第13話 命

 私は濃い霧の中にずっといた。物心ついた頃から何がなんだか分からないまま、なぜ、私はみんなのようにうまくやっていけないのだろうと、ずっと思っていた。なぜ、こんなに生きづらいんだろう。小さい頃から私はずっと、訳の分からない漠然とした苦しみの中を彷徨っていた。自分がどこにいて、どこに向かっているのかまったく分からない不安の中を漂流していた。

 そして、ある日突然、彼と出会った。霧は晴れ、私は確かに今ここにいる。

「私なんだか怖いの」

「何が?」

 彼が私を見る。

「幸せ過ぎて」

 私はやっと手に入れたこの大切な世界をまた失うんじゃないかと不安だった。

「なんかそんなセリフあったな、何かの映画で」

 彼はいつものように呑気に言う。

「本当に怖いの。絶対なんか不幸なことが起こるんじゃないかって、この幸せは続かないんじゃないかって・・、怖いの・・、不安なの・・」

「う~ん」

 彼はうねる。

「そん時はそん時さ」

 そして、彼はにこやかに言った。

「なるようになるよ」

「うん・・」

 彼の呑気さが救いだった。でも・・、私の嫌な予感は、結構当たる・・。

「散歩に行かないか」

 彼が言った。

「気分が落ち込み始めたら、外に出た方がいい。体を動かすんだ」

「うん」

 私たちはアパートを出た。そして、大井川の川敷に出ると、そこを歩いた。河川敷の広場で少年たちがサッカーをし、河川敷沿いの道を老人たちが散歩するいつもの光景がのほほんと広がっている。

 風が気持ちよかった。河に沿って心地よい風が吹き抜けている。その風に乗って、鳥たちがふわふわと遊ぶように中空を舞っている。

 何気ない、なんてことないことが幸せなんだと思った。私は彼の腕にしがみつくように寄り添った。やっぱり、彼といるだけで私は幸せだった。

「どこ行くの?」

 しばらくして、彼は突然、河川敷の端の、丈の高い草むらの方にがさごそと入って行く。彼は振り向き、こっちこっちと手招きする。

「・・・」

 私も、訳が分からないながら彼の後ろを追った。

「ほら見て」

 草むらの中ほどに来た時だった。彼が草むらの下の方を指差した。

「あっ」

 そこには丸い巣のようなものがあり、その真ん中に卵が七つあった。

「一個減ってるな。アオダイショウかな」

 彼が巣を覗き込み呟く。

「鳥の巣?」

 私は彼を見る。

「うん、多分キジじゃないかな」

「キジ?キジってあのでっかい赤くて緑色の?」

「うん」

「あんなのがこの辺にいるの?」

「うん、時々見かけるよ。結構、自然が残っているんだよ。この辺も。ほら、山がすぐ近くにあるだろう」

「うん」

「それに田んぼなんかもけっこうあるし」

 確かに、河川敷周辺は住宅地ではあったが、山も近くにあるし、田んぼや畑もたくさん残っていた。

「孵るのかな」

 私は卵を覗き込みながら彼に訊いた。

「うん、分からないけど、多分、うまくいけばちゃんと雛が生まれるんじゃないかな」

「へぇ~、楽しみだね」

「うん」

「いつも見ているの」

「うん、この前発見してね。ちょくちょく覗いてるんだ」

「へぇ~」

 私たちは並んでしゃがみ込み、卵を見つめた。

「うまく孵るといいね」

「うん」

 私たちは、黙って卵を見つめ続けた。

「そろそろ行こうか」

 しゃがんだ足が痺れ始めた頃、彼が言った。

「うん」

 私たちは立ち上がった。あまりに長いこと卵を見ていたせいで足が痺れて動かなくなっていた。私たち二人は老人のような足取りでよたよたと草むらを出た。

 その帰り道だった。

「あっ」

 河川敷に並行して走っている道路に出ると、その真ん中に、猫が横たわっていた。

「まだ生きてる」

 近寄ってみると、まだ微かにお腹が動いている。

「バイクに轢かれたんだな」

 彼が、道路のタイヤ跡を見て言う。

「どうしよう」

 私は彼の顔を仰ぎ見た。猫は虫の息だ。口から血も出ている。

「病院連れてかなきゃ」

 私は焦る。

「・・・」

 しかし、彼は、じっと黙って猫を見つめていた。

「この辺に動物病院てないの?」

 私は彼を見る。彼は、しばらく猫を見つめた後、私と同じように猫の前にしゃがみ込んだ。そして、猫に手を伸ばした。

「えっ」

 そして、彼は突然猫の首をひねった。

「えっ、なんで?なんで?」

 彼の突然のその行動に、私は気が動転してしまった。

「なんで、殺すの」

 私は彼を責めるように言う。

「もう助からないよ」

 彼は小さくそう言った。

「でも、こんな・・」

 私は死んだ猫を見つめた。

「こうするしかない」

「でも・・」

「苦しむのをただ見てるのか」

 彼はいつにない厳しい顔をして私を見た。

「・・・」

 私は何も言えなかった。

「僕のおじいちゃんが、昔同じことをしてたよ。僕の実家は田舎だから、早朝なんかに、よく猫やタヌキなんかがこいつと同じように道路で轢かれてるんだ。中にはまだ息をしているのもいてね」

「・・・」

「僕も小さい時はおじいちゃんのやり方が納得いかなくて、まだ息のあった小さな猫をさ、家に持ち帰っていろいろ手当してやるんだ。動物病院に連れてったこともある。でも、結局死んじゃった」

「・・・」

「結局苦しめるだけなんだよ」

「でも・・」

「僕も子どもの頃は残酷だなって思ったけど、でも、そうするしかないなって今は思うんだ・・」

「・・・」 

 彼の言っていることは分かった。でも、やっぱり納得できない自分がいた。それは彼が悪いわけじゃない。でも・・、でも・・。

「埋めてやろう」

「うん・・」

 彼が死んだ猫を両手で抱え、私たちはそこから、一言も口を利かず彼のアパートまで帰った。

「ここにしよう」

 彼が言った。アパートの裏手に、私たちはその猫を埋めた。

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