悪いお姉さんが教えてあげる

謝神逸器

第一話 彼はカンニングをしていたか?

(解決編)お姉さんは悪い人

 「それだったら、七点でいいよ――悪いお姉さんが教えてあげる」


 そう言ったお姉さんの表情は見えなかった。私をお腹に抱きかかえていたからだ。もう分かったの、と返そうとした私の口に、木べらに乗ったハーゲンダッツのバニラが押し込められる。その品の高い甘さと、いつもスーパーからぬすんでくる木べらの安っぽい匂いがアンバランスだった。


「もう分かったの」

「悪さには人一倍詳しいからね」


 お姉さんはそう答えると、私の頭を優しく持って自分の身体から引き剥がした。そのまま立ち上がり、さっき外した高そうなブラジャーを足に引っ掛けながら窓のほうに歩いていく。どうやらカーテンの隙間から差し込む日光が気に入らなかったようで、ぴしっと閉め直すとすぐに戻ってきた。部屋は完璧に薄暗くなった。


「さて、『カンニング疑惑事件』の真相を聞きたい? 聞きたいならどうやって払う?」

「いま貯金何点?」

「二点。でも、アイス食べさせて……食べさせさせてくれたから三点かな」

「じゃあ、『普通のキス』にする。三たす十一ひく七で、七点貯金」


 私の何倍も頭がいい癖して、お姉さんは暗算が苦手だ。小首を傾げながら十秒くらい考えて、「おーけー。じゃ、契約成立ね」と薄く笑った。

 お姉さんは近所に住んでいる悪いひとで、綺麗でお金持ちで物知りだ。大抵のことを知っている。

 名探偵みたいに謎解きだってできる。なんでも分かっちゃうから、魔女なんじゃないかと思ってる。魔女が魂を要求するように、お姉さんも色々なものを私に寄越させる。

 悪いことの中身を知る対価に、私と悪いことをする。


「じゃあそうだね、気を付けして」


 私との行為に、点数をつけて。


「目を閉じて」


 私は絶対に薄目を開けたままにしとくし、お姉さんもそれは知っている。儀式のような言葉だ。けどいつもと違って、今日のキスはすぐには始まらなかった。お姉さんは木べらでハーゲンダッツを掬い取ると、私の唇に薄く塗りつける。リップオイルの代わりみたいに。

 それから一気に奪いにくる。

 触れた瞬間、頭の中がびりっとした。

 お姉さんのキスはいつだって静かだ。ぴたりとくっつき、永遠より少し早く離れていく。唇の皮がいつも少し剥けていて、煙草の匂いがする。吸ってるとこは見たことないのに。

 うっとりと閉ざされた睫毛を見ながら、唇にアイスを塗るのは『普通のキス』の範疇なのだろうか、とふと思った。それから、思わず笑いそうになる。だって私たちがキスすること自体、異常以外のなにものでもないのだから。


「ね、二十三点のキスに変えていい?」


 上唇だけくっつけながら、息を流し込むように言う。たぶん切羽詰まった表情をしてる。最近のお姉さんはこうやって、余裕をなくすことが増えてきた。


「駄目」

「じゃあ、変更じゃなくて追加ってことでいいから。貯金たくさんになるよ」

「絶対に嫌」

「ちぇー……」


 お姉さんはつまらなそうに言うと、もう一度唇をぴったりと合わせて、ようやく解放した。キスするときって酸欠が早い。私も少しくらくらしてしまう。


「じゃ、ご馳走様。私は昼寝するから、暗くなる前に帰りなね?」

「えっ、まだ聞いてないよ! タケくんのカンニング疑惑の真相!」

「はは、冗談冗談」


 お姉さんはそうやって笑うけど、あわよくば帰してしまおうという気持ちは絶対にあった。点数のつくことをした後、お姉さんは機嫌がよくなる。そのまま眠ってしまいたいという気持ちは理解できなくもない。

 じゃあ先払いで教えてよ、と言ってみたことがあったけど、却下された。お姉さんは他人を信用していないから、聞くだけ聞いて逃げられることを避けているのだという。私にそんな事できるはずもないのに。


