使いみちのない絵

阿部 梅吉

使いみちのない絵

 戸棚の奥の奥から絵を取り出して質屋に持っていったら五百円にしかならなかった。そりゃあそうだ、レプリカだったのだから。そんなわけで、きらびやかなスーツを着た太った店員に頭を下げ、そのまま回れ右して帰ってきた。ミュシャの絵『春』のレプリカとともに。


 その絵をもらったのはもう6年前にもなる。彼と私はお互いがお互いにリラックスして文学の話を出来るほとんど唯一の相手だった。



 私達は手紙のやり取りをしていた。と言うと驚かれるかもしれない。彼はSNSの類を一切やっていなかったから。2015年においては珍しいことかもしれないが、彼がその時分で既に還暦を過ぎていたと言ったら納得してくれるだろうか。実に私達の間には40年の時の隔たりがあった。



 私がある病気で入院してるときに、同じように肺がんで入院していたのが彼だった。なんのことはない、彼は一日2箱タバコを吸わないと生きてられないニコチン中毒だったのだ。お陰でまんまと肺がんになり、タバコも吸えず、抗がん剤のおかげで髪は抜け落ち、吐き気は絶えず起こり、呼吸のリハビリをし、定期的に入院せねばならなくなったのだ。自業自得といえばそれまでだが、日に日に弱っていく彼を見るのはとても辛かった。



 私達はよく文学の話をした。彼は『戦争と平和』ではアンドレイ派で、私はドーロホフが好きだったから、よく喧嘩したが、そんな喧嘩ができるのもこの世では彼だけだった。



 お互いに気分のいい時は手紙を書いた。その多くは他愛のないことと文学のことだった。私には当時周りに本を読む人がおらず、夢中で書いたことを覚えている。彼の手紙の末尾にはいつも豚の絵が書いてあり、それがなかなか可愛かった。



 ある時不思議な手紙が来た、それはいつものなんの意味もない内容ではなく、恋文だった。彼からはこう書いてあった、


「君と口づけする夢を見たけれど、夢でも現実と同じような気分になれるものですね」と。


 私はびっくりして何を書けばいいのかわからず、そのまま何も書かずに本人の部屋に行った。



 彼の部屋は個室だった。彼には子供がなく、仕事いっぺんの人生だった。文学の研究をしていたが、なかなかその世界では有名なひとだったらしい。そんなわけでお金があるのに任せて、一ヶ月間も個室で入院しているなんて、四人部屋の角にいつも潜んでいる私から見るととても偉やましい。


「今日の手紙は随分ロマンチックですね、先生」と私は言った。


実際に先生をやっていたらしいので、私は彼をこう呼んでいた。


「不思議な夢だなあ」と彼は語尾を上げて言った。彼には私の聞いたことのない独特の訛りがあった。


「ちゃんと退院したら現実にしますよ」と私は生意気にも言ってみた。


「ほんまか」と彼は言った。


「ちゃんと治ったらね」と私は言った。何も知らぬ生意気な20歳の時分だった。




  一ヶ月後、彼はちゃんと宣言通り退院することとなった。タバコも吸わず、呼吸のリハビリも行っていた。私の宣言が効いたのかは解らないが、いい兆候だった。私は彼より少し前に既に病院を退院していた。



 「頑張りましたね先生」と私はまた手紙を書いて送った。 


 私はすでに退院してたから、面会の形で彼の部屋で会う運びとなった。


「ええもんやな、退院って響きは」と彼はしみじみ言った。私はその言い方が可笑しくて声に出して笑った。


「いいもんですよ、外は」


 私が言うや否や、腕を引かれてそのまま唇を奪われた。



 不思議な感覚だった。私にとっては初めてのことだったが、頭の中は意外にも冷静だった。ああ今私はこの人とキスしているのか、などと思った。やってしまえば、意外にも普通で意外にも悪くない。そんな感覚を味わった。その感覚は5秒ほど続いた。



 顔を離したあとも、私は抱きしめられていた。彼の唇は私の首に移動した。彼が私のブラウスのボタンを外し、口で鎖骨をなぞった。流石にだんだん波が押し寄せるようにびっくりしてきたが、冷静な頭とは裏腹に体は硬直していた。このまま彼を突き飛ばすこともできたのかもしれないが、なんとなくそんなふうにはできなかった。


 彼は口で私の下着をずらして、その中に口をつけた。私は混乱していたから、自分が今どこを触られているのか全くわかっていなかった。彼は私の胸に何度も口をつけた。私は彼のベッドに押し倒されていた。



「どこ触っているんですか」とやっと口にできたとき、私の胸はもう彼の唾液で沢山になっていた。赤く跡がついていた。


「全身やね」と彼が私の胸の先端を指で弄りながら言った。


「嘘」


 このとき初めて、微かに電流が流れるような不思議な、今までにないような感覚を味わった。喜怒哀楽のどれにも結びつかない、奇妙な感覚だった。私は次第にだんだん冷静になれなくなっていた。彼はより一層胸を弄り、何度も乳首を吸った。あまりの訳のわからなさに、気づいたら声を出していたが、口を手で塞がれた。私は何度もあの電流を感じ、なぜかは判らないがひどく泣きたくなった。何かが限界に達していた。 


 彼は手を止めなかった。そのままスカートの中に手を入れてきた。私は年甲斐もなくシクシク泣き出した。私自身、なんで泣いているのか全くわからなかった。


 私が泣き出して、彼はやっと手を止めた。下着をずらされ、彼の唇の跡のついている自分の身体を見るとなんだかひどく惨めな気がした。彼はもう一度私と唇を優しく重ねた。


私はえいやっと力を振り絞って起き上がり、どう声をかければいいのかもわからないのでひとまずベッドから離れて服を着直した。



「ねぇ、君のために絵を買ったんだ」と彼は言った。 


「テレビの棚の下」と彼が言った。


 私は何も言わずにテレビの棚の下にあった薄いダンボール箱を掴みとり、そのまま部屋を出て足早に病院を後にした。





 その夜、風呂で赤くなった跡がちらと視界に入ったが、なるべく見ないようにした。




 彼が肺がんで死んでしまったと聞いたのはつい先日のことだ。人伝いに聞いたので詳しいことはわからないが、がんに勝てなかったとのことだ。枕元にはいくつかの手紙が置いてあったとも聞いたが、「へえ」と返事しただけで、何を言えばいいのかわからなかった。




 今、私は困っている。さてこの絵をどうしようか。質に売り飛ばすには安すぎるが、さりとて飾る気力もない。


 しばらくは押し入れに入れておこう。


 今の私にはまだ、この絵の行方を決めかねているのだ。


(終)

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