をなさるのですか」

「いいや、あいつは差し詰め、大宴会パンケエにサァカスを招く、物好きの放蕩貴族っていうところかな。あいつの友人が主催する演劇の会があって、ハムレットを演ったのさ。しかしレイアーティアーズとハムレットの決闘の場面シインで、二人ともが酔っ払っているものだから、台詞が危うくなるやら、足許が覚束ないやら、しまいにはハムレットを演っていた奴がオフェリア役の娘の名を口にしたところで、その娘は実は自分と恋仲だったんだとレイアーティアーズが騒ぎだし、舞台は恋人をとったとられたの泥仕合さ。まったく、とんだし物だったよ」

 つらつらと語る口ぶりは、内容に反して穏やかで変わらず優しげである。彼はその、困った友人の友人たちのことも愛しているのだ──とオリーは感じた。自分のあるじが、誰のことも猜疑と憎悪の混じった視線で見るのと対照的に。

「それで、劇はどうなったのですか」

「勿論、空中分解、尻切れ蜻蛉の大修羅場さ。まあ、内輪の集まりだから構わないけれどね。帰る前にチョッと広間を見たら、これが呆れたことに、ハムレットとレイアーティアーズの恋敵同士の間に、のオフェリアを挟んで、三人で仲好く寝こけて居るじゃないか。つくづくとぼけた連中だよ、ジョシュアの知己ときたら」

 そう云う本人のほうが、よほどとぼけたような悠然とした口調で云いながら、ロビンは新しい煙草に火をつけた──その眼差しの柔かに、溶けるように笑みの含まれた容子をみて、胸の奥が締め付けられて焼かれるような爰地がした。

「ノートン様は──どうなさってらしたんですか」

 ロビンが脣をひらいて笑みこぼす。真珠母の歯がのぞいた。

「あいつは混乱のさなか、棄てられた小道具の王冠と笏を拾って、俺が新王だのなんだのと叫んで、愉しそうにしていたよ」

「はは……とんだ王位簒奪劇ですね」

「まったくだ。観客が役を奪うなんてな」

 東洋の血がなせるのか、笑うと細まって柔和な弧を描く目許が、ふとオリーの目を無造作にとらえた。アッと思う間もなく、青とも灰色ともつかぬ春の海の色をした虹彩の帯びた月色の光から目が離せなくなる。

「ありがとう、オリー。人と話せて愉しかったよ。…いい夢を見せてあげよう」

 光る眼差しでオリーの眼をみつめながら、手袋の下の手首へそっと指を這わせた。しっとりとなじむ牛乳ミルク色の素肌から、芍薬の甘い匂いが血管に沁み込んで、オリーの頭を満月の光のように、花の群れのなかに酔わした。……



「どこへ行っていたんだ、愚図め」

 投げつけられたエッセンス・オイルの壜が、寝台ベッドの柱にあたって砕けた。林檎を割った瞬間のように鋭い香気が立ち上ぼり、オリーは脣を噛んで項垂れた。運が悪かった、普段、パアティのあとは特別、ルイスが長く浴室に篭っている間にオリーを呼ぶことは滅多にない。切らしている品は無かったはずだったがと脳内で算用し直すのも無意味で、オリーはその場に膝をついた。深くこうべを垂れた途端に、ソォプの容器ボットルまでもが頭にあたる。

「申し訳ございません、申し訳ございませんルイス様……」

「黙れ、役立たず。あるじを放っておいて、いったい何をしていたんだ」

 洗濯室へ、だとか、衣裳をしまいに、などと口走る猶予もなく立て続けに物が闇雲に投げられ、滴る薔薇の匂いの湯水は冷えてオリーの燕尾服をまだらに湿らした。

 癇癪を爆発させているルイスは、襟元に毛皮ファーのついた部屋着の前を握りしめて、青ざめた顔のなかに彫り込まれた緑の炎のような眼で此方を睨みつけているが、どこかその白眼勝ちの上目遣いが、怯える女じみていた。

 暫らく嵐に耐えていれば、今晩は風向きがよかったと見えておいおい止み、やがて引きつけのように肩で息をしているばかりになった。そっと顔をあげると、ルイスが、ほとんど首に近いところで、ガァネットの葡萄のブロォチを留める手の震えが目にひっかかった。指先が白くなるほど爪に力が篭って白くなっている。

 見せられない身体をしているくせに、と意地悪い気持ちが鎌首をもたげた。パアティの後――ルイスがホテルの上階などに行き、夜更けや朝方に、降りてくるまでの間――薔薇色や葡萄色の痕が、血の気の引いた白い首筋に幾つも染みをつけて滲んでいく。それを隠すために、ルイスはいつもヴォリウムのある毛皮や織物のコォトを羽織り、スカァフを好んで身につけるのだった。そして浴室には時に数時間も篭り、繰り返し誰にも見られたくない身体を、擦り落とすように洗う。

 ルイスの生まれ持った毒は、触れれば青緑のつめたい湿地のようにどこまでも意識が沈み、鴉片の肉体に溺れながら記憶を失っていく感覚は抗いがたい一度きりの快楽である。それはスタンレー・ホー家の処刑法のひとつであり、ルイスはそのただひとりの執行人であり、奴隷であった。そのことを解っているからこそ、誰かの記憶を処刑した後、娼婦のすべらかな皮膚に沁みついた透明な血を洗い流そうとするのだ。

 ルイスの部屋の窓掛カアテンは、厚地の遮光用の生地になっていて、天鵞絨張りの宝石匣のなかのように内側にすべてが封じ込められる。窓辺に腰かけたルイスは、部屋着の上からさらに窓掛カアテンを肩に巻きつけるようにして素肌を厳重に隠した。

 オリーは黙って立ち上がり、冷えた服も着替えずに、鏡を置いた卓から銀色の容器をとった。あるじに不快な痛みをもたらしているであろう足の靴擦れに、軟膏クリィムを塗らなくてはならない。

「ルイス様――おみ足を――…」

 蹴っ飛ばされるかと思ったが、ルイスはおとなしく、支那の羅漢床に似せたデザインの、革の長椅子デイヴァンに身を横たえた。

 オリーの指先ですくった薄紫の荒れどめは、くすんだ煙水晶のような光沢を放っており、拭っても感触を残すだろうと思われた。これは贅沢と浪費の香りをまとった男が、愛する女に与えるような化粧品だ。オリーは、進学の祝いに百貨店で、流行のバニシングクリームをひとつきり買った妹のことを想った。菫の匂いがするというそれはその廉価と安い香料ゆえの人工的な匂いの強さから、夢をたった数枚の硬貨で買いたがる女子学生たちに人気であった。自分の給金の幾分の一かのそれは、手の中の、己の給金では手の届かないような宝石をクリィムに仕立てたものと、色ばかりがよく似ていた。

 窓掛カァテンから伸びる、なめらかで白い足首に、手袋越しに触れるときでもわずかに躊躇う。クリィムの香りがほのかに漂い、花束を置いたような印象を与えた。本当に薄い、夢のごとき皮膜の下で月の色に滴る牛乳ミルクの肌に、オリーは怖ろしいだけでない、肉体の芯から熱と寒気の溶けあった、ふしぎな身震いをした。

 どうして、こうも似ているのだろう。

 青く透ける静脈も、肉厚の白い薔薇のような湿りけの艶も、牛乳ミルクのすべらかさもすべて、――想い人のそれと、憎らしいほどに同じなのだろう。

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