第6話
商人ドゥルーブが見たのは切断された人間の足だった。
さっと血の気が引いて、取り乱した商人は尻もちをついてしまう。しかもこれは師の御足ではないか。がくがくと震えが止まらない膝を必死になだめすかして、立ち上がると、アクシャイを呼ぼうかと迷ったものの、その先にも身体の断片が落ちていることに気付いて、うつろな自失に乗っ取られながら、ふらふらと先へと進む。腕が落ちている。次は長に紐のようなものが見え、これは腸だと遅まきに商人は認識する。
無残な惨殺死体。師はおぞましい殺意の犠牲になったのに違いない。こうしてはいられない。いまも近くに殺人鬼がいるのかもしれないのだから。込み上げる嘔吐感を押さえつけて商人はアクシャイのいるあの火のもとに戻ろうとする。これは緊急事態だ。いかな聖者とはいえ、凶刃のもとに斃れることもある。それは世の無情と神なき宇宙の冴え冴えとした冷たさを商人に思い知らせた。
「アクシャイ! 警察だ、師が――」
「騒ぎ立てるなバカちんが」
ふっと風のように運ばれてきたのは師の声であった。バラバラになったはずの人物が苦々しい面持ちで商人の前に立っている。片足がないというのに不思議なバランスである。
「カンダ・ヨガ」
そう言ったきり、師はそれ以上の説明をしなかった。濡れた麻布の飲み込んで体内を清める行があるのを聞いたことがあった。あるいは舌の裏側の筋を切って、口蓋の上に舌先を潜り込ませる技も。しかし腸を取り出し、四肢を断ち切るとは――おそらく特殊なヨガの技法なのだろうが、あまりに現実離れしている。
「バラバラだ。なんと恐ろしい」
「来るなと言ったのに、なぜ、来た? おまえは女の入浴を覗き見るデバ亀と変わらん。他者に恥辱を与える」
するすると意志あるもののように腸が腰布の中にたくし込まれていくのと期を一にして、ふわりと断絶された左足が浮き上がり、ぴたりと胴体にふれると、そこに継ぎ目なく欠けるところのない人体が再生される。腰布の中にも腸の取り出した穴もないのだろう。これはなんという奇跡だろうか。
「師よ、あなたは」
「おまえの口は災いを生む。毒を吐き散らすように喚き散らす。蜘蛛やサソリのように忌み嫌われるべきだ。腐った木の中に暮らす柔らかい腹の生き物は踏み潰されるまで口を閉ざすことを知らない」
ここで見たことを口外するなと師は警告している。なんだかよくわからないが、きっとそうだ。商人は師の望洋として謎めいた瞳に見入られて、こくりと頷いた。
「師よ。わたしはあなたを見誤っておりました。これほどのことをやってのけるお方だとは」
「ふん、こんなものは、ただの奇術だ。タネのない手品であろうと手品であることには変わりはない。おまえのような俗人が触れ回ることで世界はまるごと見世物になってしまうだろうよ」
商人はうやうやしくひれ伏すと、くっついたばかりの師の足に額を乗せた。
さて、これほどの途轍もないものを見た商人であったが、毒気を抜かれ、信仰に目覚めるどころか、師の糞便が金を生み出すという話により信憑を得て、ますます欲に眼が眩んでしまったのである。商人を引き止めなかったアクシャイは、戯言めいた叱責を受け、三日間荒唐無稽なダジャレをマントラのごとく念じさせられた。商人はといえば、燃えるような眼で師につき纏い、何度も打擲されながら、過酷な旅に懸命に食らいついてきた。幾度も隙を突いては師の排泄の瞬間を押さえようとしたが、不思議と師はいつどこでそれをしているのかまったく掴ませなかったのである。古来よりインドでは牛糞を燃料として活用してきた。しかし人の糞便を好んで盗む者はいただろうか。衣服を失い、擦り傷だらけになり、商人らしさが残らず消え失せたドゥイーブはいまやさもしい人糞盗りになり下がり、砂塵のうちに歩を進める、小さく揺らめく影となった。
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