第24話 平和
やっとバイトが終わり、絵を描いている彼を見に行くと、彼は昼寝をしていた。いつものようにコンクリートの地べたにまったく無防備にそのまま仰向けに寝ている。何とものんびりとした光景だ。平日の真昼間、この熾烈な競争、経済優先社会にあって、相変わらずここだけ時の止まった別の世界のようだ。しかも、彼の胸の上にはどこからやって来たのか、一匹の茶トラの猫が丸くなって同じように寝ている。かなり丸みのある太った猫だが、彼は気にせず寝ている。重くないのだろうか。
「う~ん」
私が近づくと丁度彼が起きた。猫は彼が上体を起こすのと同時に目を開け、もそもそとめんどくさそうに彼の上からどいた。
「どうしたのこの猫」
「ああ、最近なんかよく来るんだよ。とても人懐っこい猫でね」
「へぇ~」
確かに人懐っこかった。私にもすぐに近寄って来て、体を寄せてスリスリしてくる。
「かわいい。飼い猫かな」
私は彼を見る。
「多分ね」
私はその猫を撫でる。全体的に丸々としていて何とも撫でがいがある。本当にかわいかった。
「ふふふ、ほんとかわいい」
猫がいるせいか、なんとものほほんとした時間が流れる。
なんだか本当にこのまま永遠にこんな平和な日常が続くんじゃないかって思ってしまうほど、この時、世界は平和だった。彼が死ぬなんてやっぱり信じられなかった。
彼はまだ眠そうな体をもそもそと起こして立ち上がり、また絵を描き始めた。
「だいぶできて来たね」
私は絵を見た。彼の絵は全体的に色も付き、かなり完成に近づいて来ているみたいだった。
「うん、かなり、やっつけ仕事で急いだけどね」
彼は、顔を少し歪めながら笑った。
「まっ、しょうがないけどね」
「でも、この荒っぽい感じもそれはそれでいいよ」
「うん、僕もなんかそう思う。ケガの功名だね」
「うん」
私たち二人はあらためて絵を眺めた。
「いい絵だね」
あらためて私は思った。
「うん」
彼もそれを感じているようだった。
なんだか、死なんてやっぱりなかったみたいに思えた。このままこんな感じで、結局は、明日が来て、明後日が来て、来週が来て、来月が来て、来年が来て・・、やっぱり世界は変わらない。なんて気がした。
「ううっ」
その時、突然彼が胸を押さえうずくまった。
「えっ、どうしたの」
私は慌ててうずくまる彼の横に身を寄せる。
「痛みが・・」
彼はさらにうずくまる。
「大丈夫?」
「ううっ」
見ただけでそれが伝わってくるほど、彼はとても苦しそうだった。だが、私はおろおろするばかりでどうしていいのか分からない。
「救急車」
それを思いつくのが精いっぱいだった。しかし、彼は首を横に振る。
「でもでも」
私はパニックになった。ついに来た。ついに来たんだ。具体的な死が、現実が、目の前に来たんだ。私は恐怖した。
「大丈夫、しばらくじっとしていれば治まる」
彼は心配させまいと私に黙っていたが、今までも、度々、痛みが出ていたのだろう。妙に落ち着いていた。
「でも・・」
彼は相当苦しそうだった。私は心配でたまらなかった。
「大丈夫、大丈夫だ」
そんな私を心配させまいと彼は苦しみながら言う。でも、やはり彼はとても苦しそうだった。
しばらくすると彼は、顔を上げた。
「大丈夫?」
「うん」
しかし、彼の表情は冴えない。
「最近、ちょっと痛みが強くなってきたかな」
彼は軽く息を吐くように言った。
「なんか奥の方に来ている感じだな」
彼は胸の中央辺りを探るように押さえた。
「病院・・」
私がおずおずと言った。
「行っても無駄だよ」
「でも・・」
「もう手遅れなんだ・・、手遅れなんだよ」
彼はうつむき加減に小さく言った。
「・・・」
「入院したらもう出られない・・」
「・・・」
「僕はギリギリまで絵を描いていたいんだ」
彼は力なく、でも、何か決意を滲ませるように言った。
「うん・・」
そんな彼に私には何も言うことが出来なかった。
私たちが置かれている状況は、そんな生易しいものではなかった。それを彼は体でもう感じていた。それを私一人のほほんと、病気なんてなかったみたいに思おうとしていた・・。
「・・・」
私たちに平和なんて許されていなかったんだ。もう・・。
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