第92話 真ん中
「...むー」
「むー、じゃない」
メモリア襲撃事件の翌日。
帰り支度を済ませた俺は、エルフの里の門の前にいた。
ここまで早急に里を去る選択をした理由としては、
「...私もアルト様とキスしたい!」
「駄目に決まってるだろ!犯罪だ!」
例の現場を目の当たりにしたオリアが、それ以降というもの俺へ激しく迫ってきたからだ。
腕に抱いていてもよじ登ってこようとし、背中におんぶをしても風魔法を応用して俺の口元へと迫ってくる。挙げ句の果てには一度、俺のことを本気で気絶させに来たのだ。
そのときは何とかして彼女の目論みを阻止することに成功したが、エルフである彼女がそれこそ本気で迫ってきた場合、この身がいくつあっても足りない。
そんな訳で流石に身の危険を感じた俺は、さっさと里を出ることにしたのだ。
因みに現在のオリアは彼女の母親の腕の中でしっかりホールドされているため、身動きの取れない状況にある。
「じゃあ元気でな。オリア」
「...むー」
むくれ顔のオリアにそう別れを告げ、里の出口へと足を向ける。
「——あ、ちょっといいかしら?」
と、そのとき。後方からオリアの母に声をかけられた。
「えっと、なんですか?」
「一応なんだけれど、里を出たらここの場所とか、特に娘の名前については口外しないでおいてくれるかしら?」
「元々そのつもりでしたけど…どうしてオリアの名前が特に、なんですか?」
オリア母の忠告に、少し気になったことを尋ねる。
普通ならオリアの名前よりも、里の場所の方が最重要秘密だろう。なんでオリアの名前の方に、特にがついたんだ?
「えっと、貴方達人間とは違って、エルフにとって名前はとても神聖で大切なものなの。だからエルフは自分の名前を普通、他の人は明かさないわ。勿論、エルフ間でもね」
「え、」
オリアの母にそう言われてドキリとする。
確かに。言われてみれば、俺は族長の名前もオリア母の名前も知らない。それこそ、オリアの事を名前で呼んでいたのは俺だけだった。
「そ、そうなんですか...で、でも、お母様は最初に俺の名前を聞きましたよね?」
そうだ。オリア母は最初に会ったとき、俺の名前を尋ねてきたはずだ。あれはどうしてなんだ?
「ええ、そうね。私は人間に会うのか初めてだったから、人間が名前についてどういう認識なのかっていうのを確かめておきたかったのよ。貴方が娘の名前をあまりにも普通に呼んでいたものだから」
はぁ、なるほど。あの質問は色々と考えた上での質問だったのか。
「それでね、本題に戻るんだけど、私たちエルフが自分の名前を明かすのは結婚する相手に対してだけなの。その人になら、自分の大切な名前を呼ばれてもいいっていう意味を込めてね」
「へ?け、けっこ、え!?」
「だから、貴方には娘の名前を口外してほしくないなって」
オリア母はそう話を締め括った。
え、ちょっと、待って?結婚?うん?頭が追いつかない。
「...そう、私の名前を聞いた時点で、アルト様は私にプロポーズをしたようなもの。アルト様は、もう私が予約した」
「ちょ、ちょっと待って!?」
オリア母の腕の中で小さな胸を張ったオリアは、いつになく大きな声でそう宣言をした。
「...あ、あと最後に。アルト様、耳貸して」
「へ?え?」
オリアの爆弾発言を受け、未だ混乱している俺へオリアが声をかけてきた。
なんだ?ちょっと今、頭から手が離せないんだけど...
「...アルト様は知らないかもしれないけど、伝承にはまだ続きがある。私、本気だから」
「は、え?」
オリアからの唐突な宣言に、俺の脳内ははてなマークで埋め尽くされる。
伝承?それはオリアが俺を見つける際に参考にしたというエルフの里に伝わる伝承のことか?それが今どうして、本気とは一体———
「...隙あり」
次の瞬間、俺の右頬には何か柔らかく温かいものの当たる感触があった。
「あ、や、え。い、いま、のは...」
更に突然のことに、俺はうまく言葉を紡げない。顔が赤くなっていることが自分でも分かる。積み重なる情報量が脳の許容量を余裕で超している、ああ。脳みそがオーバーヒートしそう...
盛大に混乱し続ける俺に対し、目の前のオリアは舌を舐めずって言った。
「...今はそこで我慢するけど、次会ったときは———真ん中」
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