第16話 帰宅の夜に

 兵庫県立医科大学附属病院での初日と二日目の精神的な激務に疲れ果てた来栖龍人は、ズルズルと重い躰を引き摺るように夕焼けの町を帰宅の途に就いた。

 勤務地からほど近い、神戸市兵庫区の上三条町に建つ築30年程の古家が龍人の自宅であった。

 近所には平清盛も足繁く通ったと云われる『湊山温泉』があり、ゆるゆると歩く龍人を追い越して行く浴衣姿の人々は、洗面道具を手に湯屋へと向かって歩いているようだ。

 古ぼけて小さな平屋建ての自宅からは、妹の来栖鞠江くるす・まりえが夕餉の支度でもしているのだろうか…くたびれて空腹を抱えた龍人の胃袋を刺激するような馥郁ふくいくたる香りが漂って来ていた。

 来栖家の両親は戦災で既に亡く、兄妹の二人暮らしはもう3年の歳月を重ねようとしていた。

 時に龍人は24歳、鞠江は18歳の年齢である。


「鞠江〜ただいま〜、連絡もせんとゴメンやでぇ。

兄ちゃんも病院で色々あって、大変やったんやぁ」


 ガタピシと建て付けの悪い引き戸を開いた龍人は、玄関の上がりかまちに腰掛けながら靴を脱ぎ、家で心配していたであろう妹に声をかけた。

 奥の台所で料理の腕を振るっている筈の鞠江は、龍人が帰宅の声を発したのも聞こえていなかったのか、返答もなく台所から動く気配もない。


「お〜い鞠江、聞こえとらんのかぁ?

兄ちゃんが帰って来たぞぉ、腹がへ………」


 龍人が続きの言葉を発そうとした瞬間、鞠江は『ダンッ!』と包丁の刃を俎板に打ち付け……龍人の言葉を遮る。

 龍人に背を向けたままの鞠江ではあったが、その背からはドス黒い怒りの情調オーラを漂わせているようだった。


『アカン……鞠江のヤツ、メッチャ怒っとるやん。

まさか昨夜は俺のことを、寝んと待っとったんかぁ?

これはマズい、マズいぞぉ……来栖龍人………』


 思考が硬直フリーズし、何を話して良いやら目を白黒させる龍人の前で、木綿素材で紺色地に白い亀甲模様が入った絣の着物に、赤い無地の半幅帯を合わせた姿の鞠江が振り返った。

 身の丈は龍人よりも頭一つ分以上小柄な155センチメートル程度か、その細身の華奢な肩が小さく震えている。

 髪は肩の辺りで切り揃えられ、色白の小顔を際立たせていた。

 顔立ちは形の良い弓形眉にくっきりとして大きな二重瞼、鼻は小さく細いものの、鼻筋は通って小鼻の造作も細く儚げだ。

 口唇は紅を点したように鮮やかな緋色で、顔全体の均整バランスから云うと若干大きいように映るが、若い生命力に溢れた顔立ちを彩る美点チャームポイントともなっている。

 結論から云うと……少し眠たげな目をした公家顔の龍人とは似ても似つかぬ、気の強さを秘めた美しい少女の顔である。

 それもその筈、龍人と妹の鞠江は血の繋がりはない義理の兄妹であった。

 戦時中のことでもあり龍人の病死した実母の後添えとして、夫を中国戦線で喪った鞠江の母と龍人の父が再婚し……それぞれの連れ子同士が兄妹となったのである。

 そしてそれぞれの父母も昭和20年3月17日の神戸大空襲で避難先の防空壕にて帰らぬ人となり、天涯孤独となった血の繋がらぬ遺児達が……肩を寄せ合うように戦後を生きて来たのであった。

 余談ではあるが、兄妹とは云え血の繋がらぬ若い男女が一つ屋根の下に暮らすことを懸念した親類が、見栄えの良い妹の鞠江に見合いや縁談話を持ち込んだが……そのことごとくを持ち前の気性の強さでバッサバッサと居並ぶ相手を打ち倒した逸話を経て、この兄妹は慎ましくも仲睦まじくこの3年を暮らして来た。


「兄ちゃん!

この放蕩者の穀潰しっ!!

アンタは阿呆なんか!?

んとおんの遺産を切り詰めて、ようやっと医大みたいな学校をん出て医者になったと思うたら……初日から遊び歩いて朝帰り……いや、もう次の日の夕方やんかっ!!

ホンマにもぉっ!

アンタみたいな太平楽の極楽トンボは、一回どころか二回でも三回でも死んでしもたらエエねんっ!!

アタシは妹として悲しいわ、こんなダボくれが自分の兄ちゃんやなんて……みっともなさ過ぎて涙もよぉ出ぇへんわっ!!」


 着物の袖口を汚さぬよう、襷を掛けた姿で右手に包丁を握り締め……寝不足の目を赤く充血させた妹の鬼気迫る怒りの罵声に、龍人は驚愕の余り声も出せない。


「兄ちゃんっ!

アンタ、ちょっとそこに正座すわりぃっ!

どないな腹積もりで遊び歩いとるんか、正味の話を聞かせて貰うでっ!!」


 包丁の刃先で卓袱台ちゃぶだいの横を指し示し、仁王立ちの鞠江は怒鳴り散らす。

 龍人はおずおずと指示された畳の上に、背だけは高くヒョロ長い躰を折り畳むように正座する。


「いや……鞠江、ちゃうねんて……兄ちゃんは昨晩遊び歩いてた訳やないねん、病院で色々あったから泊まり込む羽目に陥ってしもたんやって…………」


 情けない表情で妹の叱責に応える龍人、しかし鞠江の方はそんな兄の姿に更なる怒りを覚えたようだ。


「言い訳すんねんやったら、もうちょっとマシな嘘を吐いたらどないなんよっ!

