第17話 天竺鼠の秘密

 自宅の布団で目覚めかけた来栖龍人は、鼻腔をくすぐる御味御付けおみおつけの香りに、空腹の胃袋を刺激されてしまう。

 半分だけ覚醒した脳髄がもたらす薄らぼんやりとした愉悦の時間に、快楽物質エンドルフィンの導きで…睡眠と食欲のあわいにその身を浸し『あぁ………あと5分だけ…………』と、睡魔の威力に陥落した龍人の耳に聞こえてくるのは、鍋釜を打ち鳴らす愛する可愛い妹ヨハネの黙示録から来た天使の声であった。


「兄ちゃんっ!!

 はように起きんかいなぁっ!!

 人間はお天道様が顔を出したら、起きて真面目に働くように出来とるんやで。

 ちゃっちゃと起きて、朝ごはん食べて……とっとと仕事に行っといで!」


 朝から威勢の良い鞠江の声に、至福の二度寝を妨害された苛立ちを込めた声で言い募る。


「ホンマに鞠江は言動がやなぁ、そんなんやから見合い相手から袖にされ続けんねん。

 顔だけはキレイなんやから、もっとお淑やかにしといたら……とうの昔に結婚も出来て、行かず後家……ッ!?」


 龍人の不穏当な発言が終了する直前、彼の額に先程まで御味御付けの中で味噌を溶いていた木製の玉杓子たまじゃくしが湯気を立てたまま『カッコーン!』と直撃した。

 イテテと呟く龍人に、振り返った鞠江はまさしく鬼の形相で……鋭くもの効いた声で兄に言った。


「あぁん?

 誰が見合い相手に、袖にされ続けとるんやてぇ?

 アタシは自分で見合いの話を、断っとるっちゅうのが判らんか?

 おぅ!

 兄ちゃんよぉ、そこの処をきっちり弁えとかんかったら……痛い目にうても知らんでなっ!」


 額のど真ん中を内出血で赤く染めた龍人はすっかり覚醒し、鞠江の憤怒に染まる顔と自身の枕元に転がる玉杓子を交互に見て、のそのそと布団を畳んで押入に収納した。

 さて、鞠江の手ずからによる朝食を囲んでの食卓は、無言で粛々と進んで行く。

 質素な朝食は白米とワカメの御味御付け、それに鰯の干物が一尾だけと云う、来栖家にとっては定番とも云うべき『我が家の味』であった。


「そやけど鞠江、何でまた俺とは似ても似つかん器量好しのお前が、見合いも縁談の話も断りよんねや?

 先方が乗り気やったって話も、何件かあったて聞いとるんやけどなぁ」


 唯一の主菜である鰯の干物を頭から齧りながら、龍人は真顔で鞠江に問うた。

 対面で御味御付けを啜りながら、鞠江は汁椀越しにギロリと龍人を睨む。


「兄ちゃん……兄ちゃんはアタシがとっとと嫁に行ったらエエと思うとるんか?

 兄ちゃんは勉強も出来て、医大も出てお医者さんにもなったけど……やん。

 一人でご飯の用意も出来へん、朝もまともに起きられへん……真っ当に生活が出来へん兄ちゃんを置いて、アタシが嫁いで行けるとでも思うとんのか?

 アタシを追い出したいんやったら、兄ちゃんがお嫁さんを見つけてアタシを安心させるのが先やと思うわ」


 コトンと汁椀を卓袱台の上に置きながら、冷たい視線と声音で鞠江が告げるのを聞きながら、龍人は鰯の尻尾を口の端にぶら下げたまま凍りつく。


「い……いや、俺は……別に……鞠江を追い出したいとか……言うとらへんやん。

 お前が兄ちゃんの所為で婚期を逃した、何てことになったら大変やからな……それを心配しとるだけなんや。

 それに……俺みたいな駆け出しのひよっこ研修医なんかと、結婚してくれるような女の人なんか居る訳ないやろ。

 それに、安月給の研修医でも養うてくれる支援者パトロンが居ったとして、そんな人達は見栄えのエエ姿形が大事なんちゃうか?

