第2話


 良い匂いがする。

 柔らかな感触だ。

 ……なんだろう?


「あ、あのフェイク。……起きて。こんなところで、寝たら……風邪ひいちゃうよ」


 その聞きなれた声に俺が目を開くと、そちらには一人の女性がいた。

 目が合うと、控えめながらもにこりと微笑んだ女性。


「……あれ?」


 俺は周囲を見る。まず第一に見たのは作業室に置かれた時計だ。午前9時を回っていた。

 そして、室内は鍛冶課に併設されたエンチャント用の作業室だ。


 泊まり込みで仕事をしていたからか、気づけば眠ってしまっていたようだ。


 ゆっくりと意識が覚醒していき、そこで俺ははっとなって女性を見た。


 栗色の髪を揺らすように小首をかしげ、こちらを覗きこんでくる。大きな両の瞳に見つめられ、俺は慌てて背筋をぴしりと伸ばした。

 その人は……隣国の公爵令嬢様だからだ!


「も、申し訳ございません! このような格好で……っ!」


 昨日は体も洗っていない。

 俺の態度に気にしないでと微笑んだ彼女は、アリシア様だ。


 隣国の公爵令嬢であり、三女として生まれた彼女は、親が鍛冶師と結婚するようにと命令を出していることから、何かとこの鍛冶課に足を運んできてくれているんだ。


 なんでもアリシア様の家は元々鍛冶師の家だったそうだ。だから、必ず子どものどこかに優秀な鍛冶師の血が混ざるようにするそうだ。


 とはいえ、アリシア様は隣国の貴族だ。

 月に一度あるかないかの舞踏会、あるいは社交界の日にこの宮廷へと来ているに過ぎない。


「気にしないで。でも……フェイク。頬、怪我しているよ?」

「え? あ……な、なんでもないです!」


 昨日、モルガンに殴られたからだろう。アリシア様が指摘した場所に手を伸ばすと、ずきんと痛んだ。痣にでもなってしまったのだろう。

 ……アリシア様にだけは、この鍛冶課でいじめられていることはバレたくなかった。


 俺は、アリシア様のことが……好きだからだ。こんな情けない姿、見られたくないんだ。

 情けない見栄だと笑われても構わない。それでも、俺はアリシア様にだけはこの弱みを見せるわけにはいかなかった。


「そう、なの? どこか、ぶつけちゃったとか?」

「そ、そうなんですよ……あはは」


 俺は頬を隠すように座ってから、再び騎士剣を握った。

 アリシア様がじっと部屋を見る。


「この部屋に置かれた武器……今はエンチャントの途中?」

「ああ、まあそうですね」

「えっと……一人で?」


 ぎくり、とした。

 アリシア様が怪訝げに首を傾げている。


「この量……一人は大変。ぜ、全部やるの……?」


 アリシア様が訪れる時、他の鍛冶課のメンバーもだいたいいつもいた。

 しかし、今日の来訪を鍛冶課の人たちは予想していなかったようで、俺に仕事を押しつけている状況で遭遇してしまったというわけだ。


「ま、まあそうなんですよ。俺が一番の下っ端、ですから」

「……そうなんだ。鍛冶師って大変なんだね。でも、凄いね。これだけの量、片付けられるなんて。さすが、宮廷の鍛冶師さん」

「……凄くなんて、ないです」

「凄いよ。こんなにたくさん。一人で片付けちゃうなんて……優秀なんだね」


 優秀……そんなことはない。

 だって、みんなに散々無能だと言われて……。

 ダメだ。ダメなんだ。


 アリシア様の前では、強い男でいるって決めたのに。

 アリシア様の柔らかく微笑む笑顔に、俺はいよいよ我慢が出来なくなってしまった。


「……ふぇ、フェイク? わっ、ど、どうしたの!?」


 え?

 俺は頬を伝う温かいものを理解した瞬間。

 涙を抑えることが出来なくなってしまった。

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