雪の曲
tokiha
雪の曲
日本に雪が降らなくなって十年がたった。地球温暖化により、日本は亜熱帯地方となり、もとは豪雪地帯だったこの街も、二月だというのに春のように暖かい。夏は毎年、四十度を超え、最近は冷却用スーツを着る人も多くなってきている。
あの日に降っていた雪を思い出す。雪国らしい、湿度のない、軽くて踊るようにふわふわ舞う綺麗な光だった。
それは今から五十年前の話だ。
その日は朝から降り積もった豪雪により、電車が全線止まってしまい、どうやって家に帰ろうか、途方に暮れる人たちで駅はごった返していた。
わたしは一向に進まないバスの列に嫌気がさして、駅を出て歩き出した。
雪は月明りを反射して瞬いていた。ふぅとため息をついて、この後のことを考えた。家に歩いて帰るのは現実的ではない。着く前に凍え死んでしまいそうだ。ここは田舎町なのでホテルはほとんどない。確認したけれどどこも満室だった。都会だったら漫画喫茶という手もあるだろうけど、そんな便利なものはない。ただひとり途方に暮れて、なんだかこういうひとりきりの夜も悪くないと、ほんの少しだけ思った。三十センチは積もっただろう、雪に足跡をつけて歩いていく。歩くたびに、さく、さく、と音を立てる。それが心地よかった。
商店街はもうとっくに店じまいしていて、真っ暗だった。この道を歩いているのはわたししかいない。それがなんだか特別に思えた。
一時間くらい、歩いたと思う。隣町のホテルなら空いているかもしれないと思ったからだ。しかし、足に痛みが走り、靴を脱いでみると、昨日買ったばかりのブーツが足に合わなかったらしく、靴擦れを起こして血が出ていた。こんな日に買ったばかりのブーツなんて履いてくるんじゃなかった。しかたなく、靴を脱いで、はだしのまま歩き出そうと思ったけれど、冷たくてやめた。
わたしはもう歩くのがばからしくなって公園のベンチに座り込んだ。ここで寝たら、明日にはわたしは死体になっているんだろうか。数日後には焼かれて灰になっているんだろうか。なんだかそれも悪くないような気がした。この前分かれた元カレに言われたことを思い出す。
「君は人の気持ちがわからないのか」
わからないよ、そんなもん。言ってくれなきゃ、わかんないじゃん。勝手に斟酌しろなんて、それこそコミュニケーションを放り出してるじゃんか。
なんだか空しくなって、ベンチに寝転んだ。
相も変わらず、雪は音もなく、しん、しん、と降り積もっていた。そこには無音の空間があって、忙しい毎日の喧騒をすべて吸い尽くすように、雪たちが日々のストレスさえも奪い取っていくようだった。
もう、このままどうなってもいい、そう思って目を閉じた。
「あの……」
男の声が聞こえる。ずいぶん気弱な声だが、たぶん男だ。少し肩をゆすられている。ああ、今、空を飛んでいる夢を見ていたのに、凍えそうな現実に引き戻されるのか。
「なに?」
ずいぶん不機嫌な声が出てしまった。だって、このままいけばわたしは天国に行けたのだから。それを引き戻すのにいら立って何が悪い。
「いや、その……、こんなところで寝たら死んじゃいますよ」
「そんなのわかってるよ……」
「わかってるって……。死ぬって大ごとですよ! 明日にはいなくなっちゃうんですよ!」
「だからさ、わたしはいなくなりたいんだよ」
「何言ってるんですか、あなたみたいな……、その、きれいな女性がここで死んでいいわけないじゃないですか!」
その真剣な声がおもしろくて大声をあげて笑ってしまった。まさか本気にするなんて、ね。この子、まだ子供だわ。
「ちょっと! なんで笑うんですか!」
「いや、ごめん、君が真剣に言うから……」
え!と彼は大声をあげて驚いていた。
「冗談だったんですか!」
口をあんぐり開けて呆然としている。なんか、コントみたい。雪の日って、不思議だわ。
その男の子はわたしの右足を見て言った。
「足、ケガしてるじゃないですか」
「そう。買ったばかりの靴で、靴擦れを起こしちゃって。ホテルもないし、ほんと田舎って不便ね」
「あの……」
彼はなにか言うのがためらわれるのか、もじもじと言葉を濁している。
「あの、ホントに、変な気はないんですけど、うち、近くなので、送っていきましょうか……?」
