第3話 彼のアパート

「うちに来ないか」

 彼が言った。

「今日はもうおしまい?」

 まだ日は高く、天気は良かった。

「うん、今日はなんだか天気が良いし・・」

 彼は空を見上げた。天気の良い日は今までにいくらでもあったが、多分、彼の気まぐれなのだろう。

「・・なんとなくね」

 彼は歩き出した。それを私は追いかける。

「どこに住んでいるの?」

「すぐ近くだよ」

 彼は河川敷の方を指さした。

「近く?」

「うん、すぐそこの大井河脇の文化アパート。家賃が安いだけが素晴らしい、ボロボロの部屋さ。そこにもう十年住んでる。でも、なかなか感じは良いんだ。気に入ると思うよ」

「うん」

 私は、彼について、彼の家に行った。

「結構広いんだね」

「うん、昔の作りのわりに、居間が八畳あって、隣りに四畳の小部屋までついてる」

 彼の住むアパートは、絵を描いている場所からほど近い場所にあった。

「わあ」

 窓から外を覗くと、アパートの向かいは、小さな道路を挟んですぐ横の土手を越えると、もうすぐに大井川の河川敷だった。大井川はこの地域では一番大きく、夏には盛大な花火大会も開催されている。

「なんかいい感じだね」

「うん、そうだろ」

 彼のアパートの部屋は、よく日が当たる割に、河からのどかな風が入り込み、妙に涼しく不思議と心地よかった。

「なんかいいんだ。だから もう十年以上も住んじゃった」

 彼は私の隣りで同じように大井川の河川敷を見つめた。二階の窓からは河川敷がよく見えて、子どもたちが遊んだり、犬の散歩連れや、お年寄り夫婦の散歩姿など、のどかな風景が広がっている。

「それに静かなんだ。この変じゃ珍しいだろ」

 八部屋あるこのパートは、二階の一番南端に彼と、その反対の端の一階におばあさんが一人住んでいるだけだった。

「二人しか住んでないのに、よくつぶれないね」

「そこが不思議なところなんだ」

 そう言って、彼は笑った。

「私もここに引っ越そうかな」

「いいんじゃない。隣り空いてるよ」

「はははっ」

 私たちは笑った。

「花火大会あるだろ」

「うん」

「この部屋から花火がきれいに見えるよ。見に来たらいい」

 窓辺に腰掛けながら、彼は言った。

「うん」

 私もその隣りに腰掛ける。

「ほんとにいいとこだね」

「うん」

 部屋にいるだけで、なんか妙に落ち着く。本当にいい感じだった。涼しい何とも言えない心地良い風が、部屋と私たちをすーっと吹き抜けていく。

「なんで、二人しか住まないんだろ」

 私は不思議に思った。

「そこがほんと不思議なところなんだ。家賃も安いしね」

「なんかあったのかな」

「う~ん、可能性はあるね」

「自殺とか?」

「殺人事件かもしれない」

「なんかいわくがあるのかな」

「きっとあるんだろうね」

「なんだろ」

「さあ、でも、あっても気にしないけどね」

「はははっ」

 多分、この人は本当に気にしないんだろうなと私は思った。そう思うと、なんだかおかしくなって笑ってしまった。

「そんなにおかしい?」

「ううん」

 きっと説明しても分からないだろうから、笑っている理由は黙っていた。

「ゴッホ好きなんだ」

「うん」

 改めて彼の部屋を見回すと、部屋の壁は無数のゴッホの絵で飾られていた。

「全部自分で描いたの」

「うん、全部原寸大だよ」

「へえ~、すごい。よく描けてる」

 私は顔を近づけて見た。

「細部まで念入りに描いているからね」

 私は、その絵を眺めていった。

「いいだろ。ゴッホ」

「うん、私も好き」

「僕は美術美術している絵は好きじゃないんだ。でも、ゴッホだけは好きなんだ」

「私も、美術の授業とか苦手だったけど、教科書に載ってるゴッホの絵だけはなんかいいなって思ってた」

「ゴッホの作品全部を描くのが目標なんだ」

「凄い目標だね」

「うん、果てしないけどね」

「何枚描いたの。ゴッホって」

「さあ、でも、少なくはないよ」

「大変だね」

「うん、でも、人生はまだまだあるさ。時間もね」

「そうだね」

 そんな人生も素敵だなと思った。

 私たちは、並んで畳の床に座り込み、壁に掛かるゴッホの絵をゆっくりと鑑賞した。

「なんか 贅沢だね」

「うん、美術館じゃこんなにゆったり見れないからね」

「うん」

 本当に、ここだけゆったりと時間が流れているような錯覚に心地よさを感じながら、私たちは絵を見つめた。

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