第22話 変わってしまった世界
いつしか、今まで微塵も疑いもしなかった、生まれた時からの連続した私の帰結としてある今の私の今まで見ていた当たり前の世界だったはずの世界の色は、まったく別の世界のように変わってしまっていた。
街路樹の葉っぱの緑はいつも見ていたあの緑のままで、でも、あの緑ではなかった。道端に咲く名もなき花の白も、今までの白でありながら、今までのあの白ではなかった。空の色は青かったが、今まで見ていたあの青ではなかった。
世界は一変していた。信じられないような世界の変化が私の見ている世界でだけ起こっていた。道行く人たちは今までと変わらない。何も変わらない日常を歩いている。ある人は笑い、ある人は仕事に疲れ、ある人は何かにイライラし、ある人は、希望を胸に抱き歩いてゆく。
しかし、それはもう私の中では何かリアリティのない、張りぼての群れのように、白黒映画の中の虚構のように、生きてはいなかった。
「う~ん」
彼は黙って腕を組み、ずっと自分の絵をするどく見つめていた。
「どうしたの?」
「うん?」
私が声をかけると、そこで初めて私の存在に気が付いたみたいに私を見た。
「真剣に見つめちゃって」
「うん、なんかね」
彼は絵を見つめた。
「いいなと思って」
「ん?」
「これはいいなとね。ちょっと興奮してたんだ」
「自分の絵に?」
「うん」
「はははっ」
久しぶりに彼らしさを見た気がした。
病気になる前の彼がそこにいた。穏やかでやさしくてちょっと変な彼。
私はちょっと前の、あの一番幸せだった頃のことを鮮明に思い出した。
私たちは幸せだった。確かに幸せだった。
季節は秋になろうとしていた。でも、まだまだの夏の勢いはあって、暑く日差しの強い日が多かった。まだまだ生命は活気づき、勢いよく息づいていた。
「どうしたの?」
よしえちゃんが私の顔を覗き込む。私は震えていた。がたがたと私は震えていた。よしえちゃんは私の唯一の友だちだった。どんくさくて、鈍い私を、友だちとして大らかに受け入れてくれたのは、この広い世界の中で彼女だけだった。
よしえちゃんは、動きも思考もとてもスローモーだが、心の大らかさは誰にも負けていなかった。多分、世界で一番心の広い人間に違いない。心の広いオリンピックがあったら、他を圧倒し、だんとつで金メダルを獲るだろう。
「どうしたの?」
あまりの震えの大きさに、よしえちゃんはびっくりする。
「怖い・・」
私は怖かった。
「怖いの・・」
パニックで麻痺していた私の心が、再び彼との幸せを感じ始めると、恐怖を感じ始めた。
「彼を失うことが怖い。彼がいなくなっちゃうのが怖い」
怖くて怖くて、眠る前、闇の中に身を横たえると、その恐怖に私は壊れそうになる。
夜が怖かった。闇が怖かった。彼を失うことが怖かった。怖くて怖くて、眠る前、闇の中に身を横たえると、その迫り来る恐怖に私は押しつぶされそうになる。彼のいない世界が堪らなく怖かった。それを想像するだけで私は、親を失い孤児になった幼い子供の見る夢のように、たまらない寂しさの泥沼に沈んでゆく。それは出口のない底なし沼だった。
彼が何をしたっていうの?彼が何をしたっていうの?恐怖が落ち着くと今度は怒りが湧いてくる。
「彼が何をしたっていうの?」
彼は駅前のホームレスに部屋を提供したりするほどやさしくて、穏やかで、素朴で、ストイックな生活をしていて、現代人の平均的な生活からしたら地球環境にだってよっぽど負荷をかけていない。もちろん人や社会だって傷つけていない。ただ穏やかで平穏な生活をしていただけ。世の中にはもっと悪い人間なんていっぱいいる。反吐が出るほど最低な人間なんて腐るほどいる。自分の快楽のために人を傷つけ、殺す人間。人の税金を食い物にするような悪い政治家や官僚。公害をまき散らして多くの人を殺し健康被害を与えたのに何の責任も取らずのうのうと退職金までもらう大企業の役員たち。
「なんで彼なの?」