「さて」


 衣服の詰まったゴミ袋に背中を預けながら言う。


「結論から言うと――タケくんとやらはクロだ。彼はカンニングをしていた」

「えっ」


 なんとなく分かってたはずなのに、私は素直に驚いてしまった。お姉さんは悪い笑みを浮かべると、自身の長い髪をいじり始める。


「でも、下敷きのバリアがあったから、タケくんが横を向いても絶対にケイトちゃんのテスト用紙は見えなかったはずなんだよ。それに、後ろの席の子も見張ってたって。……やっぱ、鉛筆に隠しカメラが付けられてたのかな?」

「はは、カメラなんて無い無い。リスニングのテストなんだろう? それってあれだろ、四択とかで選択肢が放送で流れるタイプのやつ。英検でやるような」

「うん、そうだけど……」


 今日は変則日課で、英語の授業が二時間あった。英語は授業の最初にリスニングの問題をやる時間があって、サッカー少年のタケくんはいつも点数が低い。タケくんの隣の席のケイトちゃんは帰国子女で、リスニングはいつだって満点だ。

 そのタケくんが今日の一回目のテストで満点を取ったのだ。先生は褒めていたけれど、教室内では密かにカンニングが疑われていた。そこで女子会議で作戦を練り、男子から借りた硬い筆箱に下敷きを噛ませてバリアを作り、覗き込めないようにしたのだ。

 けど、タケくんは今日の二回目のテストでも満点を取った。

 再び女子会議が開かれると、新たな怪しい点が見つかった。

 ケイトちゃんは、帰国子女だからか変わった文房具を使っている。すごく濃い鉛筆とか、大量の四角が互い違いに重なってできた消しゴムとか。けれど彼女今日、筆箱を家に忘れてしまったのだという。そして、鉛筆はタケくんから借りていた。

 そこから導き出された推理はこうだ――タケくんは、鉛筆に隠しカメラを仕組んでいた。


「タケくんの運や努力が理由だと思わない残酷さがいいよね。まあ実際問題、彼はズルをしていたのだけど」


 お姉さんは辺りに転がったお酒の缶を弄びながら言う。


「ケイトちゃんは帰国子女。たかが小五のリスニング、日常会話よりも簡単だったはずだよ。それこそ――最後まで聞かずとも、正解の選択肢を聞いた時点で解けてしまうほどに」


 その感覚は、私にも分かる。テストは親切に二回繰り返して放送してくれるけど、正直一回でもいいんじゃないかなって思うのだ。たまに二回必要になるけど。

 でも、それとカンニングとを結びつけるものはなんだろう?

 私が首を傾げると、お姉さんは部屋と同じ薄暗い目で笑った。


「答えを言うとね、タケくんは間違いなくリスニングをしていたんだよ――

「えっ? あ……」


 ケイトちゃんにとってリスニングの問題は簡単すぎる。正解となる選択肢が二番だったら、三番と四番を聞くまでもなく二のマーク欄を塗り潰せる。

 タケくんはそれを聞いていた。紙を引っ掻く芯の音は、下敷きのバリアを貫通してその耳に届いていた――――本当に?

 ふと生まれた反証に、私はぞくぞくした。スチール缶を弄びながらこちらを眺める余裕ぶった表情を、もしかしたら崩せるかもしれない。


「本当にそうだったら、なんでタケくんは今日だけカンニングしたの? 二人はもう一か月以上席が隣なのに。それに鉛筆の音なんて、そううまく聞こえないよ。やっぱ鉛筆に仕掛けが……」

「ふっ、あはは……!」


 私の言葉を遮るように、お姉さんは明るい声で笑った。くたびれたTシャツの中で、支えのない乳房が揺れているのが見える。普通の笑い声のはずなのに不気味だった。花束を持つ死神が恐ろしく見えるように。


「君は本当に可愛いな」


 急に薄笑いに戻って、こちらに手を伸ばしながら言う。

 髪を触られただけなのに、蛇に巻かれた気分だった。


「ね。私たちさ、やっぱ付き合おうよ。点数なんて無くしてさ。好きなだけ悪いことして、好きなだけ聞かれたこと教えて、そういう関係になろうよ」

「やだ」

「残念」


 あっさり引き下がってくれて、静かに安堵した。お姉さんは私より身体が大きく物知りで、お金も沢山持っている。無理矢理に何かされたら為す術がない。でもお姉さんは私の意思を尊重してくれている。それは均衡に見えなくもない。