語尾がかすれていたし、声は震えているし、顔は真っ赤だ。でも、とりあえず信用してよさそうだった。
「いいわよ。お言葉に甘えるわ。でも、手を出そうとしたらあなたがお陀仏になるわよ」
「そんなことしませんよ!」
顔を真っ赤にして否定するところがなんだかかわいかった。
彼は跪いて、わたしに背中を向けた。
「ほら、おぶっていきますから」
彼はひょいとわたしの身体を持ち上げてしまった。なんだ、もやしみたいに細いくせにちゃんと力はあるのね。
「じゃあ、いきますよ」
そう言って私たちは歩き出した。
雪はまだ無音の世界を幻想的に創り出していた。
さく、さく、とふたりぶんの足音を立ててゆっくりと進んでいく。
ふと、無音の世界に一つのメロディが聴こえた。それはなんだか、懐かしいようで、雪のように軽くて、眩しく輝いていた。
それは彼が口ずさんでいるメロディだった。
「それ、なんて曲? いいメロディね」
「きょく?」
彼は怪訝そうに私の顔を覗いた。
「その、君が口ずさんでる曲」
「ああ、これか」
言われてはじめて自分が口ずさんでいることに気づいたような口ぶりだった。
「雪の曲ですよ」
「なにそれ、聞いたことない」
「聞いたことがない?」
彼は眉間にしわを寄せて尋ねた。
「何言ってるんですか。今も鳴ってるじゃないですか。聞こえないんですか?」
「聞こえないも何も……」
あたりは自分たちの足音しか聞こえない、無音の世界だった。
「晴れの日は晴れの音楽が鳴るし、雨の日は雨の音楽が鳴るし、雪の日には雪の音楽が鳴るじゃないですか。人間ってそういうものでしょ?」
開いた口が塞がらないとはまさにこのことだ。おそらく、彼は共感覚なのだろう。人によってにおいに色が見えるように、天気によって音が聞こえる、共感覚なのだ。
「それ、今までに誰かに言ったことある?」
「ないですよ。だって当たり前のことじゃないですか?」
わたしは大笑いしてしまった。彼はただ戸惑うばかりだった。
「あなた、それって天才よ!」
そこで、わたしはいいことを思いついた。
「ねぇ、この間、市が設置したストリートピアノってこの辺じゃなかったっけ?」
「たしかそうですけど、だれも弾いてないみたいですよ?」
「ちょっと寄ってよ」
いわれるがまま彼はストリートピアノのある商業施設に向かった。もちろん、商業施設は閉まってるし、人っ子一人いない。
ピアノは無音の空間に浸るようにただ静かにそこにたたずんでいた。
彼の背中から降りて、わくわくしながらふたを開ける。明らかに手入れもされてないし、あまり弾かれていないピアノだった。和音を鳴らすと調律が狂っていた。でも、このくらい狂ってたほうがわたしたちらしい。だって、雪の中にふたりきりなんだもの!
「もう一度、その曲、口ずさんで」
彼はゆっくりと鼻歌で”雪の曲”を歌いだした。わたしはその音を一つ一つ拾って丁寧に譜面に変え、音に変えた。彼の旋律は途切れることがなかった。雪は、透明で、優しくて、厳かで、ふわふわで、無音で、きらめいて、踊っていて、ワルツのようで、そしてどこまでも美しかった。
彼は二十年前に肺がんで亡くなった。突然のことだった。しかし、それでよかったのだと思う。あの人にこの雪のない世界は似合わない。彼は”雪”をテーマにした交響曲を4つ、残した。世界のオーケストラがこぞって彼の曲を演奏し、なかでも”雪解け”は今のところ人類が最後に残した交響曲だ。彼は楽聖となり、わたしは譜面の読めない彼の代わりにピアノを弾いた。わたしは彼の音楽に包まれるのがとても楽しかった。いつまでもこうしていたかった。あの日の感動と切なさと歓びを、忘れたくなかった。だけどあの人はもういないし、この街にもう雪は降らない。
だけど、あの日の旋律をわたしは死ぬまで、いや、死んでも忘れないだろう。あの日、豪雪が降って、電車が止まらなければ、彼という楽聖は見出されなかったし、なによりもわたしたちが出会うことはなかった。雪が、人をつないでくれた。いまでも、そう。彼の旋律を聴くだけで心に雪が降る。それは決して、冷たくはないのだ。
雪の曲 tokiha @tokiha1993
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