 何にしても結婚なんか、俺には何のえんゆかりもない話やなぁ…………」


 困ったように鰯の尻尾を咥えたまま頭をガリガリと搔く龍人を見ながら、鞠江はフフフと笑って食べ終わった食器を重ねて台所へと向かう。


「それなら、アタシが嫁ぐ日も遠くなるってことやね。

 兄ちゃん……結婚相手を見つけられるように、頑張ってバリバリ稼いだってか。

 ほらほら、早うに食べ終わらな遅刻してしまうよ」


 何故か朝の剣幕から一転し、上機嫌となった妹を不思議そうに眺めながら……龍人は残りの朝食を掻き込むように頬張り始めた。



ーーーーーーーーーーーーーーーーー



 鞠江に今日は早く帰る旨を説明してから、龍人は勤務先である兵庫県立医科大学附属病院へと向かった。

 今日は病棟の主である紫合鴉蘭教授が不在のため、研究室の冷蔵倉庫から手早くアハスエルスに渡す輸血パックを取り出し…水圧式昇降機の起動鍵と病室の開錠鍵を握って地下病棟への道を急ぐ。


天竺鼠モルモットの血液で大丈夫なんやろかいな?

 まぁ……天竺鼠の血しか摂取出来へんのやったら、実験動物の管理部署から請け出して来れば良いか」


 呑気な声を発して、龍人は昇降機を起動させ……地下病棟へと独りで向かう。


「紫合教授の指導が正しいかどうかは判らんけど、医師と患者の信頼関係の構築を重要視するっちゅう方向性だけは認めなアカンし、今後……他科に行くことになったとしても、の役に立つ教えになるんやろなぁ。

 他についてはあのオッさん、完全に人として大切な何かが破綻してしもとるもんなぁ」


 一人で動く気楽さからか、素の状態で自分の上司を扱き下ろす龍人であった。

 そんな龍人は第一の扉を開錠し、アハスエルスの居る病室の第二の扉を呼び出す。


「アハスエルスさん、来栖龍人です。

 本日は私だけでお伺いしますので、開錠をお願いいたします」


 龍人の声に応えるように、第二の扉は大きく開かれた。

 病室に立ち入った龍人が目にしたのは、いつも通りに寝台に腰掛けるアハスエルスの姿であったが、初日・二日目と違ってその両腕の中には、穏やかな呼吸と共に安心し切った様子で微睡む天竺鼠の黒褐色めいた躰が確かに見受けられた。


「おはようございます、アハスエルスさん。

 それに……天竺鼠ちゃんも変わらずに元気そうですね」


 龍人の優しい声音に、アハスエルスは顔を上げて微笑みながら挨拶を返す。


「おはようございます、来栖先生。

 この子も、フルディネズミちゃんもこう表現しても良いのなら……元気に走り回っているんですよ」


 アハスエルスが天竺鼠に名前を付けていたことに驚きながらも、龍人は笑顔で担当患者に問い掛ける。


「アハスエルスさん、その子に名前を付けられたんですね?

 もし差し支えなければ、名前の由来をお伺いしても宜しいですか?」


 自身の両腕に抱き抱えられた天竺鼠の頭を指の腹で優しく撫でながら、アハスエルスは少しはにかみながらも……名前の来歴を龍人に説明する。


「はい……構いませんよ、過去に私が暮らしていた場所にはこのような天竺鼠と云う動物が存在しておりませんでしたので、古代猶太語で大型の鼠を指す『フルダ』からの派生で『フルディ』と名付けました。

 来栖先生、実験動物である天竺鼠に名前を付けるなど……赦されない行為なのでしょうか?」


 最後には少し不安な表情で龍人に問いかけるアハスエルスに、医師としてよりも人として龍人は返答する。


「いえ……実験動物だとは云え、フルディと我々は今後とも共通の目的に向かって協力体制を維持しなければなりませんし……フルディはそもそもアハスエルスさんに所有権が在る動物ですから、貴方が思うように飼育して戴いても一向に問題はありませんとも」


 龍人の言葉に安堵したアハスエルスは、フルディを顔の前まで抱き上げてそっと頬擦りをする。


「アハスエルスさん、本日は輸血パックを一袋だけ持参したのですが……フルディについても人間の血液を栄養源とすることで問題はありませんか?