「で、何? タケくんが貸した鉛筆に仕掛けが無いなら、なんで今日だけカンニングができたの?」

「仕掛けは無かったけど、鍵はあったんだよ。だから筆記の音がよく聞こえた。タケくんが貸した鉛筆は普通のものだったよ。普通だからこそ聞こえた。逆にいえばね――今までは、ケイトちゃんの鉛筆が普通じゃなかったからこそ聞こえなかった」


 ケイトちゃんが普段使っている鉛筆。

 すごく濃い鉛筆。


「ケイトちゃんの鉛筆はね、5Bか何かだ。5は濃さのレベル、BはBLACKの頭文字。可愛らしい君はその濃さの由縁を『帰国子女だから』という可愛らしい思い込みで解決していたようだけど……実際にはね、力の弱さを補助するために使われることが多いんだ。消しゴムだってただのカドケシだろうしね。

 ケイトちゃんはシンプルに力が弱いか、左利きを右利きに矯正している最中だったんだろう。使。マル付けは手動だろうに、『機械が読み取れないからマークは濃くしっかり』を律義に守って。

 その結果――って訳」


 全てが綺麗に埋まった気がした。本当にそれが真相なのかは分からないけど、私はタケくんがあまり好きじゃないから確認しようとも思えない。

 奇跡というには小さすぎる偶然が、たまたま積み重なったから起こった出来事だった。何かが起こらない限り、タケくんの点数は再び下がってしまうだろう。一日限りの夢だ。


「で、これを聞いて君はどうする? この真相を使ってタケくんを教室から追い出す方法なら、そうだね、30点で教えてあげよう」

「もう満足しちゃったからいい。そこまでするほど嫌いじゃないし」

「君のそういう、優しくないところが大好き」


 友達も先生もママもパパも、私のことを優しいって言う。でもお姉さんは、私が聡くて薄情で、でも結局子供だってことを知っている。

 お姉さんはそのまま私を抱きしめてきた。これは悪いことかもしれないけど、私も好きだから点数は付かない。細くて少し柔らかくて冷えていて、甘い匂いと煙草の匂いが混ざってる。風邪のひき始めみたいな、ぞくぞくした感じ。お姉さんに抱きしめられている時だけ感じるそれが、言えやしないけど好きだった。


「そろそろ帰る」

「いいよ。お小遣いいる?」

「いらない」

「じゃあまた小説貸したげる」


 お姉さんは私を解放すると机に向かった。長い針で目刺しにされた福沢諭吉の束の横に、新品の文庫本が山積みになっている。その山を崩しながら二冊選んで、こちらに手渡してきた。なかなか分厚くて、朝読書の時間だけじゃ次来るまでに読み切れないだろう。


「ね。また来てね。聞きたいことがあったら教えてあげるから。七点も余らせておくなんて勿体ないでしょう?」


 私が小説をランドセルに詰めている最中、そんな事を言われた。


「あのさ、教えることの点数の基準ってなんなの?」

「2000点で教えてあげよう」

「じゃあいい」


 自分に不都合なことは、いつもばかみたいな高値をつけて教えることを渋る。ちなみにお姉さんの名前は10000点だ。高得点のことをたくさんしたって払うのは難しい。

 点数の付け方について、分かっていることは一つだ。どうしてもキスしたいとき、教える事柄には11点の値段を付ける。それ未満の点数の行為をふたつ組み合わせても11ぴったりにならないこともふまえると、キスの定価には最初から意味があったのだと思う。

 ずっと分かっていたけれど、言わないままの正解がある。

 お姉さんはきっと、寂しがり屋だ。


「ばいばい」


「行ってらっしゃい」


 お姉さんは見送りにくるそぶりを見せず、暗く笑って手を振った。アパートのドアが苦しそうな音を立てて閉まる。




 ところで後日、例のカンニング方法を試してみたけど上手くいかなかった。自分の力で解いたほうがよっぽど点が高くなる。

 でもお姉さんは私がこうする未来も知っていそうで、それがちょっと悔しい。

 


 

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