なんで彼なの?私は怒りとも、悲しみともつかない感情の渦の中で悶えた。
「なんで彼なの・・」
私は呪わずにはいられなかった。それをしたからと言って何になるわけでもないし、そんなことよりももっと建設的な考え方や、やり方はあるだろう。でも、呪わずにはいられなかった。
「死なない、彼は死なない。絶対死なない」
そして、怒りが落ち着くと、今度は逃げようとする。迫り来る死という現実から私はなんとか逃げようとする。
「死」
その言葉を、私は避ける。それを絶対認めない。
でも、逃げられるはずもなく、私は、避けられない死という巨大な絶対と、どうしても向き合わざる負えなくなる。死は、胡麻化すことも無視することも、理屈をこねることも許されない、迫り来る確実だった。
「なんで・・、なんで・・」
そして、逃げられないと悟ると、今度は再び怒りが湧いてくる。
「なんで彼なの?なんで私たちなの?」
私は悶える。
彼が死んでしまう。この世からいなくなってしまう。私の前からいなくなってしまう。この絶対の決定が、神様なんかいないって知っていても、でも、この揺るぎない決定を私は許せない。誰にも、何にも当たることのできない、誰も悪くないこの決定を、誰も悪くないからこそ、私は怒り、憎しみ、悶え、泣いて、悲しみ、呪い、でも、結局、すべてに屈服して、崩れ落ちる。何も悪いことなんかしていない、ほんのささやかな幸せをただ望んだだけの世界の片隅でひっそりと生きていた私たちの、それすらも許されないこの理不尽を、やっと掴んだこの幸福という、私たちの想いなんか完全に無視して、こんなことを私たちに無遠慮に突きつける何かが、私は許せない。でもその何かなんて、何かでしかなく、実態のない何かに怒ることの虚しさがさらに、私を苦しめるだけで、結局何をしても出られない檻の中でじわじわと、圧縮されていく苦しみの中で、決定の遂行をただ味わうだけの実験動物のような残酷。どうしていいのか分からない、この怒りを、そもそもこれが怒りなのかというほど訳の分からなくなったぐちゃぐちゃの感情を私は抱えて悶える。
「くそっ、くそっ、くそっ」
考えて考えて、考え抜いたその先に出てくる言葉は、頭の悪いクソガキの吐くような汚い言葉だけ。意味のない、程度の低い言葉。
「くそっ、くそっ、くそっ」
でも、そんな汚い言葉を吐かずにはいられなかった。冷静にお上品になんてしていられなかった。人間の理性なんて、そんなのたかが知れた上っ面な飾りに過ぎなかった。人間は弱い。私は弱い。
「くそぉ~」
私は絶叫した。
「くそぉ~」
私は泣いた。
「くっそぉ~」
私は呟いた。
「くそっ、くそっ、くそっ」
むしろ神さまがいてくれた方がどれだけ、気が楽だったか。もし神さまがいて、全部を決めているのなら、私は神さまを私の全力で思いっきりぶん殴ってやる。そして、私のありったけを持って呪ってやる。その方がまだ実態としての私の思いのやり場がある。例えそれで何も変わらなかったとしても、でも、そこには矛先がある。
「どうしたの?」
夜中に突然玄関前に現れた私に彼は言った。
「眠れないの・・」
私は呟くように言った。
私たちはその夜、一緒に寝た。
別に愛し合うわけでもない、同じ布団の中でただ私たちは二人並んで一緒に横になり、同じ天井を見上げる。拭えない不安の中に、少しだけほんの少しだけ感じ合う、お互いの存在に救いを感じて・・。
「ねえ」
「ん?」
彼がすぐ隣りの私を見る。
「好き」
私は天井を見つめたまま呟くように言った。
「・・・」
彼も天井を見つめ続けていた。
「好きよ」
私の言葉が、闇の中に消えてゆく。私の言葉は無力で小さかった。
「うん」
これから向き合わなければならない巨大な死という、お互いの不安に押しつぶされないように、私たちはお互いの存在を確かめ合った。
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