 もしフルディに必要な栄養素が、同族由来の血液であるのならば……また改めて段取りせねばならないので………」


 龍人の問いにアハスエルスは、小首を傾げながらも回答を寄越す。


「多分……私自身が栄養を補給する際に、どのような動物から得た血液であっても不足はありませんでした。

 私が人間の血液を安定的に供給され始めたのも、こちらの病院に収容されてからなのですよ。

 ですからフルディについても、同様だと想定されますね。

 もし……血液について疑義が発生すれば、直ぐにご報告いたしますので、取り敢えずは私と同じ物を与えてみましょう」


 アハスエルスの応えを聞いた龍人は、持参した小さな皿に輸血パックから絞り出した血液を八分目程度注いでアハスエルスに手渡す。

 アハスエルスの掌に置かれた小さな皿に、膝の上を占拠していたフルディは反応し鼻をヒクヒクと動かす。

 黒光りする丸い目を輝かせたフルディは、その鼻面を皿の中に突っ込みペチャペチャと音を鳴らして舌で掬い取るように舐め始めた。

 血を舐め取ると云う一見すると恐ろしい行為ではあったが、フルディの見せる愛らしさと諧謔性ユーモラスさ故に……悍ましさは感じさせず、通常の食餌風景とも見受けられた。

 龍人とアハスエルスは互いの顔を見合わせると、どちらからともなく微笑み視線を交わす。

 そして龍人は残った輸血パックを、そのままアハスエルスに手渡した。

 数分後に一人と一匹の食餌が終わると、アハスエルスが龍人に告げた。


「来栖先生、一つだけお伺いしたいのですが……このフルディは、いや天竺鼠モルモットと云う種族なのですが、知能の程度レベルはどのような物なのでしょう?

 私自身の不明を恥じ入るばかりなのですが、この子が元々どのような知能程度であるか……皆目見当が付かないのです」


 ほぅ……と一息吐いた龍人は、逆にアハスエルスに問いかける。


「そうですねぇ……天竺鼠と云えば臆病で自己防衛機能には優れた生物ですが、どちらかと云うと他の齧歯類と同様に、知能程度としてはそこまで高いとは云い難い生き物ですね。

 アハスエルスさん、フルディについて何か気になる点でもありましたか?」


 そうですか……と呟いたアハスエルスは、フルディの背を撫でながら龍人に告げる。


「実は手前味噌になって申し訳ないのですが、このフルディは……私の言葉を理解し、簡単な命令程度であれば即座に対応しているようなのです。

 来栖先生、少しだけ私達を見て戴いて宜しいでしょうか?」


 そう云うとアハスエルスは、フルディを床にそっと置いた。

 そして懐中から小さな紙切れを丸めたボールを取り出すと、寝台と病室の入り口の中間辺りに放り投げる。


「フルディ!

 キャッチ!」


 アハスエルスの号令一下、フルディは丸めた紙切れの許へ駆け寄りそのボールを咥える。


「フルディ!

 バック!」


 そして再びの号令に従い、ボールを咥えたままアハスエルスの許へと駆け戻る。

 そのまま抱き抱えられたフルディは、アハスエルスに背中を撫でられ得意そうな表情で手の中に収まっている。


「これは……小型犬並みの知能を有しておるんか………。

 アハスエルスさん!このような芸当は、他の天竺鼠では行動ですよ!

 恐らく吸血鬼ウィルス感染症症候群ヴァンパイア・シンドロームとは、感染者の知能を大きく嵩上げする病態を秘めているのやも知れません。

 アハスエルスさん、貴方にも心当たりがあるのではありませんか?」


 驚愕に打ち震えながら龍人は、アハスエルスにも問いかける。


「えぇ……恐らくは私の知能も飛躍的に向上していると思われます。

 古代猶太で私は靴職人でしかなかったのですが、この1900年で覚えた言語は数十種、そして今では貴方方のような現代医学を修めた方々とも対等に議論を交わせる程度の知識を持ち合わせているのですから………」


 アハスエルスの告白に龍人は深い驚異の念を呼び起こされ、吸血鬼ウィルス感染症症候群ヴァンパイア・シンドロームの病態の奥深さを知り、途方に暮れるような心持ちとなってしまった。

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