どこの世界に新任の研修医を、初日から泊まり込ませるような病院があんのんやっ!

どうせ歓迎会やら何やら云うて、呑んで騒いでお楽しみやったんやろうがっ!!」


 へたり込むように正座する龍人の目線の位置で、鞠江は右手の包丁の刃先を上下に振り動かす。

 そんな妹に龍人は、薄く細い眉を八の字にして更に言い募る。


「と……取り敢えずその物騒な包丁は、台所に戻してぃな。

鞠江、これはホンマの話やねんて……兄ちゃんの着とる洋服を見てみぃ。

初日に着ていった背広が、患者さんの出血でになってしもたから……仕方なしに先輩の医師せんせいに借りてきたんや。

それに、昨日の朝に鞠江からもろうたお金かって、一銭たりとも使つこうてへんがな……ほれっ!」


 追い詰められた龍人は着慣れぬ他人の衣服を鞠江に示し、一昨日のままの金額が収まった財布を鞠江に手渡した。


「ホンマ……や……一銭も減ってないってか……金種まで全部うとるがな…………。

まさか…兄ちゃん、ホンマのホンマに病院で働いとったん?」


 驚嘆する鞠江の声に、やっとのことで誤解が解けた龍人は、体内の空気を全て吐き切るような深い溜息を吐いた。


「そやから……最初から俺はそない言うとるやないか。

鞠江、お前がこないに怒るから……理由わけも説明出来へんし、兄ちゃんの言うこともまるで聞きよれへんやんか」


 龍人の前で仁王立ちしていた鞠江であったが、顔を俯き加減にしてペタリと兄の前に正座し、右手の包丁は卓袱台の上へ置いた。

 そんな鞠江の姿を見て龍人は、怒髪天を突くような勢いで激昂していた妹が、漸く落ち着きを取り戻したことに安心して謝罪の言葉を述べる。


「鞠江、兄ちゃんの方こそ済まんかった……緊急事態で帰れんくなったんやけど、連絡を取る暇もないし……我が家には電話もあらへんからなぁ。

病院の近所にる子供にでも駄賃を握らせて、伝言係メッセンジャーでもやらさな仕方しゃあないんか。

ほんで鞠江、お前の方は昨日の夜に寝てないのんか?

前にも言うたと思うけど、医師なんて夜討ち朝駆け当たり前の仕事やからなぁ。

兄ちゃんの帰りを待って寝ぇへんとかしてしもたら、鞠江の躰が壊れてしまうやないか?

せやからこれからは、兄ちゃんの帰りを待っとらんと、お前は先に休むなりなんなりとしといてくれよ……な?」


 兄である龍人からの説諭に、俯き正座したままの姿勢でポツリと呟いた。


「……………もん」


 んん?と龍人が問うような顔で鞠江の顔を見た時、鞠江が顔を上げて龍人の目を見つめて語り出す。


「せやかて、昨日の夜は兄ちゃんの就職祝いやったから……奮発してご馳走を用意したんやもん。

それやのに兄ちゃんが帰って来ぃへんから、心配するわ腹立たしいわで……明け方に二人分のご馳走を全部ぜ〜んぶ平らげたったんよ。

ほんなら兄ちゃんが呑気な顔で帰ってくるから、昨夜の怒りがフツフツと湧いて来てしもたん」


 この気性は荒い部分もあるが、可愛いらしいところもある鞠江のクルクルと変化する表情に、龍人は苦笑いを浮かべるしかなかった。


「鞠江……ホンマに済まんかったなぁ、兄ちゃんの着任した科は、教授と俺しか人が居らん小さい部署なんや。

昨日も昨日で大事があったけど、明後日からは患者さんの治療のために病院に泊まり込むことも増えることが多くなると思うわ。

せやからこれからは、連絡もなしに遅くなっても兄ちゃんのことはお構いなしで、鞠江は自分のことを考えて動いてくれな」


 そう言う龍人を見ながら鞠江は、少し心配そうな表情だ。


「そやけど兄ちゃん、そんな忙しそうなお仕事で大丈夫なん?

兄ちゃんは背ぇは高いけど、ほっそい細いねんから……あんまりこと無理してしもたら『ポキンッ』って折れてしまうんやないの?

昔っから無理ばっかりして、ご飯もあんまり食べへんし……アタシ、心配で…………」


 ハッとした表情を浮かべた龍人は、情けない顔で鞠江に懇願する。


「ご飯で思いだしたんやけど、兄ちゃん腹ペコでもう限界なんや。

夕餉の支度をしとるんやったら……話は晩飯の後で頼んます」


 両手を合わせて伏し拝む勢いの龍人の姿に、鞠江はプッと噴き出し笑顔を見せる。


「何やフラフラして帰って来うへんと思ったら、帰って来るなり『飯喰わせ』やて。

どんだけ意地汚いなんや、ホンマ兄ちゃんにはアタシが付いとかなどうしようもないなぁ」


 全くもう!と呟きながら卓袱台の上の包丁を回収し、台所へ向かう鞠江の背を見つめながら、龍人は優しい表情で足を崩し座り直した。

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