第39話 彼の絵
私は彼の絵を見に行った。あの場所に、彼のあの絵は変わらずにあった。
「・・・」
でも、彼はそこにいなかった――。彼が存在したという残像の面影だけがそこに漂っていた。
彼と絵は、私の中で対になっていて、彼のいないその絵は、どこか奇妙な感じがした。
「・・・」
いつも彼が絵を眺める時に立っていた場所から、私はあらためて巨大なコンクリートの壁に描かれた彼の絵を見る。
中央に大きく鎮座する真っ赤な、燃えるような巨樹。ねじれ、逆巻き、うねるような背景。それは、何かを超越した、感情と欲動の渦のような――、それは人の心のそのもの――。
心・・。人間の心の生きていくことの、すべての理不尽をその渦を、呻きを、叫びを、凝縮し、そこに塗り込め、封じ込めたような――、それは人の心の逃れられない苦しみ。
そこには宇宙があり、人生があり、人間の業があった。
「すごい・・」
私は思わず声を出していた。
彼といた時には気づかなかった、この絵の凄みに私はこの時、初めて気づいた。
死という境地の中で彼の感性はさらに研ぎ澄まされ、高まっていた。もともとの彼のその才能と、この絵の世界観があった上に、それが重なりこの絵はさらなる圧倒的な凄みを帯びていた。
私の心に、この絵の中に塗り込められた逆巻くうねりの情動が、そのままシンクロするようにして湧き上がって来る。私は、絵と一つになり、そこに塗り込められている情動と共に、魂がうねるような感動に包まれていた。
この絵を見れたことが、人間として生まれてきて、今この時に、この私という状態で生まれてきて、この絵を見れたことが、大げさでなく、最高の奇跡だと思った。
「すごい・・」
私は打ち震えるようにその場に固まっていた。
私は呆然と、彼の才能が、その才能に触れることのできた私の幸せを思った。そして、その才能を永遠に失ってしまったのことの悲しさを思った――。
「・・・」
どれほどの時間、彼の絵を見つめていたのだろうか。
彼の存在は本当に存在したのか――。そんな自明が揺らぐほどの不安が、陽炎のように私の目の前で揺らめく。
そこにある世界は、限りなく儚く、不安定だった――。
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